わするばかりの恋にしあらねば8

『――では、もうお体はよろしいのですね、軍師九葉』
 頭の中に響くのは、心からの安堵がこもった柔らかな声。こちらの状況は折々に知らせていたのだが、日々緊迫していく情勢に気が気ではなかったのだろう。九葉は案ずるな、と声に出して応じた。
「私の怪我は大したことはない、かすり傷だ。
 それよりもこの里に今、鬼の軍勢が押し寄せようとしている。識と禁軍の動きは封じているが、陰陽方がどこに間諜を放っているか知れたものではない。霊山で妙な動きがあるようならば知らせよ、念話官」
『はい、承知しております。どうぞ御身お気をつけて。……』
 そこで千里眼による念話が終わるかと思いきや、妙な間が残る。
 どうした、と問いかけを発すると、相手はやや躊躇うように息を飲んだ後、
『……彼女は、どうしていますか。また、無理をしてはいないでしょうか』
 恐る恐る尋ねてきた。彼女が誰を指しているかは言うまでもない。
 九葉は低く笑って、
「あれの無理は日常茶飯事だろう。……昔と変わらぬ。今も先頭に立って戦い続けている」
『彼女の優秀さは承知していますが、事態が事態です。マホロバの里での混乱に続けて鬼の侵攻、いくら彼女でも体がもたないのでは』
「確かにあれは無茶をするが、それが過ぎた時は、共に戦う者達が殴ってでも連れ戻すだろう。
 案ずるな、念話官。此度の戦、あれは必ず帰還する。……私はそう信じている」
 確信をこめて告げると、くすくす、と鈴を振るような笑い声がくすぐったく響く。
『あなたはお変わりになられましたね、軍師九葉。以前はそう思っていらしても、決して口に出されなかったのに』
 ……どうやら、自分はらしくない事を口にしたらしい。いささか恥じて、
「ともかくお前は霊山での役目を続けよ。私はこちらの指揮に――」
 戻らねばならん、と言いかけたその時、
「軍師九葉、入るぞ」
 ばたん、と何の前触れもなく戸を開けて、ずかずかと博士が部屋の中へ入ってきた。
 ふっと念話官の気配がかき消えたので、九葉は不機嫌顔で小柄な女性を睨み付ける。
「……入室を許可した覚えはないぞ」
「わざわざ許可をもらうまでもない。ここをどこだと思っているんだ、私の研究所だぞ?
 それとも、見られてはまずい事でもしていたのか」
 そういうのは道理で、九葉がいるのは研究所の一角、医務室の寝台の上だ。
 博士が戻ってくるまでの間に念話官と会話を終わらせておくつもりでいたのだが、思ったよりも早く帰ってきてしまったらしい。
「それは失礼した。では、早々に手当を済ませてもらおうか。
 お前がどうしてもというから来たが、私にはこうしている時間も惜しい」
 言いながら着物をはだけて、博士の手当てを施された個所をあらわにする。
 ふん、と博士は鼻を鳴らして近づいてくると、包帯に手をかけてほどき始めた。
 やがて灯りの元にさらされた傷跡は、まだ赤黒く生々しい穴となっているが、血は完全に止まっている。
「……ふむ、とりあえず経過は良好か。弾丸が貫通していたのが幸いだな」
 子細に看ながら博士は頷き、消毒薬と新しい包帯を手元に引き寄せる。
「それにしても、良く生きながらえたものだな。私が手当てしてから後、放置されていたというのに」
 というのは狙撃後、川に落ちた九葉が博士に保護され、応急手当てをなされた後すぐ、識によって彼女は仲間ともども捕縛されてしまったからだ。
 九葉は医務室の奥に隠れていたので見つかることはなかったが、その後しばらくは一人で怪我の痛みや高熱に耐えねばならなかった。
 ふ、と九葉は口の端を皮肉にあげる。
「こうした時の対処方法は心得ている。自慢ではないが、命を狙われたのは、これが初めてではないのでな」
「本当に自慢にならないな……。まぁ、その権高な性格では、方々に敵を作って休まる事もないだろうな。自業自得ではある」
「……お前は何を怒っている? 棘のある物言いだな」
 元々愛想のいい女ではないが、今日はやけに攻撃的な口調だ。
 わざと九葉を怒らせようとしているかのような言い回しが気になって問いかけると、博士はハンッ、と口を曲げた。
「別にお前には怒ってなどいないさ。ただ、さっき私の助手から聞き捨てならない事を報告されたんでな」
「お前の助手……というと」
 咄嗟に自分の元部下の事かと思ったが、
「時継さ。ようやく里に戻ってきたから、逃げている最中何があったのか話を聞いた」
 あの妙なカラクリ人形の方らしい。包帯を巻きながら続けるには、
「――グウェンが私の助手たちを逃がした後、奴らは鉱山を抜けて武の領域へ逃げようとした。ところがそこで、助手二号のほうが、空間転移しかけたそうだ」
 という。何、と九葉は眉を上げた。
 無事帰還した相馬たちから事の次第は報告を受けていたが、彼女たちが合流する以前の話は耳にしていない。
「それは、ミタマによって瘴気の穴の場所を示されたからではないのか」
 異界を浄化する際、その領域に関わるミタマによって瘴気の発生場所を知らされるらしいが、その際に必ず彼女は空間を飛ばされるという。
 今回の逃亡劇の最中にも、カラクリ隊の隊長と百鬼隊は異界を浄化し、そこに反撃の拠点を作ったと聞いている。
 では、鉱山での空間転移もそれゆえではないのかと問いかけたのだが、違う、と博士は首を横に振った。
「……そもそもマホロバを脱出した時点で、あいつはまだ武の領域に関わるミタマを宿していなかった。ミタマを持っていないのであれば、それに誘導される事もない。
 鉱山での空間転移は、異界の浄化とは異なる要因で発生したと私は思っている。聞いた限りでは、この世界との結びつきが弱くなった為に、時の彼方へはじき出されかけたんだろうな」
「…………再び彷徨者になりかけた、ということか?」
 声だけは平静を保って問いかけたが、ぞ、と背中を寒気が駆け上がる。知らぬうちに彼女がまた消えていたかもしれないと思うと、眩暈すらしかけた。なぜ、と疑問が口をついて出る。
「なぜ、そんな事が起きた。これまでもたびたび起きていたというのか」
「いいや。あいつの存在が不安定だったのはマホロバに来た当初だけで、後はミタマの誘導による空間移動だけだった。どうして起きたのかは……おそらく」
 小さな体で動きながら包帯を巻く博士が、背中側に回って低く応じた。
「かつての上司が暗殺されたかもしれない。その恐怖に打ちのめされて、世界との結びつきの一切を手放しかけたのだろうさ」
「……何だと?」
 耳を疑う。何の冗談かと振り返ろうとしたが、
っ……!」
 いきなり包帯がぎりりっときつくしまったので、思わず声を漏らしてしまった。ぎゅうぎゅうと締め付けながら、全く遺憾な事だ、と博士は続けた。
「あいつがマホロバに来てからこっち、次から次へと起こる事件を皆で乗り越えて、確かな絆を結んで仲間として共に戦ってきたというのに、あいつはそれを全部投げ捨てようとした。
 私とて人間だ、助手二号としてそれなりに可愛がってきたというのに、こんな仕打ちを受けて、不機嫌にならない訳がないだろう。
 かといってあいつを責めるのも筋違いというものだ。あいつはあいつなりにマホロバの里を大事に思っているから、体を張って戦っているのだしな。
 そうとなればっ、この怒りの矛先をっ、向ける場所がないというものだろうっ」
「……いい加減に、せんか!」
 背中を足蹴にされてまで力任せに締められてたまりかね、九葉は室内に響き渡るような声で喝破した。ぶわっと風にあおられた博士は、鼻を鳴らして力を緩め、
「そういうわけだ、軍師九葉。危うく助手二号を失いそうになったこの私からすれば、まっとうな怒りだろう?」
「……八つ当たりではないか」
 堂々と胸を張る彼女にあきれ果て、ずきずきと痛む傷を抑えて呻く。そして先の言をもう一度反芻すると、九葉は顔をしかめてしまった。
『鬼との戦いの中で、情に溺れて退く事はならぬ』 
 昔、特務隊の者は皆心得ていた。
 己の命を粗末にせず、死ぬのならば一匹でも多くの鬼を狩って死ぬと。たとえ指揮官である九葉が戦いのさなかで命を落としたとしても、その屍を乗り越えて戦えと。
 入隊時に骨の髄まで刻み込まれたその勅命を、隊員たちは最後まで守って死んでいった。
「愚かな。私が死んだところで、あれがこの地を手放す事はないというのに」
 ゆえにそう呟いていた。
 影の部隊として鬼と戦い続ける存在から、日の光の元を歩き、気の置けない仲間たちと和やかな日常を営む生活。
 人として望ましい暮らしを手に入れる事が叶うだろう、マホロバの地に流れ着いたのは、彼女にとって幸運だった。
(今度は鬼を狩るだけではなく、幸せであれるような生き方をしてほしい)
 それはこの十年、彼女にそうさせてやりたかったとひそかに抱き続けていた悔い。もはや叶う事はないと諦めていた願いだった。が――
「……軍師九葉は、殊の外阿呆なんだな」
 心底あきれ果てたと言いたげな嘆息が降ってきた。顔を上げると、九葉の前に立った博士が腰に手を当て、
「私の助手がこの世界から消えかけた原因が、何をしゃーしゃーと他人事のように語っているんだ。軍師九葉、あいつが自分に対してどんな思いを抱いているのか、分かってないのか?」
「…………それは、気の迷いだ」
 彼女は九葉を恋い慕った特務隊時代の気持ちを今も同じと勘違いし、思い込んでいるだけだ。そう答えたのだが、
「この阿呆め」
 眉をつりあげて、博士がびしっと指を突きつけてくる。
「気の迷いだけで、この世の結びつきを全て失いかけるほど、自失するものか。
 十年の時を跳んで、記憶も無くして、それでも尚お前の事だけは覚えていて、この世界の何よりも、九葉と言う男が大事だと、自分の存在をかけて証明した――それほどの思いを、お前は愚かと切り捨てるのか」
「……っ」
 息を飲むほどずきりと痛んだのは傷か、胸か。
 ぐ、と喉を詰まらせる九葉に、博士は心底気に入らないと言いたげな視線を投げる。
「私は、お前とあいつがどんな関係なのかは知らないし、興味もない。だからお前たちの痴話げんかに巻き込むな」
「……痴話げんかなどしていない」
「嘘をつけ。あいつはお前の一挙一動にいちいち反応するし、このところはお前がつれない素振りをするからいまいち元気がないし、そうすると周りの連中がどうしたこうしたと騒いで、やかましい事この上ないぞ」
「これだけ日々騒動が起きているのだ。あれの様子がおかしいのがなぜ私のせいだと言い切れる」
「そんなものは見ていれば分かる」
「…………では、好きに解釈するがいい。
 識の件が片付き、お頭詮議が終われば、私はこの地を去る。仮に私があれの煩いの種となっているのならば、それで沈静化するだろう」
 腕を組んだ博士に自信満々に言い切られ、九葉はこれは議論にならないと諦め、服を着なおした。
 博士の言う事は少なからず真実を言い当てていたが、九葉がいずれ彼女と別れる事になるのは間違いない。 そうなれば過去の思い出を無かった事に出来るだろう。だが博士はばん、と床を蹴った。
「だからどうしてそうなる! お前がいなくなれば、またあいつがいつ時の迷い子になるか、わかったもんじゃないだろう。
 軍師九葉、私は好いてもいない者を受け入れろと無理難題を言っているわけじゃない。お前だってあいつの事を憎からず思っているくせに、変な建前をごちゃごちゃ並べて、むやみに傷つけるのはやめろ、大迷惑だ」
「勝手な事を抜かすな。私がいつ、あれを憎からず思っている、などと言った」
 問答にいい加減苛立ちを覚え、九葉は寝台から腰を上げた。手当てはもう済んでいる。これ以上無益な口論で時間を浪費している場合ではないし、元部下との事をあれこれ詮索されるのは御免だ。そのままずかずかと出口へ歩み寄ったが、
「勝手な事とはよく言う。寝込んでうなされている時、何度も助手の名を呼んでいたくせに」
「!!」
 背中にかけられた言葉に、思わず勢いよく振り返ってしまった。不機嫌そうに口を曲げた博士と視線が合うと、相手は目を丸くした後、ほほう、とにんまり笑みを形作る。
「軍師九葉が赤面するとはこれまた、何とも珍しいものを見たな」
「……嘘をつくな。私がそんな事を言うはずがない」
 さっと顔を背けて反論したが、博士はわざわざ回り込んで、
「嘘なものか。繰り返し繰り返し、名前を口にするものだから、よっぽどあいつを呼んでくるかと思ったくらいだ。その前に禁軍が乗り込んできたから、叶わずじまいだったがな」
 こちらの顔を拝んでやろうというように背伸びをして覗きこんでくる。九葉は咄嗟に右手で顔を隠し、
「…………失礼する」
 博士を押しやって、早足に研究所を立ち去った。外に出れば涼しい夜風が頬を撫でたが、顔はまだ熱い。
(……私とした事が、不覚をとった)
 本当にうわごとで名を口にしていたか分からないが、あんな風に博士の言葉に反応してしまった時点で、己の気持ちを露呈したのと同じだ。
(魔女め、口軽く吹聴しなければよいが)
 この事を彼女に伝えられてはより一層困った事になる。今からでも口止めをすべきか、いや大人しくきくようにも思えぬと迷って足を止めた時、丘の端に立つ人影に気づいた。
 柵に手をかけて寄り掛かり、まっすぐに前方――今や鬼の大群がひしめく闇を見据える瞳は、藍色。研究所の灯りを弾いて光を滑らせる長い黒髪が風になびいた。
 精緻な人形のように整った横顔は美しく、しなやかに伸びた手足は今、夜に溶け込む黒を基調とした装備に覆われている。
(モノノフ……影装、だと)
 十年ぶりに目にしたその装束に、息を飲む。それはかつて、横浜防衛戦を最後に姿を消したはずのものだった。それはかつて、己が率いた特務隊の者達が身に着けていたものに他ならなかった。
 なぜ。なぜ、それが今ここにあるのか。
 咄嗟に問いが口をついて出そうになった時、足元でぱきりと枝が折れ、影装の女がこちらを振り返り――
「九葉! お体は大丈夫ですか?」
「……お前か」
 そこで初めて、九葉はそれが元部下であり、カラクリ使いの隊長であることに気づいたのだった。