無二の背

「隊長、いるか!!」
 バン、と戸板が外れそうな勢いで開けると、土間にしゃがんでいた隊長がうわっ! と素っ頓狂な声をあげた。息せき切って駆け込んできたこちらを見上げて目を丸くし、土を払いながら立ち上がる。
「驚いた、どうしたの息吹。そんなに慌てて」
「ああ……いや、その」
 隊長の態度は普段と変わりなく、慌てている自分がおかしく思えて、息吹は口ごもってしまう。
 しかし、家の中の様子が視界に映った途端、ぎゅっと眉根が寄った。
 隊長の家はいつ来ても整然と片付いているが、今日は棚という棚、箪笥という箪笥をすべて開け放って、中にしまい込んでいたものが床に並べられている。
 一見して模様替えか引っ越しでもするつもりなのかと思えるが、ごろごろと転がる道具や防具の上に「たたらさん」「新人くん」「よろず屋さん」などと書いた紙が置いてあった。
「……部屋じゅうひっくり返して、珍しいな。これ、どうするつもりなんだ」
 うすうす察しながら問いかけると、隊長は具足をその山に乗せて、肩を竦ませた。
「ああ、売ったり人にあげたりしようと思って。ちょっとため込みすぎてしまったし、家に置きっぱなしにしてたら、次に入るひとが困るでしょう」
「……じゃあ、あんた本気なのか。ウタカタを出るっていうのは」
 本部でお頭からその話を聞いた時は耳を疑った。
 まさかそんな事あるはずがないと、その場で駆け出して隊長の家まで押しかけてきてしまったが、果たして事実だったようだ。
 入口で立ちっぱなしも何だからと、溢れる物の間に道を作って囲炉裏まで息吹を招いた彼女は、白湯を出してくれた。自分も湯呑みに口をつけながら、
「まぁそうだね。といっても、ちょっと様子を見てくるだけだよ」
 軽い口調で答えてきた。
「ほら、イヅチカナタを倒した後、異界の様子がだいぶ変わったでしょう。まだ鬼は出るから、そう大きな変化がすべての場所に出るという事はないだろうけど」
 正座した膝近くに器を包む手を置いて、隊長は目を伏せる。
 遠くを見るような憂い顔は、滅びた故郷を思い出しているからだろうか。
「でももしかしたら、千歳が昔いた川辺のように、かつての光景を取り戻した場所があるかもしれない。一度、それをこの目で確認したいと思う」
「……確認して、どうするんだ?」
 湯呑みを持ったものの、飲む気にもなれず手中で揺らしながら、息吹は口を開いた。
「こういっちゃなんだが、八年経っても異界に沈んだまま、より一層荒れてるかもしれない。あんたはそれを見たいのか」
 しかしこぼれた言葉が、自分でもぎょっとするほど強い語調だった。
 こんな風に詰問すべきではないと思うのに、声は尖るばかりだ。
 隊長はそれに気付いているのかいないのか、小さく首を傾げた。
「そうだね……確かに昔よりも荒れていたら、とても悲しいけど」
 けど、と隊長は微笑む。
「もしそうだったとしても、大丈夫。ちゃんと受け入れられる。オオマガドキの時は子供で何もできなかったけど、今ならきっと、何か出来ると思うんだ。
 相馬じゃないけど、もし困っている人がいたなら、手助けしたいから――とにかく一度、あずまに帰ろうと思ってる」
 断固とした口調に、腹がずんと重たくなる。息吹は顔をしかめそうになって、慌てて繕った。
「それなら盛大に送別会をやらなきゃな。ウタカタを上げて、ムスヒの君を送り出してやるよ」
「いやいや、お気遣い結構。何も戻ってこないってわけじゃないよ、様子を見てくるだけと言ったでしょう? とにかく一目見て帰ってくるつもりだからね」
(そうかな。本当にあんたは帰ってくるのか?)
 芽生えた疑問は咄嗟に飲み込んだ。
 いや、これは問いじゃない、疑念だ。
 隊長が自身の言葉を裏切って、あずまに腰を据えてしまう事は十二分にありうると、疑っているのだから。
「まぁ一時の事とはいえ、ちょっと長めに家を空けるから。
 お頭に相談したら、それならその間、新人に家を貸してやれと言われたんだ。
 空き家にしたままよりも人が使ったほうが家の為にいいし、あずまから戻った時、また一から掃除をしなくても済むだろうと言われてね」
 説明しながら、そういえばと何か思い出した様子で隊長は腰を上げた。
 雑然とつみあがる物の隙間を縫い、
「で、今のこのありさまで人様に渡すのも気が引けるから、物を片付けようとしてるんだけど……ええと、どこやったかな」
 きょろきょろと何かを探している。息吹はその背中を目で追い、細めた。
(細い体だ)
 そんな事を不意に、改めて思う。
 二度も鬼の脅威から世界を救った今世の英雄は、見た目は普通の女性だ。
 もちろんモノノフである以上、一般人よりは鍛えた体格をしてはいるものの、男である息吹とは根本的に違う。
 たたらが「意外と華奢な体してんだよな、あいつは」と評していたが、防具を外してしまえば、女性らしい柔らかな、円やかな体つきだ。
(この背に、俺は命を預けた)
 初めて会った時は初穂と同じくらい頼りなげだった彼女はいつの間にか、先頭を切って走り、誰よりも勇猛果敢に戦う歴戦の勇者になっていた。
 戦いの場で頼りになるだけでなく、息吹が後生大事に抱え込んでいた過去の傷を、同情するでもなく、叱り飛ばすでもなく、背中を預ける相棒として全幅の信頼を寄せる事で癒してくれた。
(あんたは俺を信じてくれた。俺もあんたを信じていた)
 彼女と共にいれば、恐れる必要などなかった。
 むやみに仲間の命を惜しみ、無謀な戦いを仕掛ける必要もなかった。
 己の槍を、背中を預けられる相棒がいるというのはこれほど心強いものなのかと感動してしまうほど、息吹は彼女を認めていた。
 だから、思う。なぜウタカタから――否、自分から離れて行ってしまうのか、と。
(行かないでくれ)
 そう叫んで抱きしめたら、彼女はどんな顔をするだろう。
 おいていかないでくれと子供のように泣きすがったら、思いとどまってくれるだろうか。
 息吹は無意識に、隊長の背中に手を伸ばしかけた。だが、その指先がわずかに服をかすめた時、やけどしたようにさっと引いて拳を固める。
(駄目だ。隊長の自由にさせてやれ)
 彼女はまだ若い。オオマガドキの際の息吹と同じくらいの年ごろだ。そんな若い娘に、大人の自分が駄々をこねるなんて、大人げないにもほどがある。
(もし隊長があずまに行ったきり、ウタカタに戻らない決意を固めたとしても――それを咎める権利は、俺に無い)
 握った掌に爪が食い込む。ぐ、と唇をかみしめた時、隊長が「ああ、あった!」と急に声を上げた。
 何事かと思いきや、とすとすと息吹のところへ戻ってきた彼女は、何かを差し出した。
「息吹、これ預かっていてくれる?」
「え? ……って隊長、これあんたの刀じゃないか」
 目の前に現れたのは、隊長が愛用している双刀のうちの一刀だった。短くも激しい戦いを潜り抜けてきたその柄は、巻いた布がすりきれ、手の形にへこんでいる。
 一方は自分の腰にさし、もう一方を息吹へ向けて、隊長はにっこり笑った。
「あずまに行っている間、息吹に持っていてほしい。
 これは私の魂と同じだから、ウタカタへ戻ってくる目印、みたいなものかな」
 自分のみっともない懊悩が見透かされていたのだろうか。一瞬そう思って息吹はぎくりとしたが、隊長の笑顔を見上げて、そうではないと気づいた。
(隊長も不安なんだ。――あずまへ行くこと、あずまをその目で見る事が)
 故郷はもはや、その面影など少しも残していないかもしれない。どんな事になっているか想像する心中は、さぞ複雑な事だろう。
 けれど隊長には、帰る場所がある。第二の故郷ともいえるこのウタカタが――大事な仲間が、背中を預けられる相棒が。
「あずまがどんな事になっていても、私はウタカタに帰ってくるよ。だから息吹、預かっていて」
 だから自分の半身を惜しげもなく、他の誰でもない、相棒と認めた男へ渡す。それは何よりの信頼の証だ。
「……わかった、隊長。あんたが帰ってくるまで、大事に持っておく。だから安心してあずまへ行ってくれ」
 柄を取り、隊長の手の跡を掌に感じながら、しっかりと頷いた。
(あぁ、あんたは戻ってくるんだな)
 別れは恐ろしい。この世は無常で、どんな命も容赦なくあっさりと奪っていく。
 けれどきっと、いや必ず、彼女はここへ、自分のもとへまた戻ってきてくれるだろう――それを心から信じられる幸福に満ち足りた思いで、息吹もまた彼女を見上げて、優しく微笑み返したのだった。