とっぷりと夜が更け、静まり返った里。木々のざわめきや虫の声だけが響く静寂の中、富嶽はずしずしと重たい足音を立てて歩いていた。モノノフの名に相応しいこわもては、いつも以上の渋面になっている。
「――ったく、何で俺がこいつを送らなきゃならねぇんだ」
ぶつぶつ言いながら肩越しに目をやると、隊長が真っ赤になったしまりのない顔でのんきに寝息を立てているのが見える。おぶった体を背負いなおして、富嶽はげんなりため息をついた。
「弱ぇくせに、酒に飲まれるほど飲むんじゃねぇよ」
今日は里の皆が集まっての大宴会で、飲めや歌えやの大騒ぎだった。
普段鬼との戦いの日々を送り、常に息をひそめて生きている人々だからこそ、たまにはめを外すと際限がない。夕方から始まった飲み会は延々と続き、夜更けをすぎてようやく終わるという有様になってしまった。
富嶽もたまの無礼講に酒杯を進めたが、もとより酒に強い質なのと、もし今この時鬼が襲撃してきたらという危機感があって、意識を手放すほどには飲まなかった。
それは他のモノノフも同じだったのだが、どうやら隊長は自身の許容量を見誤ってしまったらしい。あるいは、鬼退治の立役者とばかりに次から次へと酒を注がれて断れなかったのが悪いのか。
さすが隊長、良い飲みっぷりだと持て囃されるまま、調子に乗って飲み続けた結果、ぱったりと寝落ちしてしまったのだ。
『これでは帰れそうにないな。富嶽、君が送ってあげてくれないか』
宴の片付けが始まる中、彼女を起こそうと何度か試みた桜花が、しまいには諦めてこっちに話を振ってきた。当然富嶽は、
『ああ? 何で俺がそんな事しなきゃならねぇんだ。そのままここに転がしておけよ。目が覚めりゃ自分で帰るだろ』
と返したのだが、
『こんなところで一晩過ごしたら風邪をひいてしまうかもしれないじゃないか。それに酔った女性をこのまま放置しておくなんて、できないだろう?』
『相変わらず過保護な奴だな……ならてめえでやれよ。できねぇなら他の奴に頼め。俺は酔っ払いの面倒なんざごめんだ』
すげなく断るも、桜花は強情だった。できるものならそうしている、と渋い顔で腕を組む。
『私はこの場の後片付けと、念のため里の見回りをしなければならないんだ。それに他の者といっても――』
言葉を切った桜花が向けた先にいたのは、息吹と速鳥だ。
息吹は膳を片付けようとする女性に声をかけて何やら絡んでいる。速鳥は宴会の楽しさにつられてやってきた天狐を一心に見つめて微動だにしない。
『息吹は彼女が素面でないのをいいことに悪さをしそうだし、速鳥は隊長の家に送っていったとして、天狐に夢中になってその辺の床に投げ捨てそうだ。
あの有様で、我らが隊長を安心して託せると思うのか?』
『……ああ……まあな……』
いくら何でもそこまで、と思いたいが、あの二人ならあり得そうだ。思わず同意してしまうと、桜花はにっこり笑って富嶽の肩を叩いた。
『だから君に頼みたいんだ、富嶽。君なら彼女を送って、きちんと世話してくれそうだからな』
そういわれると、断りにくい気がしてきた。確かに自分なら、他の男どもよりはましな扱いをする理性くらいは残ってる。
盃に残った酒を飲みほした富嶽は、ちっと音高く舌打ちして腰を上げた。
『しょーがねぇな……今回限りだぞ、酔っ払いどもが』
――そんな経緯で今、富嶽は隊長を家まで送る途上にあった。
仕方なく請け負った任務だが、とりあえず隊長は大人しく寝ているので、運ぶのには苦労しない。
さっさと家に連れていっちまえとばかりに富嶽は足早に階段を降り、人気のない里の広間を通り抜けて、隊長の家へと向かった。
「よっと」
足で引き戸を開けると、暗闇に沈んだ室内の中、白い毛並みの天狐がぴょんと顔を上げ、
「キュイッ!!」
帰りを待ちわびたといわんばかりに駆け寄ってきた。
「おい、俺はてめえのご主人様じゃねぇよ。ちょっとどいてろ」
危うく踏みそうになった富嶽はしっしっと口で言いながら歩を進めた。
この家に入った事は数えるほどしかないが、迷うほど広くもない。さっさと寝室へ向かい、
「そらよっ……と!」
どさっと乱暴に隊長を寝台の上に放り出した。荷物のような扱いを桜花が見たら叱られそうだが、
(俺の仕事はこいつを家に送ることだけだからな。それ以外は知ったことか)
全く面倒くせぇと唸りながら出ていこうとした。と、
「……ん……あれ……富嶽……?」
声が聞こえて、つい足を止めてしまった。振り返れば、投げ出された格好のまま、隊長がぼんやりした表情で顔をこちらに向けている。
「おう、目が覚めたか」
「うん……えーっと……ここ家……?」
「ああそうだよ、てめえが酔いつぶれちまったから、俺がわざわざ送ってきてやったんだ。ったく、調子に乗ってみっともねぇ飲み方してんじゃねぇよ」
「……そうか……ごめん、ありがと……」
ようやく状況が理解出来たのか、隊長は額に手を当てて、はぁ、と重たく息を吐き出した。上気した肌には薄く汗が浮かび、軽く眉根を寄せていて、気分上々というわけでもなさそうだ。
その様子を見て富嶽は躊躇してしまった。自分でも似合わないと思いつつ、弱っている相手を見ると、世話を焼きたくなってしまう。
さっさと立ち去ればいいものを、少しの間迷った後、舌打ちした富嶽は、向き直って声をかけた。
「てめえ、気分でも悪いのか。水飲むか?」
「……うん……お願いできる……」
「ちょっと待ってろ、今持ってくる」
どたどたと足音荒く家の中を歩いて、椀に水をためてまた戻る。横になったままではこぼしてしまうので、肩に手をかけて上体を起こすのを手伝い、
「ゆっくり飲め。こぼすんじゃねぇぞ」
器を持つ手ごと支えて、口に含ませた。隊長は大人しく言う事を聞いて、椀いっぱいの水を飲みほす。
はああ、と大きく息を吐き出すのを横にさせると、富嶽はもう一度水を入れてきて、脇の棚の上に置いた。ぼうっと天井を眺める隊長の顔を覗き込んで、
「飲みすぎた時は水をじゃんじゃん飲んで、外に出しゃあ楽になる。後でまた飲んでおけ。他になんか欲しいもんあるか」
聞いてみたが、隊長はううん、と小さく首を振った。へらっと顔を緩めて笑いかけてくる。
「ありがと、富嶽……ちょっと、楽になったかも」
「そうか、ならよかった。俺ぁこれで帰るからな。便所いっとけよ」
結局世話しちまったと思いながら身を引こうとした富嶽はしかし、
「あ……富嶽、帰っちゃうの」
隊長が一転、眉を八の字にして悲しそうに言うものだから、つい動きを止めた。
「そりゃ帰るに決まってんだろ。ガキじゃあるまいし、てめえの面倒くらいてめえでやれよ」
こいつ俺にずっと面倒見させる気かと顔をしかめてしまったが、
「富嶽、帰っちゃやだ」
まさに子供のようにあどけない口調で、彼女がこちらの手をぎゅっと掴んできたから、びっくりしてしまった。
隊長は人懐こいが、普段は自分から触れてくるような事はほとんどしない。それもこんな、熱に浮かされたように潤んだ目で、警戒心のない無防備な表情で見つめてくるなんて事は。
「ば、馬鹿、離せよ」
急に顔が熱くなった気がして、富嶽は慌てて振り払おうとした。
だが、双刀で大型鬼の上体に飛びすがる隊長の握力は普通の女のものではなく、手かせは容易に外れない。
これ以上力をこめたら寝台から放り出してしまいそうだと躊躇う隙を狙うように、隊長はこちらの手を両手で包んで抱きしめてしまった。そのせいで、ふに、と弾力のある柔らかい感触が手の甲に当たって、ますます熱が上がる。
「おいてめえ、いくら酔っぱらってるからってふざけるのも大概にしろよ!」
つい声を荒げたが、相手は意に介さず、
「富嶽の手、おっきくてあったかいね……すごく安心する」
などと呟いて一向に離す気配がなかった。
そのまましばらくの間、何とか手を取り戻そうと四苦八苦した富嶽は、しかし最後には根負けして寝台に腰を下ろすはめになった。
「……わーった、帰らねぇ、帰らねぇから、ちょっとだけ手離せ。掴んでてもいいが、その、そんなきつく抱きしめんじゃねぇよ……」
こういったところで無駄だろうと諦めながら言うと、隊長は目だけ動かして富嶽を見上げ、へへーっと嬉しそうに笑いかけてきた。
「うん……分かった」
そう言って力を緩めたので、富嶽はほっとして手を引いた。
そのまま逃げてしまっても良かったのだが、子供のように全面的な信頼を浮かべた表情を目にしてしまうとそれも可哀そうな気がして、隊長の手と自分の手をつないでやった。
富嶽のそれと比べれば枝のように細い指に絡ませると、彼女は安心したようにほーっ……と深い吐息をもらし、
「……ありがとう、富嶽……だいすき……」
そのまますとん、と目を閉じて寝入ってしまった。まるで幼子の相手をしているようだ、と富嶽もため息をついて肩の力を抜いたが、
「キュイー」
不意に闇の中から白い毛玉が突進してきて、富嶽の膝の上に飛び乗ってきた。
「あっ、てめえまで何してやがる! 降りろ!」
「キュキュッ!」
文句を言ったがこちらも聞く耳を持たず、天狐はさっさと体を丸め、尻尾に顔をうずめて寝入ってしまう。すーすー、と心地よさげな寝息が二つ響く中、身動き叶わなくなってしまった富嶽は、
「……ったく、何でこうなるんだ……」
空いた方の手で顔を覆い、がっくりしながら呻いてしまった。富嶽の夜はまだ長く、朝は気が遠くなるほど遠い……。
ちゅん、ちゅん、と軽やかな鳥の声が聞こえる。
瞼に暖かな光を感じて、彼女は小さく声を漏らして目を開いた。
ぼんやりとかすむ視界を何度か瞬きしてはっきりさせると、窓から差し込む陽光に照らされた自室が目に入った――否、そこは確かに自室だが、明らかに見慣れないものが視界を塞いでいる。
「え……え?」
まだ寝ぼけた頭を持ち上げてみる。
今度は何かの間違いじゃないかと思って瞬きを繰り返したが、それは幻でも何でもなく、確かな存在感でそこにいた。何しろ重みで寝台が傾いているくらいだから、間違えようがない。
「えっ、富嶽! な、何でここにいるの!!?」
思わずがばっと起き上がって叫ぶと、壁に寄り掛かって目を閉じていた富嶽が、顔をしかめて瞼を上げた。んん、と不明瞭な呻きを漏らし、不機嫌な顔でじろっとこちらを睨み付けてくる。
「よお起きたかよ、この酔っ払いが」
「よ、酔っ払いって……」
「てめえ……あんだけ面倒かけておいて覚えてねぇのかよ? 宴会で酔いつぶれた挙句、家までわざわざ送ってきてやった俺に、やだやだ帰るなと駄々こねてよ。……もういいだろ、手ぇ離せ」
「えっ。……あ、わ、ご、ごめん!!」
言われてみれば確かに、富嶽と手をがっちり繋いでいる。強張ってなかなか指が動かせないところからして、これは一晩中繋ぎっぱなしだったのではないか。
慌てて手をはがすと、富嶽は手を開き閉じして肩をぐるぐる回した。
「ったく、てめえのせいで一晩中、こんなところで寝る羽目になったぜ。おかげで体がいてぇ」
「ご、ごめんなさい……あっ、でもなら、富嶽今からでもここで横になって!」
昨日の記憶は定かではないが、正体を無くした自分の面倒を富嶽が見てくれたのは間違いない。申し訳なくて、せめてもの謝罪とばかりに寝台をぽんと叩いて申し出たが、
「…………。いや、それはねえだろ」
富嶽はなぜか数秒沈黙した後、首を振った。
「迷惑かけたみたいだし、富嶽が休んでる間に朝食取ってきてあげるから!」
強引そうに見えて意外と気を遣う彼だから、遠慮をしているのかもしれない。そう思って言葉を重ねたが、富嶽はますます渋面になって頭をかいた。
膝で丸くなっている天狐を追い払い、よっこいせ、と腰を上げる。
「んなもんいらねえよ。申し訳ねえと思うなら、今後は酒の飲み方を気ぃ付けろ。もし同じ事があっても、今度は面倒なんてみねぇからな」
「でも……」
「いいから、とっとと身支度して飯でも食ってこい。俺はいったん家に戻る」
引き止めようとしたが、富嶽はそのまますたすたと家を出て行ってしまった。
(ああ、昨日どれほど手間をかけさせちゃったんだろう……一晩中捕まえておくとか、迷惑もいいところだ……!)
こんなに酒癖が悪かったとは、と自分の情けなさに肩を落として落ち込んでしまう。
富嶽の言う通り、これからは誰に勧められても、飲みすぎないように気を付けよう。迷惑をかけた分、富嶽に借りを返さなければ。
拳を握りしめてそう決意する隊長、その一方で自分の家に戻っていった富嶽は、
(てめえの寝床で寝ていいとか、あいつぁ俺に対して警戒心なさすぎだろ……いや、別に襲ったりはしねぇよ。しねぇけど、もうちょっと何かねぇのかよ、あのバカは……)
こちらもまたモヤモヤと考え事をして、より一層の険相になっていたのだが、もちろん彼女は知る由もないのだった。