わするばかりの恋にしあらねば7

 命は、いつも自分の前を通り過ぎて行った。見送ったのがどれほどの数だったか、もう思い出せない。
 命は過ぎ去る。それは当たり前で、何の感慨もわかない、当然の理。
 ゆえに、時の彼方へ消えていく命の奔流の中で、自分はただ鬼を討ち続けた。
 その事に疑問を抱いた事は無かった。
 己に与えられた役目はそれのみだったから、悩む事など何もなかった。
 何もなかった――はずなのに。

「……ん……」
 ずきり、と頭が痛んで、目が覚めた。ぼやけた視界を瞬きしてはっきりさせてから、のそりと体を持ち上げる。
「……ここ、は……」
 頭痛に顔をしかめながらゆっくり周囲を見渡すと、そこは自分の家だった。装備を外し、寝床で横になっているが、寝た覚えがない。
(私は……どうして家に……)
 また記憶を失ったのだろうか、と思ったらひやりと寒気を感じた。
 ただでさえ以前を覚えていないのに、この上マホロバの事まで忘れてしまったらと思うと、ぞっとする。
(何か、夢を見ていたような気もするけど……)
 それも覚えていない。胸にうつろな風が吹きすさぶような、そんな残滓だけが残っているのが気持ち悪い。そう思いながら胸をさすっていると、
「……おい、生きてるか」
 がらりと戸を開けて、博士が土間へ入ってきた。こちらの顔を見て、安堵した様子でほっと表情を和らげる。
「どうやら無事みたいだな」
「博士? ……それに、皆も」
 彼女に続いて、椿、神無、時継、焔、グウェン、八雲、真鶴に刀也まで家の中へ次々と入ってきて、一気に人の密度が増す。何事かと目を瞬く自分の前で、時継がやれやれ、と笠を押し上げた。
「おい隊長、何があったのか、覚えてるか?」
「いや……えっと……そう、確かカシリを倒しにいった……ような」
「ような、じゃねぇよ。あの後ぶっ倒れて起きねえから、博士を連れてきたんだぜ。ったく、心配かけさせやがって」
「目が覚めたのね、良かった」
「人騒がせな奴だ」
「ほんと命知らずな奴だな。ちったぁ大人しくしてろよ、ったく」
 皆が口々に心配と安心の入り混じった声をかけてきたので、ようやく何があったのか思い出し始めた。
 そうだ、人を鬼に変えるというカシリを紅月たちと一緒に倒した。
 そして鬼の死ぬ間際に放つ鱗粉が、紅月に覆いかぶさりそうになっていたから、咄嗟に彼女を突き飛ばして……その後は覚えていなかったので、どうなったのかと問いかけたら、椿が感嘆交じりに教えてくれた。
「鬼になりかけたあなたを、紅月が鬼の手で元に戻したのよ。ほとんど奇跡みたいなものだわ」
「そう、だったんだ……」
 自分もため息を漏らして、手の甲につけた鬼の手をまじまじと見つめる。
 思念を実体化する鬼の手は、人を鬼に変えるという現象さえ変えてしまうのか、凄い。
 過去の経験を悔いた故の紅月の発想も飛びぬけているが、これを作り出した博士も、本人が言う通り天才だ。
「そういえば肝心の紅月はどうした」
「考えたい事があるとかでな、一人でどっか行っちまった。
 動けるようなら会いにいってやりな、隊長。あいつはお前の為に、逃げたいのを我慢して踏みとどまったんだからな」
 勇者に敬意を表してやれ、という時継の言葉に、頷いて立ち上がる。体の方は特に問題なく、頭痛も話している内に消えたようだ。
「じゃあ今探してくるよ」
「ああ、それもいいが、軍師九葉から岩屋戸へ招集がかかっている」
「!」
 下履きを履こうと土間に腰を下ろした時、博士がそういったので、思わず体が強張る。
「お頭候補の発表をするらしいんでな。お前は紅月と一緒に来い。私たちは先に行っているぞ」
「……うん、わかった。すぐに行くよ」

 ――答えた声は、平静を保てただろうか。
 ――皆を見回して笑いかけた顔は、変ではなかっただろうか。

 そう思いながら、家を出て里の中をゆっくりと歩き出す。
(……紅月は、どこにいるんだろう)
 お役目所か。近衛やサムライの陣所ではないだろう。一人で考え事をするのなら、人気のない場所――そうだ、カラクリ研究所はどうだろうか。
 そう思って足をそちらへ向けた時、
「……おっ、思いのほか元気そうだな、カラクリ使いの隊長」
 不意に声がかけられた。振り返ると、岩屋戸の階段を下りてまっすぐこちらへ、百鬼隊隊長の相馬がやってくるところだった。目が合うと人懐っこく笑って、
「鬼にやられて寝込んだと聞いたから、どんなものかと思ったが、その顔色なら大丈夫そうだな」
「あ……は、はい。もう問題ありません。ご心配をおかけしたようで」
「おいおい、そう堅苦しいのはよせ。一緒に遺跡を巡った仲だろう、遠慮はするな」
「は、いや、うん、分かった。……ありがとう、相馬。お頭詮議で忙しい最中さなかだろうに」
 イツクサの英雄と誉れ高い相馬が、わざわざ気にかけてくれたのは嬉しく有難い。お礼を言うと、いやなに、と相馬は腰に手を当てた。
「もう聞いたかもしれないが、これから岩屋戸でお頭候補の発表がある。
 九葉殿がお前にもぜひ顔を出してほしいようだったから、気を利かせて様子を見に来ただけだ」
「……九葉が……?」
 名前を口にすると、胸がずきっと痛む。
 顔をしかめそうになるのを何とかこらえて、あの、と相馬に問いかける。
「……九葉が私の様子を見て来いと命じたわけではなく?」
「ん? ああ、口に出してそうとは言わなかった。
 が、お前がカシリを討った後、危うく鬼になりかけて、助かったのはいいものの倒れて目を覚まさないと報告を受けた後は、ずいぶん落ち着きを失っていたな。
 お頭詮議の準備で手が離せなかったが、それがなければ自分で見舞いに来ていただろうさ」
 あんなにそわそわした軍師はなかなか見られない、と面白そうに笑う相馬。けれど、彼がそんな嘘をつく理由などないとは思ったが、
(……本当に?)
 疑念がさっと胸をよぎって、息苦しくなった。
(だって、九葉はあれから私を避けている)
 自分と九葉が過去に関係を持っていた事を問いただした時から、ずっと。
 ……あれから様々な事件が起きた。
 サムライの刀也と近衛の八雲が、かぐやの提案によって居住区を統合するために和解をしようとしたが、近衛の一人が発砲。刀也を庇った真鶴が撃たれて重傷を負い、里の中は内乱状態に陥った。
 争いの原因となっているかぐやをカラクリ隊の自分たちが狂言誘拐し、一時内乱が落ち着いたかと思えばゴウエンマの襲撃。
 これを撃退するも、今度は新たに霊山軍師の識と禁軍の雷蔵が現れ、焔が禁軍兵殺害の疑いで捕縛される。
 それが誤解と解決した後も、グウェンの因縁や紅月のお頭殺しにまつわる鬼退治など、騒動は次から次へとやってきて、落ち着く暇がなかったのだが――
(その間、九葉は一度も私を目を合わせていない)
 話をする機会は、何度もあった。
 焔が捕まった時や、原因となった鬼を倒して里に戻った時、九葉は助け舟を出してくれた。カラクリ隊と軍師九葉が手を組む協定を結ぶ際も、普通に話もしてくれた。
 それでも、九葉が頑なに視線を合わせない事で、壁を感じずにはいられなかった。
(あの人にとって、横浜でのことは触れてほしくない過去なのだろう)
 そう思う他ない。そうでなければ、あれほどよそよそしくされるいわれがない。
(それも当然かもしれない。ただの部下なら再会を喜ぶだけで済んだだろうけど、あんな……事になっていた相手では……しかも、そうなった理由も、私は全部思い出していない)
 半端に昔の記憶を持ち合わせた相手とでは、さぞや話しにくかろう。それは分かる。九葉の気持ちも察せられる。――が。
「……なぁ、一つ聞いてもいいか?」
「え? あ、うん、何? 相馬」
 黙り込んでしまった自分を、顎に手を当ててじっと見つめていた相馬が、ふと口を開いた。しまった、話している最中の相手に失礼な事をと慌てて答えると、
「俺の勘違いなら聞き流してほしいんだが……お前は、九葉殿と何か特別な関係なのか?」
「ぐっ!?」
 いきなり的の中心を射られて、思わず声を詰まらせてしまった。
 咄嗟に否定しようとしたが、それより早く顔がカーッと熱くなって、多分隠しようもないくらいに赤面してしまう。
「なるほど。その様子だと、当たってるようだな」
「う……いや、その……な、何でそんな事を、思ったの……」
 昔の事は誰にも話していないし、この里で再会して後、関係を疑われるほど九葉と懇意にしているような振る舞いをした覚えはない。
 どうしてと問いかけると、相馬はあっさり言った。
「いや、九葉殿の態度を見ていて、何となくな」
「く、九葉の? な、何かおかしな事をしていた……はず、ないよね」
 あの九葉が、よもや昔の汚点を悟られるような失態をおかすはずもない。そう思ったのだが、相馬が着目したのはそういったことではないらしく、
「おかしいと言えば、おかしいかもしれんな。
 お前は気づかなかったのかもしれないが、お前と話をしている時の九葉殿は、他と様子が違う。
 俺があの人と行動を共にするようになったのはこの二年くらいだが、九葉殿が他人に対してあれほど物柔らかに話をするのは、初めて見た」
 などと言う。
「そ、そう、かな……? 私は、覚えていないから……九葉が普段どうなのか、分からない、かも」
「昔を覚えていなくても、この里でのふるまいを見ていれば明らかだと思うがな。
 それに、俺たちだけでいる時にお前の話をしていると、九葉殿はいつも誇らしげで楽しそうだからな。よほど、お前を大事に思っているんだろう」
「…………」
 九葉が、誇らしげに私の事を。
 そう言われたら、胸がぎゅっと締め付けられて、息が苦しくなる。
(……嬉しい)
 素直に思ったのは、喜びだ。あの人がそんな風に自分を思ってくれているなんて、嬉しい以外にない。
 先刻心の中によどんだ疑惑が一瞬で吹き散らされ、体の隅々まで、喜びの感情で満たされたような、そんな錯覚さえ覚える。
(きっと、昔もこうだった)
 と思う。
 過去に特務隊で戦っていた時もきっと、自分は九葉に認められる事を、何よりも至上としていただろう。あの人に褒めてもらえる事を、何よりも喜びとしていただろう。
 そうでなければ今、息もつけないほどの歓喜に包まれるはずがない。
(……でも)
 それも、長くは続かない。でも、と声に出して呟く。
「……それは、私が元部下だったから。
 特務隊のモノノフは九葉が自分で選んで育てた部下だから、思い入れがあって……唯一の生き残りの私を、気にかけてくれているのだと、思う」
 自分が覚えていなくても、九葉にしてみれば手塩に育てた部下――まして十年前に失ったものと思っていた部下がこうして生きていて、戦い続けているとなれば、それだけで喜ばしい事なのではなかろうか。
(そしてもうそれ以上の思いは、きっとない)
 横浜での一夜は彼にとって、もはや遠い過去の事。今更思い返すほどでもない、さして重要でもない出来事だろう。だからきっと、それにこだわってしまう自分との間には、壁を築かなければならないのだ。
(私の思いは、九葉にとって迷惑なんだ)
 そう考えたら、いきなり目が熱くなって、涙が出そうになったから焦って瞬きをした。だ、だから、と続ける。
「私と九葉は特別な関係でも何でもないから。そんなのは、相馬の思い過ごしだよ、きっと」
「……」
 相馬は軽く首を傾げた。それから、
「お前は、九葉殿を好きなのか」
 また唐突に確信を衝いてきたから、ごほっとせき込んでしまった。
「な、何でっ……」
「何でも何も、今のお前を見てそうと気づかない奴は、相当鈍いと思うが……そうなんだな?」
「………………く、九葉には言わないで」
 言い逃れをしようにも、やたら鋭いこの人には無理だと察したので、懇願の口調で言う。
 ただでさえ、昔の事を持ち出して九葉に煙たがられているというのに、この上、今も好意を持っている事を知られたくない。相馬はのんきにハハッと笑った。
「鬼討ちの時は無謀と言っていいほど勇敢なのに、九葉殿にはずいぶん弱気だな。いつもの調子はどうした」
「それとこれとは、全然話が違うでしょう……私は、九葉にこれ以上、迷惑をかけたくないよ」
「迷惑か? 十年ぶりに再会した元部下に、個人的にも慕われていると知ったら、普通嬉しいと思うがな」
「……九葉が、そんな個人的な感情で応じるような人でない事は、あなただって分かっているでしょう」
 公私の別もなく鬼討ちに打ち込む九葉が、言い寄ってきた女性にほだされるなんて、想像もつかないしありえない。そういうと相馬も、まぁそれはそうか、と納得顔で頷く。
「あの人はそういうところが固いからな……とはいえ」
 相馬はこちらを見下ろして、唇の端を上げた。
「お前は、九葉殿へ迷惑をかけてもいいと思うぞ」
「え?」
「さっきも言ったが、十年ぶりの再会なんだろう? 鬼門に飲まれて時を跳んで、その先で生きていた九葉殿にまためぐり合うなんて、強運にもほどがある。それは多分、お前と九葉殿が、他にはない強い絆で結ばれている証なんだと思う」
 俺はな、と相馬はふっと顔を背けた。その眼差しが不意に遠くを、マホロバの里の景色を通り越して、東の方へと向けられる。
「人と人を結び付ける絆がどれほど大切なものか、知っている。それがどれほど人を強くし、勇気づけるものなのかを知っている。
 ……そして、それが簡単に失われてしまう事も、な」
「!」
 再びこちらを向いた相馬は、微笑んでいる。けれどその笑みにいつもの快活さはなく、影が落ちてどこか寂しげに見えた。
「俺たちはモノノフだ。鬼と戦い続ける運命さだめにある。それを誇りに思いこそすれ、恐ろしいとは思わない。
 だが、その戦いの中で、命は簡単に失われる。絆は簡単に奪われてしまう。
 今こうして話している俺も、明日は鬼にやられて死んでしまうかもしれない。お前や初穂のように、時の迷い子となって現在から切り離されてしまうかもしれない。それは誰にも予測できない、避けられないことだ。――だからこそ」
「わっ」
 相馬がぽん、と突然頭に手を置いてきたので、思わず身を竦ませてしまう。相馬は唇の端を上げていつものように、不敵な笑みを浮かべた。
「だからこそ、今出来る事を、悔いのないように全力でやる。俺はそう心に決めているから、迷いはない。
 ……お前もそうしろ、カラクリ使いの隊長」
「相馬……」
「お前はもう十年、九葉殿と離ればなれになった。また次いつ、別れが訪れるか分からない。
 だから、九葉殿に迷惑がかかるからなんて言い訳をして、逃げるな。九葉殿が好きなら、全力でぶつかっていけ。それでもし砕けたとしても、俺が屍を拾ってやる」
「……いや、そんな縁起でもないことを言わないでほしい」
 いい話をされてちょっとじーんとしていたのに、ここは嘘でも、上手くいくかもしれないっていうところでは!? 思わず苦情を申し立てると、相馬はハハハ、と軽やかに笑い声をあげた。
「なに、案ずる事はないさ。九葉殿はああ見えて、押しに弱いところがあるからな。お前がもし思いを叶えたいのなら、戦略はただ一つ――押して、押して、押しまくれ!」
「う、うわぁ……あなたならではの戦略だなぁ……」
 常に自信満々の相馬なら、恋愛ごとでも押して押して押しまくって、それでうまくいきそうな気がするけれど、自分にそれが出来るかどうか。
 思わずひきつった顔で呟くと、相馬はぽん、と軽く頭を後ろに押して、
「戦況はお前が思っているほど悪くはない、と俺は見ているからな。お前にその気があるのなら応援するぞ。
 ……オオマガドキ以降、あの人は多くを背負い、もがきながら懸命に生きている。失った命を元に戻す事は誰にもできんが……九葉殿が血を流し続ける傷を癒してやる奴が、もうそろそろ現れてもいいころだ」

 ――それはもしかしたら、お前にしかできない事かもしれない。

 最後にそう言い残して、相馬は岩屋戸へと戻っていった。
 その後ろ姿を見送った後、ややあって、そうだ紅月を見つけなければ、と研究所へ続く丘を登り始める。ゆっくりと歩を進めながら、涼やかに吹き抜けていく風を頬に受けながら、思う。
(……私は、後悔をしたくない)
 相馬の言う通りだ。
 九葉への思いを抱えたまま、もし今死んでしまったら。いずこかへ知らぬ時と場所へ、跳んでしまったら。マホロバでの記憶を失ってしまったら。
 自分はきっと、後悔する。
 覚えていなくても、きっといつか思い出し、心から悔やむだろう――九葉へ思いを告げずに終わらせてしまった事を。
(迷惑かもしれない。嫌われるかもしれない)
 鬼との戦では感じた事のない恐れに身がすくむ。それでも、
(それでも、九葉。私は、あなたが好きです)
 そう告げてしまわない事には、死んでも死にきれないだろう。
(……決めた。今度九葉と話す機会を得たら、言おう)
 九葉がどれほど自分を避けようと、逃げられないようにして、話を聞いてもらおう。結果何を言われても構わないから、思いを告げてしまおう。
 そう決意して、丘を登り切ったところで紅月の姿を見つけ、声をかけ……

 その決意は、けれど果たされはしなかった。そのすぐ後、九葉暗殺――その被疑者として禁軍に追われる身となってしまったがゆえに。