わするばかりの恋にしあらねば2

 時は下り、オオマガドキより十年後――

 マホロバの里はその日、つつがなく節分を迎えていた。
 一時は人の世が壊れようかというほど追いつめられた過去を持つ人々は、季節折々の行事にことのほか重きを置いている。
 今をもって鬼の襲撃に怯え、明日にも命を落とすやもしれぬ日々の中でこそ、日常の生活が大切なのだと、皆骨身に染みている。
 それ故に、朝日が昇ってから後、そこかしこで節分の挨拶が交わされ、里は和やかな空気に満たされている――のだが。

 ガタタッ!
 研究所に足を踏み入れようとしたまさにその瞬間、カラクリ隊の隊長は突然、足から崩れ落ちた。
 彼女の帰りを待っていた仲間達は驚き、
「おい、どうした!?」
「大丈夫ですか、どこか怪我をしたのですか?」
 慌ててその周りに集まって口々に声をかける。当の本人はしばらくうずくまった後に顔を上げて、
「ああ……大丈夫。何て言うか……その、心臓が、ちょっと苦しかっただけだから」
 へら、と情けない表情で笑ってみせた。そのわきに膝をついた博士は問答無用で彼女の腕を取り、脈をはかって、その額に手を当てる。
「貧血か、心臓病か、不整脈か? 動悸はするか、吐き気はあるか?」
「いや、博士、本当にもう平気だから。ちょっと、緊張しすぎてただけだと思う」
「何だよ、あのオッサンがよっぽどおっかなかったのか? しっぽ巻いて逃げるなんざ、らしくねぇな」
 後ろから覗き込む焔が混ぜっ返すと、彼女は博士を優しく押しとどめながら、かぶりを振った。
「別にもめたわけではないんだけど……ここまで来たら、急に気が抜けてしまったみたい」
「少し休んでいくか? 様子を見て、必要なら薬を用意するが」
「ありがとう、博士。でも問題ないよ、それより軍師九葉の話をさせてほしい」
「お前が良いのなら聞くが……では、どうだったんだ。話は出来たんだろう?」
 立ち上がるのを手伝ってやりながら博士が問いかけると、彼女はようやくいつもの落ち着いた表情に戻り、かつての上役との再会について語った――すなわち、二重の記憶喪失について。

 博士と次の仕事について話した後、隊長は風に当たりたいと研究所を出て行く。
「おい待てよ、俺も行く」
 時継は何とはなしに気にかかり、丘の草を踏み分けてその後についていった。
「ふう……ここの風は気持ちいいな」
 崖の前に設置された柵に両手をつき、隊長が一人ごちる。その長い髪がふわりと風になびくのを見上げて、時継は声をかけた。
「おい、本当に大丈夫か? 博士にちゃんと診てもらった方がいいんじゃないか」
 しかし相手はいいや、と首を横に振る。
「問題ないよ。さっきも言ったけど、もう痛みも何もないから大丈夫」
「確かに、顔色は普通だが……記憶喪失の件がよっぽどきいたのか」
 ようやく自分の過去を知る人間と出会えて、失った記憶の手がかりが得られると思ったのに、実は元から記憶喪失だった……なんて、衝撃を受けないわけがない。
 博士は今この時が大事だと言っていたし、時継も同感だが、本人にしてみればそう簡単に割り切れるものではあるまい。と思ったのだが、
「いや、それは別に。確かに少しは分かることがあれば、と思ったけれど、無いなら無いで構わない。無理に取り戻そうとは考えていないよ」
 隊長が至極あっさり応えたので、時継はへっ、と声を漏らしてしまった。
「無いなら無いで構わないって……何も思い出せなくて不安じゃないのか? 自分のことがさっぱり分からないなんて、俺ならぞっとしないぜ」
 時継は人の体こそ失ったが、カラクリの身に宿る心は、人であった時となんら変わりない。
 これまで生きてきて、自分が何をしてきたか何を経験してきたかをちゃんと覚えているし、それは現在にも影響を与えている。
 記憶は楽しい事ばかりではなく、後悔するような思い出も抱えてはいるが、もしそれらを全部失ってただのカラクリになってしまったらと思うと、無い肝が冷える思いがする。
「そうかな。私はあまり不安には思っていないな。もちろん少し心もとない気はするけれど……でも、自分が何をすべきかは分かっているから」
 隊長は体を反転して、柵に寄りかかった。
「お前がすべき事ってのは、何だ?」
 記憶を取り戻す以上に、隊長にとって大事なこととは何だろう。何気なく問いかけた時継は、しかしその後、すぐに後悔することになる。
「……」
 隊長はすぐに答えず、まつげを伏せた。さらりと髪が肩から滑り落ち、白い顔を黒く縁取り、まるでそこだけ切り取られたかのように浮き上がった。
 不意に、まつげの影が落ちる藍色の瞳が焦点を失い、どこか遠くを見るような眼差しになる。ふわふわと頼りのない視線を時継の方へ向け、
「――鬼を討つ。私がなすべきはそれだけだ。他の事はどうでもいい」
 隊長は微笑んだ。瞬間、
(……っ!)
 全身総毛立つ、そんな錯覚を覚えて、時継は言葉を失った。
(こいつは――)
 隊長は微笑を浮かべている。
 だがその表情はうつろで何の感情も見えず、端正に整っているからこそ作り物めいて、生気がない。
 陶器のように透き通る白い肌もあいまって、頭のてっぺんから指先まで繊細に丹念に作りこまれた精緻な人形が、生きた人間を模しているかのような、強烈な違和感に襲われる。
 それはまるで、人型から魂が抜け落ちたかのような不自然さ――
(……また、かよ)
 とっさに時継は笠をぐっと押し下げて、視線を遮った。
 寒気を感じるような心地のまま、低い声で話を続ける。
「……そういうが、お前が覚えてないだけで、大事な記憶を忘れちまってる可能性だってあるだろ?
 過去にこだわりすぎるのも問題だが、どうでもいいとまで言ってやるなよ。たとえ忘れたとしても、お前にはお前の、生きてきた人生があるんだから」
 言いながらちらりと見上げると、隊長は顎に手を当て、考え込むように眉根を寄せていた。先刻まで張り付いていた人形の表情は、ぺろりとはがれ落ちるように消え失せ、
「……大事な記憶、ね。まぁそういう事もあるかもしれないか……正直、取り戻せようがなかろうがどっちでもいいけど。
 そういう事をあの人……軍師九葉に聞いたら、何か教えてもらえるかな」
 話し方も普段通りに戻ったので、時継はホッと緊張を緩ませる。
「ああ、そうしてみりゃいいんじゃないか。
 特務隊といや、奴が自分で選んだ精鋭で構成されてたって話だ。大なり小なり、お前とも何かしら関わりがあるだろうから、暇を見て聞いてみるんだな」
「うん……」
 素直に頷いたものの、隊長は再度胸に手を当てて、何やら難しい顔をしている。
「どうした、まだ気分が悪いのか」
 また倒れやしないだろうなと心配になったが、隊長はそうではなく、と心臓の上辺りをさすり、
「……軍師を初めて見た時から、何かこう……落ち着かなくて。さっき胸が痛くなったのも、話してる最中、心臓が飛び出そうな程ドキドキしていたせいじゃないかと思って」
「なんだそりゃ。お前からしたら、軍師九葉はよっぽど苦手な上司だったって事か? 記憶を無くしても体が覚えてて、拒否反応出たのかもしれないな」
「ううん……どうかな。そういう、嫌な感じではなかった……と、思うけど」
 変調の原因に思い当たらないのは、無くした記憶に由来するからなのだろう。
 あやふやに呟き、困惑した様子でしきりに首を傾げる隊長を見上げた時継は、気づかれないようにそっとため息をもらした。
 今の隊長は、普通の人間に見える。先ほど垣間見せた異様な雰囲気は、欠片も見当たらない。
 だが時継は知っていた。
 隊長は時折、ここではない何処かを見るような目をして、何もかも喪失した空っぽな顔を見せる事があるのを。そしてそれがとても恐ろしく、寂しげに見える事を。
(……何でだろうな。俺には時々、お前の方がカラクリみたいに思えるぜ、隊長)
 時継はぎゅっと笠のふちを握りしめ、近衛の宿舎がある方へと顔を向けると、
(軍師九葉。あんたがこいつとどういう関わりを持ってるのか知らないが……欠片でもいい、こいつに人間らしい思い出があった事を、思い出させてやってくれよ)
 血塗れの鬼と呼ばれる男がどれだけ彼女を気にかけてくれるものかと危ぶみながら、声に出さずにそっと祈ったのだった。