普段は何があっても落ち着いて対応する彼女が、その日に限っては、
・火にかけたやかんをひっくり返す
・こぼしたお湯を慌てて拭こうとしてやけどする
・やけどした事を忘れてその手で武器を握って痛みに悶絶する
というおっちょこちょいを連続でやらかしたので、さすがに気になって、何かあったのか問いかけた。すると彼女は眉をひそめ、
「その……えっと。ある人に、急に……く、口づけをされたのだけれど、それが頭から離れなくて」
……えっ、何て!? 口づけ!!!? 誰に? 特務隊の誰か!!!?
「それは、……ごめんなさい、言えない」
言えないってなんで!
「ちょっと、障りがあって……」
障りって……はっ。まさか、不倫……
「ち、違う違う。ただその、立場のある人だから、変な話をしたくないとおもって」
それってもしかして無理やりされたの?と詰め寄る。
「……無理やりというか、急にというか……普通に話をしていたら、なぜかそんな事に」
どんな話をしてたら急に接吻されるというのか。謎すぎるけれど、とりあえず気になる事を先に聞く。それであなたはどう思ったの? 嫌じゃなかった?
「……嫌……では……なかったと、思う。驚きはしたけど」
じゃあその人の事、気になってるとか。
「気になってるって?」
だから、好きなのかどうかってこと!
「す……、す、……好き。あれ、そうなのか、な?」
だってされて嫌じゃなかったんでしょ? いつも人とそれとなく距離とって、触られるの避けてるあなたが。
「そ、そうだったかな。……うん……まぁ、そういわれれば……あの人に、触られるのは、嫌じゃない、かも」
じゃあ結構、大分好きなんじゃない?
「……うん。そうかも」
……驚いた。いつも穏やかに笑っていて、そつなく誰ともうまくやっていくけど、あまり打ち解けないこの子に、そんな人がいるとは。
彼女が好きになった相手に興味がわいてきて、更に聞く。それで、口づけされた後はどうしたの?
「……部屋を追い出された」
は?
「だから、仕事があるから出ていきなさいと。さっきのは何かと聞いても、何の意味もない、忘れろと」
……はぁぁぁぁぁ!? 何その男、自分からしておいてどういう言い草!?
「あの人がそういうのなら無意味で忘れるべき事なんだろうと思ったけど……でも、気が付くと思い返してしまって、色々な事が手がつかなくなって」
そりゃそうでしょう。少なくとも彼女が覚えてる限りではまず間違いなく、初めての接吻だろうから。それを忘れろなんて無理に決まっている。
「でも、あの人が……」
その男の都合なんてどうでもよろしい。あなたはどうしたいの?
「どう……? というのは」
だから、相手が自分に好意を持っている、かもしれなくて。自分も相手を憎からず思ってる。単純に好き同士なら、じゃあお付き合いしましょうってなるけど、あなたはそうしたいのかって事。
「お付き合い、とは」
男女のお付き合いの他に何があるの。
「……私は、ただ。あの人の役に立てれば、それでいいけれど。お付き合いとは具体的に何をするの」
それは……とか、……とか、……とか?
「っ! な、ま、待って、そんなことまで考えてはいない!」
だって、その人と、そういう恋人っぽいことしたくないの?
「…………そ、想像つかない……」
じゃあ、もう一度口づけされたら、嬉しい? 嫌?
「それは…………。…………………………………………う、嬉しい、気がする」
よし、ならしよう。
「は?」
前々から思ってたけど、あなた綺麗なのに色気のある話なさすぎ。そんな気になってる人がいるのなら、これを機に恋愛経験つむべき。若い身空で恋も知らずに鬼退治に打ち込むなんてそんなのありえないから。
「あ、ありえないと言われても……そんな、何をどうすればいいのかなんて、分からないし……」
大丈夫、こう見えて私色々知ってるし、本もたくさん持ってるから教えてあげる。あなたは任務をするつもりで真剣に取り組みなさい。
「に、任務ってそんな大げさな……」
いいからちゃんと勉強して、その自分勝手男を自分に夢中にさせてやるのよ。乙女の唇を奪った代償は、命を秤にかけてもいいくらい重いんだからね。
世の中には様々な戦いがあるものだと、思い知らされた気がする。
「……世の女性は、こんなに手を尽くして意中の男性を落とそうとするのね……何だか凄い……」
特務隊の仲間が寄越してきた書物の類に目を通していたら、自然とそんな感想が漏れた。
女性は、凄い。
己の思いを叶えるために、化粧から服装から性格から何から磨き上げ、相手の男性を研究し尽くし、こういう性格ならこれが決め手! と事細かな攻略方法まで研究している。
下手をすれば、鬼相手よりも詳細なのではないかこれは。
「身近だからこそ、より一層深く研究したがるものなのかな……」
深い。男女交際は実に奥深い。といっても、いくら書物を読み漁ったところで、自分がうまくできるかは全く自信がない。
(何しろお相手が……九葉だし、なぁ)
恋愛指南が想定する相手は、大体同年代、少し年下、少し年上くらいが定番のようで、自分と九葉に置き換えてみると、多分それよりも年の差があるように思える。
四十の男性となれば、しかも公私の別なく、時間のほとんど全てを鬼討ちとそれに関わる策を打つのに割いているような人となれば、指南書に出てくる恋に浮かれた軟弱な男子とは違いすぎる。
どうしたものか。これではいくら知識を詰め込んだところで、何の活用も出来ない。
……というような事を同僚に相談したら。
「よっ、あんたが助けを求めてる恋する乙女かい? 俺は息吹、よろしくな」
「この人調子はいいけど、恋愛ごとに関しては結構的を射た事言うから、練習台にちょうどいいと思うの。好きに使ってやってちょうだい」
「……はぁ。よろしくお願いします」
とある里で知り合ったという男友達を紹介してくれた。
名は息吹。はちみつのような色の髪をした、背が高く整った顔立ちの青年で、やたら明るい。お調子者と同僚が評したのは確かにその通りで、ではさっそく指南をとなったら、
「おっと、その前に大事なことを言っておくぜ。俺は確かに恋愛の専門家、男心の機微や逢瀬の作法なんかは教えられるがな。これはあくまで練習であって、あんたは間違っても惚れちゃいけないぜ? 何しろ俺にはカナデt「あ、間違っても惚れないので、早く始めてください」
と言うふうに、何だか少し勘違いしてる系の人だったので。
……とはいえ、息吹の指導は確かに適切で分かりやすかった。
書物で得た知識をどんなふうに実践すればいいのか、出来る範囲で実地で教えてくれたし、手ほどきと称して不埒な真似を仕掛けてくるような事も無かった。
私が思いを寄せる相手がどんな性格かを聞き出して、最初の口づけを無かったことにしたくないのなら、自分から積極的にしていった方がいいとも助言をしてくれた。
「どうやら奴さん、うっかり手を出したのを後悔してるみたいだからな。次はそうしないように相当注意をしてるはずだ。そうなるとまず、向こうから二度とちょっかいかけてこないだろう」
「ふむふむ」
「それならいっそ、こっちから攻めていけばいい。世の中には女が男に迫るなんてはしたないと言う向きもあるけどな、俺はそうは思わない。好きなら、手に入れたいなら、どんどん行くべきだ。
言ってしまえば鬼討ちと同じだな。逃げていく鬼を逃したくないなら、自分から突っ込んでいくだろ?」
「なるほど。確かに」
私が戦いしか知らないせいか、息吹はよく鬼討ちの例を出してくれるので、分かりやすくて助かる。九葉を鬼と例えるのは失礼かもしれないが。
深く納得して息吹の説明を紙に書きとっていたら、それにしても、と息吹が首を傾げた。
「聞けば聞くほど、あんたの相手は相当な難物だな。どうやら年もかなり離れてるみたいだし、何だってその男に惚れちまったんだ?
あんたは結構有名人だし、見た目もいい。その気になればいくらでも選び放題だろうに」
「…………」
息吹の問いに、私も首を傾ける。
九葉が私に好意を持ってくれているらしい、それ自体も謎だけれど、私も九葉を、なぜこんなにも気にかけているか、自分で不思議に思っていた。改めて問われ、しばし黙考に陥った後、ゆるゆると答える。
「……息吹は、経験した事がある? 自分の世界が、まるごと全部変わってしまったかのような経験が」
「ん?」
「私は、あるの。二回。
最初は、あの人に出会って、命を救われた時」
記憶もなく、なぜ自分が死にかけているのかも分からないまま息も絶え絶えだった私を、九葉は何の見返りも求めず助けてくれた。
一見は恐ろしく思えるほど威厳に満ちた態度を取りながら、その実すみずみまで気配りの行き届いた世話をしてもらって、こんなに親切な人がいるものかと驚いたほどに、九葉は優しい。
「そして、二回目は……あの、口づけをされた時」
優しい九葉の傍にいると、不思議と心が落ち着いた。彼の指図には、危険があっても必ず人の為になる理由があったから、躊躇いなく己の力を投じて満足していた。自分が九葉の部下である事に、誇りを持つようになっていた。
けれどそれは今、形を変えてしまっている。
自分を見つめる九葉の目が、常の冷静さを失って、どこか恐れるように、それでいて熱を帯びていて、視線をそらせなかった。
自分の足元がなくなり、ふわふわと宙を浮いているように心もとなく不安だったあの時、九葉の唇が触れて、息遣いとぬくもりと少しかさついた感触を感じて、一瞬息がつまりそうなほど心臓が跳ね上がった。
思い出せば今もなお、胸がどきどきと弾んで止まない。あの瞬間から、九葉の目に自分がどう映っているのか、九葉という存在が気になって、気になって仕方ない。
「……あの人は、何もなかった私の世界を変えてくれた。あの人の為なら、私は何でも出来る。他の人では駄目、あの人でなければ、意味がない」
自分の言葉を噛みしめるように、一言一言ゆっくり紡ぎだす。
と、黙って聞いていた息吹がふ、と笑みほころんで、
「……そうか。あんたにそこまで想ってもらえるなんて、幸運な奴だな、そいつは」
不意に私の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
「分かるよ。俺も、カナデに会った時そうだった。あいつの為なら、俺は命をかけても惜しくない。お互い、いい相手に出会えたみたいだな」
「……うん。そうだね」
「よし、そういう事ならなおさら、そいつを口説き落としてモノにしなきゃな。なぁに、恋の事ならこの息吹様に任せておけって」
「うん、よろしくお願いします。……あと、今度カナデにも会わせてほしい。息吹がそんなに惚れこんでいるのがどんな人なのか、知りたい」
「おっ、いいぜ。一応カナデには言ってあるけど、あんたとこんな事してるって嫉妬されたら厄介だしな……あ、いやいやこっちの話。じゃあ続きをだな……」
「後悔なんて、しないから。……だから、あなたと共にいさせて」
頬を包む大きな手に唇を寄せて、小さな声で囁きかけると、九葉は耐えかねたように顔を歪ませた。私の名を呼びながら、そっと床に横たわらせて、その上に乗ってくる。
(き、来た。とうとう、この時が来てしまった)
期待と不安とで胸が張り裂けそうなほど跳ね続けている。
九葉に口づけをされてからこの日まで、皆に教えてもらった恋の手管を精一杯活用して、ようやく九葉が応じてくれた。転属を命じられた時は嫌われてしまったと絶望に目の前が真っ暗になったけれど、
(そのすぐ後にこうなるのだから、九葉、私あなたがよく分からない)
よく分からないけれど、とにかくこれで思いは叶ったとみていいのだろう。後は、同僚やカナデがあけすけに教えてくれた閨の作法を実行すればいいのだが、
(さ、さすがにこればかりは出来るかどうか。大体、九葉だって慣れているとも思えないし)
そう思うのは、あれこれと話し合っていた時に、息吹と同僚がこういったからだ。
『聞いてる限りじゃその御仁、人間関係下手そうだな。もしかしたら女性絡みもそんなに経験ないんじゃないか?』
『そうよね、何か不器用でそんな感じがする。まぁくよ……ごほん、そのお相手は仕事忙しそうだし、そんな暇なさそう』
『くよ?』
『何でもない何でもない』
……さんざん相談した同僚には相手が誰かばれていた気がするけど、まぁそれは置いておいて。
(この人が息吹とカナデみたいに、女の人と一緒にいるのなんて、想像がつかない)
そう思って見上げると、上着を脱いで脇に置いた九葉が、
「あまり、見るな。……お前の目を見ていると、おかしな気分になる」
ぼそりと呟いて顔を近づけてきた。どきりと息を飲むと、また唇を重ねられる。
「……」
「ん……」
九葉の口づけは、優しい。
さっき、突然抱き寄せられてされた時は息を奪うように深くて、眩暈がするほどだったけれど、今は壊れ物を扱うように優しく、何度か角度を変えて唇をなぞっては、少し離れてまた触れる。
(……何か……想像よりは、慣れているような気が、する)
間断なく与えられる口づけにくらくらしながら、頭の片隅で思う。
女性に慣れていないのなら、口づけ一つとっても、もっとぎこちないのでは。それに、唇を重ねながら九葉の手がするする動いていて、気づけば特務隊の制服が脱がされていて、襦袢姿にされているし、九葉もそうなっている。
「な……慣れてませんか、九葉」
唇が離れた束の間、自分が無防備な姿になってる事に気づいたら途端に恥ずかしくなって、思わずそんな事を口走ってしまった。再び顔を重ねようとしていた九葉は動きを止めると、眉を上げる。
「……今この場で、わざわざ聞くべき事がそれなのか?」
「だ、だって……あなたは何と言うか、女性の気配なんて何もないから、こういう事は、した事ないんじゃないかと思って……たんですけど」
「…………。慣れてはいないが、経験がないと言った覚えはない」
う……と、いうことは、九葉は過去に、他の人とこうした事があるのか。そう思ったら胸がぎゅっと痛くなって、思わず顔をしかめてしまう。と、九葉が浅くため息をついた。
「昔の事など、掘り起こしても埒がなかろう。大体それを言えば、お前はどうなる」
「わたし?」
「そうだ。お前こそ、ずいぶん積極的に私を誘っていたのだから、よほど手慣れていると思ったが」
「そ、それはその」
あなたを口説き落とすために勉強したからです、とはさすがに言えなくて、顔を背けてしまう。
「わ、私はあなたと出会う以前の記憶がありませんから、どうだったかなんて分かりません。多分、そんな奔放な性格だったとは思えませんけど」
「……」
短い間を挟んだ後、九葉は低く笑った。何事かと視線を戻して、どきりとする。九葉は底光りする瞳で私を見下ろし、そうだな、と呟く。
「この際、お前に昔の記憶がないのは幸いだな。おかげで、他の男と比べられる事を避けられる」
「ほ、他の人と比べる?」
「――私にも、男としての矜持というものがあるのでな。良い歳をしてお前を抱いてから、若い男と比べて大した事がないなどと嘲笑われてはかなわん」
「そ、そんな、他と比べるなんてこと、ひゃっ」
仮に記憶があってもそんな事するはずがない、と抗弁しようとした時、九葉の手が突然、私の足のくるぶしからひざ裏までを撫で上げたので、悲鳴が出てしまった。ぎょっとして見上げると、
「無駄話の時間は終わりだ。こうなったからには覚悟するがいい。安易に男を煽るとどうなるのか、その身でしっかり味わっておくのだな」
鬼討ちで己の策が上手くいったときのように会心の笑み。
傍から見れば、何とも凄みのある笑顔で九葉が私を見下ろし――そうして、忘れようにも忘れられない一夜が、始まってしまったのだった。