願い、喰らい

 たとえこの先、どれほどの時が過ぎようとも、俺は必ずあいつを迎えに行く。

 その願いを抱いて里を離れて、幾年月が過ぎた。
 無尽蔵に湧いてくるかのようだった鬼が目に見えて数を減らし、百鬼隊が徐々にその活動を収束していき、ついに霊山へ戻れとの命が下ったその時、相馬はようやく己の念願を叶えるべく、ウタカタの里に足を踏み入れた。
「ああ……ここは変わらないな」
 かつて百鬼隊、九葉、暦と共に駆けた道をたどって行き着いた先は、天を覆うかのように見事な枝葉を伸ばした神木を中心に広がる、緑豊かな里だ。
 かつて鬼との戦で最前線となっていたウタカタは今やすっかり平和になったのか、里を闊歩するモノノフ達の姿もまばらになっている。
 だが、モノノフが居なくなったのではない。彼らは鎧を脱ぎ、武器を手放して、普通の里人として日々の暮らしを楽しんでいるようだ。
「……あらっ、あなたは相馬様じゃありませんか?」
「相馬さん! うわぁ、お久しぶりです、お元気でしたか?」
「キャーッ相馬様ぁ、相変わらずすてきーっ!!」
 かつて共に戦った者達は、各々歓声を上げて相馬を迎え入れてくれた。里に滞在したのはあの戦いの中での数ヶ月だけだったが、彼らはこちらを覚えていてくれたらしい。
「ああ、久しいな、皆。息災のようで何よりだ。
 ここもずいぶん落ち着いてきたようだな」
 わっと集まってきた多くのモノノフや里人達に囲まれて言葉を交わしていると、
「よう、相馬! また突然のお帰りだな。戻ってくるならそうと知らせてくれればよかったのに」
 そこへひょいっと現れたのは、ウタカタきっての伊達男、息吹だった。
 彼はまだモノノフをやめていないらしく、光沢を放つ上等な陣羽織の背に愛槍を負い、装った軽薄さは以前のまま。
 しかし歴戦の勇者らしく、端正な顔や立ち居振る舞いは落ち着いた大人の余裕が感じられ、男ぶりが上がっているようだ。悪友との再会に、相馬は笑みこぼれた。
「急に手が空いたのでな、連絡をする間も惜しかった。息吹、またお前に会えて嬉しいぞ。
 相変わらず振られっぱなしの人生か」
「抜かせ、ウタカタの女は皆俺に夢中で、夜も眠れないくらいのもてっぷりだぜ」
 ふざけて相馬の肩をどんと叩いた息吹が、ああしかし、と口の端を上げて笑みを形作る。
「このウタカタでただ一人、どうあっても俺の誘いに乗らない、頑固な女がいるな。
 この俺を袖にするくらいだ、他の男なんか目に入らないらしくて、いい年してまだ彼氏の一人もできやしないんで、俺としてはずいぶん心配してるよ」
「…………そうか」
 それが誰を指しているかは、聞かずとも分かる。分かってはいたが、思わずほ、と安堵の息を漏らした。
 ここ数年、こちらから一方的に近況を送るばかりで、ウタカタの様子は人の噂くらいでしか聞いていなくて、離れている間の詳細は何も把握できなかった。
 だから相馬は、口には出さなかったが、いつも不安を抱き続けてきた。
(待っていろと言った。言ったが、これだけ長い事離れていれば、あいつが心変わりしてもおかしくない)
 そもそも、彼女は彼に明確な好意を示してはいない。
 無論、仲間としての絆は感じていたし、分霊したミタマの藤原千方や、時の彼方で救われこの地に結ばれた事を通じて、自身の魂が彼女とつながっているという実感もあった。
 けれどそれは、相馬が彼女に抱いている好意とは別だ。
 あの時、彼が強引に口づけて待っていろ、と詰め寄ったから、気の優しい彼女は応といわざるを得なかったのかもしれない。後でその可能性に気づいた時、剛胆な相馬であっても、ひやりと寒気を感じる思いがした。
 だとすれば、長い間会いにも来ない男にしびれを切らして、彼女が他の男と結ばれたとしても、相馬が文句を言う筋合いはない。
 何しろどんな相手の心も結び付けてしまう、ムスヒの君となれば、引く手あまただろう。
 しかし息吹によれば、彼女はいまだ独り身だという。ならば相馬が躊躇する必要などこれっぽちもない。
「それなら早くあいつに会いたい。今どこにいるんだ?」
 途端に落ち着きを無くし、急いて問いかけると、息吹はニヤニヤと笑いながら、
「そんなに焦らなくても、この騒ぎを聞きつければ、どこにいたって何事かと顔を出してくるさ。……ああほら、来たぜ」
 そういって鬼ノ府本部の方角を指さした。
 それをたどった相馬は、階段の一番上に立つ人影を捕えて目を細めた。
ちょうど逆光で、細かな様子はほとんど分からないが、その姿かたちは夢に何度も見たものと寸分たがわず、
「――相馬……えっ、相馬なの!?」
 こちらを見下ろして驚いたように発したその言葉は、凛凛と鈴のように心地よく耳に響いたので、相馬は思わず破顔して、里じゅうに響くような声で答えたのだった。
「今帰ったぞ、咲! 約束通り、お前を迎えに来た!!」

 英雄の再訪を歓迎しての宴はよっぴいて続き、飲めや歌えやの大騒ぎで、最終的には何の祝いだったのかも分からなくなるほど皆、泥酔してしまった。
 酔っ払いばかりで混沌と化す会場から、頃合いを見て相馬は咲に誘いをかけた。
「やっとここに帰ってこられたからな。お前と二人で、じっくり話をしたい」
 熱を込めて誘うと、咲は一瞬迷うように視線をさまよわせたが、
「……そうだね、ここじゃどうにも落ち着かないし。じゃあ行こうか、相馬」
 腰を上げると、累々と横たわる人々の間をすり抜けて歩いていく。
 その立ち居振る舞いは音も立てず、昔よりもいっそう洗練された無駄のない動きで、
(あれからまた強くなったのか。何とも頼もしい奴だ)
 すぅっと背筋の伸びた後ろ姿にほれぼれしながら、相馬も後に続く。
 一歩外に出れば、ひんやりとした夜気が火照った頬を優しく撫でた。人いきれでのぼせていたのだろうか、空気を吸い込めば、頭にかかっていたもやが晴れていくような心地よさがある。
「ここはいつ来ても気持ちのいい里だな。昔も、最前線だと言うのが嘘のようなのどかさだったが――神木のおかげか? また一段と大きくなっている気がするが」
 里のどこにいても見る事が出来る神木は、相馬が滞在している間も目をみはるような成長ぶりだったが、もはや天をつくような巨木となっている。咲が小さく苦笑した。
「あの神木は実に食欲旺盛だからね。そりゃあ、大きく育ちもするよ」
「何だ、まだお前が世話をしているのか。熱心な事だ」
「まぁ、お使いを言いつかるのには慣れてるから。それに、神木がのびのびしてるのを見てると、こっちも元気になるしね」
 前半はよく分からないが、後半は同意だ。相馬はしんみりと、夜空に浮かび上がる神木の影を見つめる。
「あれはこの里で生きるもの、死んだもの、全てを見守る大切な存在だからな。
 大事に育ててくれているのなら、俺からも礼を言おう。ありがとう、咲」
「どういたしまして。どうせなら、今からお参りにいこうか?
 相馬が帰ってきてくれて、きっと、百鬼隊の人たちや神木の精も喜ぶよ」
(神木の精? そういえば前もそんな事を言っていたような……)
 おかしな事を言う奴だと思ったが、彼女はただひとではないから、自分には見えないものが見えるのかもしれない、と考え直す。
 本当に神木に宿る精霊がいるのなら一目見たいものだと好奇心が疼いたが、
「いや、それは明日にしておこう。顔を合わせるのなら明るい内がいい。
 あいつらもこんな時間には寝入っているだろうしな。それより今は」
 一抱えはある徳利を軽く揺らして、水音を鳴らした。
「こいつでお前と一献交わしたい。水と米が美味い北の地で手に入れた、これまで口にした事がないくらいの美酒だぞ」
 相馬が百鬼隊を率いて訪れたとある里、鬼の襲撃で荒れ果てたそこを何とか立て直そうと始めたのが酒蔵だ。
 丹精込めて作られた第一号の酒は、ぜひイツクサの英雄に飲んでもらいたいと、里人全員の願いを込めて差し出されたものだった。
 その思いを受け止めた相馬はもちろんありがたく頂戴し、ウタカタへの手みやげとして、昼夜を問わず馬を走らせてきた。果たして、
「そんなに美味しいの? それなら楽しみだな。ちょうどおつまみをいくつか作ってあるから、それを肴にご相伴に預かるよ」
 穏やかな見た目に反してかなりいける口の咲は、嬉しそうな表情で徳利に目を奪われている。
 先ほどまでの宴でもかなり杯を進めたはずだが、顔色は至っていつも通りだ。
(これは酔いつぶすのは無理そうだな。
 ま、はなからそんな事をするつもりはないが)
 美味そうに味わいながらすいすいと杯を空けるのを見ているのは、気分がいいものだ。
 家にたどり着き、扉に手をかけた咲を見ながら、さて何の話から始めたものか、と考え始めた相馬だったが、「ん……しょっと」
 がたごと、と苦労しながら引き戸を開けているのを目にして、眉を上げた。
「何だ、ずいぶん立て付けが悪くなったんだな」
「うん、最近、人の出入りがっ、ずいぶん多かったからっ……」
 力任せに開けようとすれば、あっと言う間に粉砕してしまうからなのか、咲はずいぶん四苦八苦して戸を押し開けている。
 たたらのじいさんに修理を頼めばいいんじゃないか、と思いながら、相馬も手を伸ばした。
 少しずつ開く戸の上方をつかみ、
「よっ……と」
 わずかに斜めに傾いている戸を持ち上げ、開くのを手伝う。それでようやく戸袋に板が収まり、
「ああ、ありがとう相馬、……っ」
 ほっとしたように振り返った咲が、不意に息を飲んだ。
 その音が、大きく見開いた目が、顔色が変わらないと言ってもやはりわずかに上気した頬が、相馬の顔のすぐ前に迫っている。
「……咲」
 戸口に寄りかかり、硬直する彼女の名を呼んで、相馬は躊躇いなく顔を寄せた。
 数年ぶり、二度目の口づけは、優しく重ね合わせただけ。
 ただ唇と唇が触れているだけなのに、どうしてこうも胸が熱く、幸福な気持ちに満たされていくのだろう。
 重ねた下で、咲の唇が震えて、そうま、と囁いた。
 これもだ。
 彼女が自分の名前を口にするだけで、どうしようもなく心が震える。
 一度触れてしまえば、理性はあっと言う間に吹き飛んだ。
 そこから何をどうしたのか自分でも覚えていない。
 気づいた時には寝台の上に彼女を押し倒していた。
 手から落ちた徳利がごろりと音を立てて床に転がっていくのを聞きながら、相馬は息を吐き出す。
「咲。
 お前に会いたかった。
 お前の声が聞きたかった。
 お前を抱きしめたかった」
「そ……相馬、ちょ、っと……こ、こういう事はその、困る」
 みっともなく息を荒げるこちらに対して、咲は真っ赤になりながらも、のしかかるこちらの胸をぐっと押し返した。
 起きあがって、逃げるようにささっと距離を取る。
「は、話をするというから来たのに、その、さっきのもそうだけど、いきなり、やめてほしい」
「どうしてだ。俺とでは、嫌か」
 やはり自分は先走りすぎているのだろうか。
 彼女は相馬に対して仲間以上の気持ちはなく、迫られても応えるつもりはないのか。
 心中恐れながら、勢い任せに問いかけると、彼女はふうう……、と大きなため息を漏らした。
「――そこに座って、相馬」
「咲、俺は……」
「いいから座って下さい」
 威圧的なまでの敬語で命じられ、相馬は思わず寝台の上で正座になった。
 その前に膝をそろえた咲は、じろっと彼を睨みつけて口を開く。
「あなたは隊を率いて鬼と戦う時はあれほど気配りをもって皆を統率できるのに、私事においてはいつもせっかちで、自分勝手すぎます」
「そんな事は……」
「あります。長く前線で戦って経験を積んでいるから、自分の判断に絶対の自信があるんでしょうけど」
 びし、と眼前に指を突きつけられる。
 お、と軽くのけぞった視界には、腕越しに憤懣やるかたない表情を浮かべた咲が映っている。
「あなたが里を去ってからというもの、いったい私がどんな思いでいたか、想像した事があるんですか?」
 それはもちろんある。さっさと自分に愛想を尽かして、息吹辺りとくっついていたら、とか。
 そんな事になっていたら俺は息吹を倒さねばならん、とまで。
 だが、彼女の言い分はそれとは全く違っていた。膝の上に拳を作り、長いまつげを伏せて小さく語る。
「突然、その……自分を待っていろなんて言うから、もしかして相馬は私の事が好きなのかもしれないって、一ヶ月くらい悩んで」
「……そんなに悩んだのか。
 俺は好きでもない女に手を出すほど、節操なしじゃないぞ。息吹じゃあるまいし」
「息吹だってそんな事しません。
 それで、他の人の意見も聞いて、そうに違いないって思ったら、今度はあなたの事が頭から離れなくなってしまって」
「……え?」
 聞き違いかと一瞬思ったが、聞き返した途端、咲の頬にぱっと血の気が上った。
 かたくなに俯いて、相馬と目を合わせないまま、
「そうしたらその内あなたから手紙が来るようになって。
 だけどその中で、あの日の事なんて全然書いてなくて、近況報告ばっかりで……返事を出そうとしても、百鬼隊はすぐどこかへ行ってしまうから、行商人のおじさんにお願いする事も出来なくて」
 ぐぐ、と拳に力を入れて、段々声が大きくなっていく。
「その調子で何年も何年も経って、もうあの時の事は気の迷いとして忘れてるんじゃないかと思ったら、いきなり戻ってきて迎えに来た? しかも、こんな……夜中に押し掛けてきて、色々話し合う事だってあるでしょうに、こ、こんな失礼な事されて、私がどうして喜ぶんですか、もう馬鹿じゃないの!?」
「うおっ!」
 ぶん、と不意にふるわれた拳を、相馬は反射的に避けた。
 互いに座っているからそこまで勢いはないが、並の男なら一発で部屋の隅まで吹っ飛ばされてもおかしくない。
 しかも拳はやむことなく、風を切って次々と襲いかかってくる。
「ちょ、ちょっと待て、咲落ち着け! いつもの冷静さはどこやった!!」
「これが冷静でいられるか!! あなたのせいで私はもう何年も悩んで悩んで悩み抜いてきたのに、ひょっこり現れて何が会いたかった、だ! それならもっと早く会いに来ればよかったじゃないの、すかたん!!」
「仕方ないだろう、蝕鬼を狩り尽くして、小鬼に至るまできれいに片づけて、俺が世界を守った英雄だと胸を張ってお前のところへ帰りたかったんだから!」
 ばし、と両手首をうまいこと捕まえてようやく拳の応酬を止めた相馬が叫ぶと、彼女がぽかん、とした表情になった。
 な、と絶句するのを隙ありと見て、相馬は素早く腕を動かし、足の間に挟み込んだ咲を抱きしめる。
「ちょ、そ、相馬っ……」
 慌てて逃げようとするのを巧みに防ぎながら、相馬は首筋に顔を寄せて、ふわりと立ち上る彼女の香りと酒の匂いにうっとりした。
 夢にまで見た女の実体は暖かく、柔らかく、かぐわしい。
「……待たせて済まなかった。
 俺の悪い癖だな、何も言わずともお前は分かってくれているような気になっていた。
 せめて、熱烈な恋文でも送るべきだったんだろうが、紙の上でいくら言葉を重ねても、まるでうそっぱちに思えてな。
 何枚あっても、この気持ちを表す事が出来なくて、結局当たり障りのない内容になってしまった」
 息吹のように美辞麗句がすらすら出てくれば、これほど彼女を悩ませはしなかったのかもしれない。
 あるいは、誓いを果たすまでは会わないと男の意地を張り通さずに、ちょくちょく顔を見に来ればよかったのかもしれない。
 だが、一方で思う。
「これだけ長い間、お前が俺を思い続けてきてくれたのなら、これほど嬉しい事はない。じらした甲斐があったものだ」
「……なにそれ、たち悪い……」
 じたばたしていた咲が不意に力を抜いて、ぼそっと呟いた。
 腕の拘束を緩めて軽く体を離すと、冷静で常に穏やかな笑みを見せているはずのウタカタ討伐隊隊長は、耳まで真っ赤になって、じと目で相馬を見据えていた。
「安心しろ、咲。
 お前が思っているよりずっと、俺はお前が好きだからな」
 どこか子供っぽさの残るその表情もまた愛らしくて、相馬はニッと笑い返す。膨れた頬を手で包み込み、優しく撫でながら、三度、口づけを交わす。
 一度目は予想外の事に困惑され、二度目も不意打ちで彼女を緊張させて怒りまで誘発してしまった。
だから三度目のこれこそ、恋人同士の口づけだ。
「っ……相、馬……」
 恥じらいで怯えたように身を引きかけるのを制して、四度、五度、そして数え切れないほど何度も、ふれ合う度によりいっそう深く、唇を重ね合わせる。
徐々に脱力していく体をそっと横たえ、相馬は優しく笑いかけて囁きかけた。
 ――この瞬間をずっと、ずっと待っていた、と。

 翌朝。
 何の警戒もなく咲の家から出た相馬は、宴会明けにも関わらず、朝の訓練帰りの桜花と、それにつき合わされたらしい息吹に出くわした。
「相馬、また咲の家に押し掛けたのか? いきなり来たと思ったら、相変わらず強引だな。
彼女はどうしてる、さすがに酔いつぶれたのか」
「あっ、桜花、それは聞かない方が……」
 桜花もまた無防備に問いを投げかけ、脇にいた息吹が察して止めようとしたが、遅かった。相馬は、近年まれにみるほど爽やかな笑顔を浮かべて、 「ああ、あいつならまだ寝床だ。寝付いたのが朝方だからな。
 疲れているだろうし、昼まで起きてこないだろうから、そっとしておいてやれ」
 と答えた。
 ――その数分後、事情を理解してしまった筆頭モノノフと、イツクサの英雄との大乱闘が起こったのは、言うまでもない。