「あら息吹さん、お怪我なさったんですか? 噛まれたような跡がありますね」
那木がそれに気づいたのは、台所盤の女性に頼まれて息吹と共に食糧庫へやってきた時だった。上の方の棚に置いてあるジャガイモの籠を息吹がひっぱり出し、那木に手渡そうとした際、右の手にくっきり歯形が浮かんでいるのが見えたのだ。
元医者として、那木は常に皆の体調を気にかけている。鬼を相手に戦う以上、これまでの医術では対応できないような未知の病原体を取り込む可能性もあるのだ。ほんの少しの傷でも見過ごすわけにはいかないという普段の心がけから、息吹の噛み跡に気づいて何気なく指摘したのだが、
「えっ!」
「きゃっ!?」
息吹が突然籠から手を離して、後ろに隠してしまったので、那木は危うく落としそうになった。勢い余って芋がいくつか転がり落ちてしまい、
「ああ息吹さん、急に離さないでくださいな。驚きました」
重たい籠をよいしょと抱えなおす。息吹は罰の悪い顔になって、悪い悪いと落ちた芋を拾い上げた。噛み跡のあるのとは反対の手でそれを籠に戻しながら、目を泳がせる。
「……いや、ちょっと天狐に噛まれてね。怪我と言うほどのものじゃないから、気にしないでくれ」
天狐に噛まれて。その答えに那木は一瞬眉根を寄せた。かの動物を詳しく調べた事はないが、天狐は一見して、人間と異なる歯並びをしている。
もし息吹が手を噛まれたというのなら、歯形は三角形につくはず……だが、先ほど垣間見たのは楕円形。どう考えても人間のそれだ。そこまで考えた那木は、間を置いた後、
「……そうですか。息吹さんがその天狐にどんな悪さをなさったか知りませんが、ほどほどになさったほうがよろしいですよ」
小首を傾げて、色々問い詰めたいですけど大人なので今回だけは見逃して差し上げますね、という気持ちを込めてにっこり微笑んであげた。対する息吹は、こちらの意図を理解したのか、少し赤面して苦笑いした。
「はい。先生の言うことを聞いて、十二分に気を付けますよ――」
「……という事があったんで、人目に触れるところに噛み跡つけるのやめてくれないかな、隊長」
二人だけの時間になった時、息吹は懇願した。那木の前では平静を装っていたが、内心では心の臓が爆発しそうなほど動揺していて、実に居心地が悪かったのだ。
諸悪の根源たる隊長は天狐の毛づくろいをしながら、
「駄目。息吹は女の人に声かけるのが癖になってるから、私のものだってちゃんと印をつけておかないと、取られちゃうかもしれないでしょう?」
「そんな事ないって。俺を信用してくれないのか? 俺は……もうあんた以外、見えないのに」
普段の口説き文句とは違う、本心からの言葉を口にするのは恥ずかしい。
恋人に睦言を囁くのはこんなに恥ずかしい事だったかと思いながら、最後の方は小声でつぶやくと、隊長は天狐からこちらへ顔を向け、
「……それなら、今度は見えないところにつけようかな。息吹が私のものだって、服を脱ぐたびに思い出すように」
「ぐっ……お、お手柔らかに頼むよ……」
那木のように満面の笑みでそんな殺し文句を言ってきたので、息吹はいよいよ真っ赤になって硬直してしまった。
隊長の言葉はいつも率直すぎて、嬉しいが辛いし恥ずかしいしちょっと怖い。