その女は、いつも一人だった。
傍から見ていれば、彼女には仲間がいた。寝食を共にし、命を懸けた任務へ挑み、背を預ける友がいた。
だが、彼女は一人だった。
どれほど皆に好かれ慕われ囲まれていようと、彼女はいつも此処ではない場所を見るような遠い目をしていて、一人心を何処かへ飛ばしていた。それが空しく寂しげに見えてならなかった。
そんな孤独な女が、どんな気まぐれか、自分におかしなことを告げた。
――私はあなたの生き方を尊敬しています、九葉。
それは立て続けに起きた鬼討ちの任務を片付けた後、心身共に疲れ果てて、やっと休息を得た日。
ふらりと執務室へやってきた彼女は、特に何をするでもなくぼんやりと座り込んでいたが、不意に口を開いたと思ったらそんな妙な事を言う。
――それは皮肉か? 味方殺し、霊山君の腰ぎんちゃく、汚職の根源と誹謗中傷を雨霰と受けるこの身の何を尊敬するというのだ。
久方ぶりに戻った霊山は相も変わらず伏魔殿で、望む望まずを問わず、孤軍奮闘する軍師九葉は鼻つまみ者だ。
私利私欲に目がくらんだ連中を弾劾した返しに、散々浴びせられた罵声を思い出して辟易し、口を曲げる彼に、彼女はだって、と静かに続ける。
――九葉、あなたは救える命を救い、失った命を背負って他を活かす為、常に邁進し続けている。そのゆるぎない信念に、多くの者達が生かされてきている。
――鬼を討つ。私がなすべきはそれだけで、他に何もない。この手は奪うばかりで、何も生み出す事が出来ない。
――それが、今は少し悲しいように思えるのです。私にも、あなたのような強さがあったらよかったのに。
彼女が淡々とした、それでいて寂しげな述懐しながら、まるで自分の事は何もかも諦めたような微笑を浮かべたので、
(そんな事はない)
と、応えてやりたかった。
鬼と戦う事そのものが、人の世を救う端的で最善の方法であり、彼女はその一番槍に他ならない。
彼女が自ら傷つく事を厭わず、強大な鬼であっても立ち向かい、結果どれだけの人々を救ったか。
どんな劣勢に置かれようと怯みもせず、戦い続けるその姿に、同じモノノフ達がどれほど勇気づけられたか。
そして何より、
(この私が、どれほどお前の存在に助けられている事か)
特務隊の隊員として、時に理不尽にさえ思えるような任務を下しても、彼女は不平一つ言わなかった。常に彼の策を信じ、そのために戦い、そして生きて帰ってきた。
ゆえに彼女は、九葉にとっても英雄だった――否、それだけではなかった。
「九葉」と彼女が呼ぶ声を、「ただいま戻りました」と任務から帰還して発するその一声を、いつの間にか心地よく聞くようになっていた。
拾った当初は半死半生、ようやく回復しても無表情で人間味の無かった彼女が初めて笑った時、自分で戸惑いを覚えるほどに安堵した。
任務の報酬にと与えた新しい装備品を、感謝の面もちで受け取り、大事に手入れをして使っている姿を見て、微笑ましく思っていた。だから、
(お前は、鬼討ち以外に何もない人間ではない)
そう伝えてやりたかった。
何もないなどと言ってくれるな、一途に己の道を突き進むその姿にこそ、惹かれてやまないのだからと言い掛け、これではまるで口説いているようだと怯んだ時。
――時々あなたがまぶしくて、羨ましくも思います。九葉、私もあなたのようになりたかった……
不意に藍色の瞳が焦点を失い、それまで宿っていた輝きが消え失せた。
魂が抜け出た人形のごとく虚ろな表情になり、その輪郭が不意にぼやけたような錯覚さえ覚えた。
(消えてしまう)
何の脈絡もなくそう思い、ここに留めておかねばと焦った。
(私はまだ、お前に何も伝えていない)
まだ、言わなければならない事が山ほどあると、そう思ったので。
手を伸ばし、無防備に自分を見上げる彼女に触れ――気づいた時には、柔らかい唇に己の唇を重ねていた。
『あなたは、九葉? あなたは――私を欲しいと思ってくれている?』
……そして、横浜でのあの夜。
灯りのない閨の中、ひそやかに囁かれた問いの答えは、口に出来なかった。
そんなものは愚問に過ぎなかった。
自分はもう、とうの昔に彼女という存在を欲し、自分のものにしてしまいたいと願っていた。
自分は彼女の保護者だから。
年が親子ほどにも離れているから。
上司と部下だから。
彼女がそんな関係を望んでいないから。
そんな理由をいくつも掲げて、己の欲を心の奥底にしまい込み、存在さえ忘れたふりをして、自身を律していなければいけないと思っていた。
(後悔を、するかもしれない)
床に横たわり、頬を上気させ潤んだ瞳で自分を見上げる彼女を見下ろし、理性が溶けていくのを感じながらそれでもなお恐れていた。
彼女を手に入れてしまう事が、恐ろしい。否、
(私はいずれ、お前をも殺してしまうのではないか)
どれほど彼女に心を砕こうと、もし今、犠牲を覚悟して兵を戦地へ送らねばならない事態になったら、自分はきっと彼女を死地へ向かわせてしまう。
『っ……く、よう……九葉……っ』
しなやかな腕を背に回してしがみつき、健気に自分の名を呼ぶ女を、愛しいと――この世の何よりも愛しいと思いながら、
(私はきっと、お前を失ってしまう)
それでもなお、人の世と彼女の命を秤にかけた時、決して彼女を選ばないであろう己の業に、九葉は絶望せずにはいられなかった。
彼女の名を呼び、唇に触れ、汗のにじんだ滑らかな肌を撫で、このまま一つに溶けてしまえばいいと思うほど深く身を重ねて、それまで生きてきた中でも至上の幸福に満たされ……
――そこで、目が覚めた。
ちゅん、ちゅん、と小鳥の鳴き声が聞こえる。
す、と目を開くと、障子を通して差し込む光はうすぼんやりと明るく、夜が明けた事を示していた。
「…………」
天井の格子をしばし凝然と見上げた後、
「…………ふーーーーーーーーーーーー…………」
漏れ出たのは、長い長い溜息だった。ぐったりと体が重たいのは、あんな夢を見てしまったからだろうか。手を持ち上げて目を覆い、
(……私は、阿呆か。己で今更と言っておきながら)
自分がいかに彼女を愛しく思っていたかを再確認するような夢を見てしまうなど、愚かしいにもほどがある。
大体、もう十年が経っているのに、どうしてこうも記憶が鮮明なのか。あるいは現在の彼女が、わざわざ想起させるような事を言ってきたからなのか。
(……微に入り細に入り、思い出してどうする)
ゆっくり体を起こし、寝乱れた髪をかき上げながら、もう一度太く息を吐く。
自分と一夜を共にしたことを思い出したといっても、どうやら部分的にしか覚えていないらしい彼女の代わりとでもいうように、九葉の夢は最後の夜の思い出をあまりにも生々しく、細かいところまで再現してしまっていた。
おかげでもう目が覚めたというのに、まだ名残が残っているような妙な感じがして、大層気持ちが落ち着かない。
彼女が鬼門に飲まれてから、ずいぶん時が流れた。
十年は思いが薄れるのに十分な長さであるし、オオマガドキ以降は個人の感情に拘泥する余裕など一切なかった。正直、彼女を思い出さずにいた時期もあった。
だというのに、再会して然程の時が過ぎぬうちに、こうも心が揺り動かされるとは。
「……未練がましいにも程があるな」
夢の残滓を振り払いながら、一人ぽつりと呟く。
自分はまだ、彼女への思いが断ちきれずにいる。あんな形で別れ、それでもいつか再会するかもしれないと希望を抱き続けた結果がこの体たらくなのだろう。
だが、彼女は違う。
(あやつはもう特務隊配下ではない。マホロバの、カラクリ使いだ)
記憶をほとんど失った彼女は、この地で新たな人生を歩み始めている。出会ったばかりの頃の無気力さは垣間見えるが、良い仲間に恵まれ、少しずつ心を開いてきているようなのは、見て取れた。
(ならば、昔の事などわざわざ持ち出す必要はない)
過去に九葉と何があったとしても、今の彼女にはもはや関わりのないことだ。
蘇った記憶のせいで過去の感情を今の気持ちと混同し、九葉へ思いを寄せるような勘違いをさせてはいけない。
(私も老いた。十年前でもいかがなものかと思うほど年が離れていたものを、この上おいぼれの相手をさせるわけにもいくまい)
幸い彼女の周りには近い年頃の若者がごろごろしているし、和気あいあいとやっているようだから、いずれ誰かと恋仲になるような事もあるだろう。
(……ゆえに、カラクリ使いの隊長よ。私のことなど、忘れろ)
しかし心中で呟いたと同時に、
――今のお前には、関わりのないことだ。
九葉の言葉を聞いて、藍色の目を瞠って絶句した彼女の顔を思い出し、胸がずきりと痛んだ。
あ、と何かを言おうとして口を開いた彼女の表情がくしゃりと歪み、今にも泣き出しそうになって、思わず手を伸ばしかけたのを思い出してしまう。
(……本当に、未練がましいことだ)
こんな事になるのなら、いっそ再会しない方が、彼女の為だったのかもしれない。
口の中に何か苦いものが広がるような思いで歯噛みしながら、九葉は布団を払いのけた。今はとりあえず、凍り付くほど冷たい水を浴びて、昔の夢に酔っている己の目を覚ますべきだ。