異界の空気は冷たく、重い。
正体不明の霧は、人が一歩異界に足を踏み入れた時からその体を蝕み始め、長く留まれば息をするだけで命を奪う猛毒の瘴気だ。
ゆえに、耐性のあるモノノフであっても常に行動限界を意識して慎重に行動する必要がある。しかし、今この時、その常識が根底から覆されている。
「本当に瘴気が薄くなっているな。深部にあってこの清浄さ……信じられん」
「異界を浄化するなんて事出来るのね、びっくりしたわ。秋水が聞いたら、どうやってやるのかすっごく知りたがりそう」
軍師付きの武官二人、相馬と初穂は先ほどから感心しきりで話が尽きない。
その二人に守られながら異界の出口へと歩を進める九葉もまた、異界の変化を肌身に感じていた。
紅月を尾行して領域に侵入、その深部へ進むにつれ、濃くなっていく瘴気がまとわりつき、まるで汚泥の中を泳いでいるかのようだった。しかし瘴気の穴とやらが塞がれた後には、清らかな空気が吹き抜け、周囲の瘴気も随分と薄くなっている。
「イツクサの英雄がふらふらと何をしているのかと思えば、よもや異界の浄化をもくろんでいようとはな。なかなか面白い事をしている」
九葉が感想を述べると、近寄ってきた小鬼を金砕棒の一振りで薙ぎ払った相馬が、息一つ乱さず会話を続ける。
「さっきの話を聞いた限りでは、カラクリ隊の隊長が要になっているようだったな」
「あやつはミタマを複数宿せる特異体質だ。今回はそれが功を奏したようだな」
それならウタカタでも同じ事が出来そうだと思いながら言うと、そういえば、と初穂が思い出したように九葉に顔を向けた。
「あの隊長さんって、九葉の知り合いなのよね? 私はまだあんまり話をしてないけど、どういう人なの? うちの隊長みたいに、ムスヒの君の力を受け継いでるとか?」
「…………………」
「……?」
思わず黙り込んでしまう九葉。急に妙な間があいたので、訝し気に首をかしげる初穂。いや、と九葉は視線を背け、
「……詳しくはわからん。私が拾った時、あやつはすでに自身の記憶をほとんど失っていた。元からの異能か、それとも何らかの要因によるものかは知らぬ」
「そういえば、あいつは九葉殿の特務隊にいたんだったな」
興味がわいたのか、相馬も話に加わってくる。そうだ、と九葉は首肯した。
「相馬、お前ならば聞いた事があるだろう。十年前の当時、あやつはなかなか名の知れたモノノフだった」
特務隊の筆頭として活躍していた彼女の名は、鬼と戦う者達の間では希望の星のように囁かれていたものだ。相馬は軽く眉根を寄せた後、ああ、と手を打った。
「言われてみれば、確かに小耳にはさんだ事があるな。かなりの剛の者と噂でもちきりだったから、一度手合せしたいものだと思っていた」
「何よ、すっかり忘れてたわけ? 相馬ったら記憶力ないわねー」
鎖鎌で手すさびに足元の草を刈りながら初穂があきれ顔で言うと、相馬は口を曲げた。
「やかましい。同じ名前だとは思ったが、聞いたのはもう十年も前だぞ。まさか同一人物だとは思わないだろう」
――そう、もう十年前の事。
仲睦まじく口喧嘩を続ける相馬と初穂の後を歩きながら、九葉は考え込んでしまう。
彼女が鬼門に飲まれ、オオマガドキで世界が変わってしまったあの日から、思っていた以上に時は流れた。
(まさか今頃になって、再会する事になろうとはな。
……いずれ来るもの、と思ってはいたが)
この十年、九葉は待ち続けた。
横浜の地で見た「あの」戦い、それが意味するものを信じて、待ち続けていた。
二年前に相馬、初穂と出会い、マホロバで紅月を見た時によもや、と期待が胸をよぎりはしたが、まさか本当に本人が現れるとは。
(いざとなると、驚きしかないな)
再会した彼女は、格好こそ違えど、十年前鬼門に吸い込まれた時と同じ姿をしていた。
寸分の狂いもなく、年月になんら影響される事なく、本当にあの日のままだった。
聞けば、あの場から十年後の今に直接飛ばされたのだ、という。
鬼は鬼門を用いて過去や未来を超越しているというのが通説なのだから、なるほどそういった事もあろうが、それにしても。
(……十年、か。いささか長かった)
無意識に自分の顔に触れ、刻まれた皺の多さに思わず顔をしかめる。
(あやつはあの時のままだというのに、私は老けたか)
これでは彼女が、老けましたねと即座に返したのも無理はなかろう。向こうは一つも年を取っていないのに、こちらは十年余計に年月を重ねてしまった。
(いや、生きている内に出会えただけ、僥倖というものではないか)
初穂のように数十年単位で未来へ迷い込むような事もある。九葉がまだ寿命があるうちに、偶然にでも再会できたのは奇跡のようなものだ。
(だが、あやつは全てを忘れている)
その事に思い至ると、胸が重くなったような気がする。
九葉と彼女が共にいたのは、ほんの数年の間。その短い時間の中で九葉は彼女の才を生かすべく尽力し、彼女もそれに応えてくれた。
特務隊として戦地を駆け巡り、命を共にして戦った記憶は今、彼女の中にない。そして、
(あの夜の事も……忘れている)
横浜の地で、鬼門に飲まれて離ればなれになるその前――互いの感情をぶつけ合い、後悔するのではと恐れながら一線を越えてしまった一夜を、彼女はきっと忘却してしまっている。
(そうでなければ、あのような態度を取るはずがない。あの、見知らぬ他人を見るような……)
「っ!」
不意にずき、と胸に痛みが走り、足が止まる。同時に、
「九葉、危ない!!」
風を切り裂いて鎖鎌の分銅が目前を奔り、ギャッと醜い悲鳴が耳に飛び込んできた。
咄嗟に振り向くと、いつの間に忍び寄ってきたのか、ワイラがふっとばされて地面でのたうちまわっている。
「ふんっ!!」
即座に相馬が駆け寄り、金砕棒を振り下ろしてとどめを刺した。じたばたともがく体が、やがて糸の切れた人形のようにぱたりと沈み込むと、相馬は続いて鬼祓いを始める。
「…………」
惚けたようにそれを見つめる九葉に、初穂が近づいてきて、ちょっと! と高い声をさらに高くした。
「勝手に一人でふらふらしちゃ駄目じゃない、九葉! いついかなる時も油断大敵ってキミが偉そうに言ってたくせに、自分が気をつけなきゃ!」
どうやら考えに入り込むあまり、周囲への警戒を怠ってしまったらしい。九葉は瞬きをした後、
「……あぁ。……そうだな、初穂。すまない」
素直に謝罪を口にしていた。途端初穂が目を見開き、
「く……九葉が……九葉が、謝った!?」
素っ頓狂な声で驚いたので、相馬がぎょっとして振り返った。
「おい、あまり騒ぐんじゃない。鬼が気づいて寄ってくるだろうが」
「で、でも相馬、今の聞いた? 九葉が私に、すまないっていったのよ、すまないって! こんな事今まで一回だってなかったのに、これも異界が浄化されたせい!?」
「そんな関係あるか! お前はちょっと落ち着け!」
「……良いから戻るぞ、二人とも」
二人して大騒ぎしてどうする。九葉は気を取り直して、再び出口へと歩き始める。だがその心中は深く沈み、瘴気を飲み込んだかのように苦い。
(……忘れてしまったのなら、都合がいいではないか)
それを飲み下すように喉を鳴らしながら、思う。
(あやつもいっていた。腹心の部下であったのは、昔の事だと)
今彼女はマホロバのモノノフ、カラクリ隊の隊長だ。九葉配下の特務隊は全滅し、今はもう跡形もない。
(そうだ、昔の事だ。あれはもはや、
ゆえに、己も忘れろ、と。
彼女と過ごした思い出も、あの夜の事も――全て忘れてしまえと。強く、強く自分に言い聞かせたのだった。