マホロバに鬼の大群が迫る中、人々は巫女の結界の中で戦いの準備に奔走し、騒然とした夜を迎えていた。
諸々の手配をようやく終えた九葉が仮住まいに戻ったのは、あと数時間で夜もあけようかという頃。
「……そこで何をしている、蕾?」
その家の前に立つモノノフ――かつての部下の姿を認めた九葉は眉を上げた。当の相手はのんきに笑いかけてきて、
「お疲れさまです、九葉。遅かったですね。なかなか帰ってこないから、ちょっと寝ちゃいました」
「道端で寝るな。明日の為にも帰って休め」
何をしているのかこいつは、と呆れながら脇をすり抜ける。
と、袖を掴まれて引き止められた。
「そんなつれない。あなたを待っていたんですから、お茶くらい御馳走してくださいよ」
「何を勝手な……いい。茶いっぱいで帰るのだぞ」
重ねて叱ろうとしたが、へらへらした笑顔を見ていたら、押し問答も無意味と早々に悟った。
九葉は仕方なく蕾を連れて敷居をまたいだ。
近衛に用意された住まいはこざっぱりとしていて、余計なもののない家だった。
身の回りの世話をする従者も寄越されたが、どこも人手不足の折り、自分の世話は自分で見られる、と帰してある。
そのため、囲炉裏に腰を下ろした二人の茶を、九葉は手ずから出した。蕾は喉が渇いていたのか、湯呑を一気に煽って、
「ああー……美味しい。あなたのお茶は相変わらずの絶品ですね」
ひどく満足そうにため息を漏らした。
茶の味に固執した事はないので、左様かとそっけなく流して九葉も茶を口にする。
味にこだわりはない、しかし決戦に備えて駆けずり回ったおかげで強張った体に、ちょうどいい熱さの茶で緊張がほどける思いがした。一息漏らした後、
「……それで、今日は何用だ。明日という日を控えて、よもや恐ろしくて眠れないなどというのではなかろうな」
問いかけると、蕾はまさか、と肩をすくませる。
「自分で覚えている限り、鬼との戦いを怖いと思った覚えはないです。それはあなたもご存じなのでは?」
「確かにな」
横浜で離ればなれになるまで、蕾は九葉の配下として数えきれないほど戦い続けた。
もとより秀でた能力を持ち、大型さえ時に一人で圧倒するほどの才も要因なのだろうが、どれほど絶望的な戦場であっても、蕾は怖じく事を知らなかった。
物理的、そして精神的なその強さを目の当たりにして、九葉は時に、今や腐れ縁となり果てたウタカタのお頭を思い起こす事があったほどだ。
ではなぜ、と重ねて問うた。
「私を待っていたのだ。この期に及んで、語らう事もあるまいに」
「ちょっと、ひどいな。あなたとこうして話す機会なんてほとんど持てなかったんだから、こっちは聞く事が山のようにありますよ」
子供のように頬を膨らませる蕾。九葉は肩をすくませた。
マホロバで再会してからというもの、騒動に次ぐ騒動で、じっくり語り合う時間など取れなかったのは事実だが、それは九葉のせいというより、蕾のせいだ。
彼女はいつも騒動の中心にいたのだから。
「とはいえ、今もさほど時間があるわけでもないですけどね。さすがに少し寝ないと、徹夜明けで鬼を迎え撃たなきゃならなくなる」
湯呑に残ったわずかな露をなめて彼女が呟く。
「ならば一寸の暇を惜しんで休むがいい。話など戦の後でも出来よう」
蕾はマホロバ戦力の要だ。
もし倒れるような事があれば、全軍の士気にかかわりかねない。
休息もまたモノノフにとっては重要な責務ととうに承知しているはずなのに、なぜ無為な事をするのか。
相手の不可解な行動に眉根を寄せると、蕾は一瞬視線を上げた後、長いまつげを伏せて、
「……ちょっと、怖くなったんです」
小さく呟いた。
「なに?」
つい先ほど、怖いと思ったことはないと豪語したばかりで何を言っているのか。聞き返すと、蕾はらしくもなく自嘲気味に唇をゆがめ、
「鬼と戦うのは恐ろしくはない。けれどこんな大戦は横浜ぶりで……もし戦っているさなかにまた鬼門が開いて、どことも知れない場所に飛ばされてしまったら、と。
――そんな埒もない想像をしてしまったんですよ」
九葉はわずかに息を飲んだ。
十年前のあの時、横浜での戦い。自分の目の前で鬼門に吸い込まれた蕾の姿は、今でも鮮やかに蘇る……胸を刺す鋭い痛みと共に。
「……それはない、とはいえんな」
ゆっくりと湯呑を床に置き、九葉は言葉を紡いだ。
「鬼は鬼門を使って時空を超える。それほどの事をなしとげるには相当に力を持つ鬼でなければならないが、此度来襲してくるのはシンラゴウをはじめ、大型の鬼ばかりだ。
中には鬼門を開ける個体が混じっているやもしれん」
「物見からそういった連絡は来ていませんが……鬼を相手にしたら何が起きても不思議はないでしょう。
それに初穂のように、異界をさまよっていたらいつの間にか時を越えていた、なんて例もある事だし」
同じ時の迷い子として、初穂とも互いの事情を話し合ったのだろう。
蕾は憂いを帯びた表情で囲炉裏の火を見つめている。
「そう考えたら、怖くなるのも仕方ないでしょう? まぁ、私自身はどこへゆこうと、生き延びられる自信はありますが」
だろうな、と思わず首肯する。
記憶を二重になくして十年後の世界に彷徨い出たというのに、蕾の生き方には迷いがない。
「モノノフとして鬼を倒す。自分がすべき事はそれだけだと、良く言っていたな」
「そう、なんですね。昔と今とで私は変わりないんだな」
記憶になくとも、信念は変わらぬのだろう。蕾はそこで少し憂いを和らげて微笑んだ。
「だから私は鬼さえいえば、どこだろうと上手くやっていけるとは思います……が」
手の中で空の湯呑をくるくる回しながら、蕾は言いよどむ。短い沈黙を挟んだ後、
「……もしまた鬼門でいずこかへ飛ばされてしまったら。
マホロバの皆と……あなたと、離ればなれになってしまったらと考えたら、どうにも寝付けなくなってしまったんです」
「…………」
九葉は目を細めた。
これが昔なら、何を情けない事をと鼻で笑ったかもしれない。
十年前の九葉は、明日自分が死んでも、お前は鬼を討つ事だけ考えろと口を酸っぱくして言い聞かせていた。
千年もの間続く鬼との戦いに終止符を打つ。
彼の望みは昔から変わらず、その為なら自分も他人も戦の駒として使う事に躊躇いは無かった。
戦いの中に個人の情を挟む余地などなく、互いに依存しあうようななれ合いを一切許さなかった。
しかしそれも、十年前と二年前、二度の戦いを経て変わった。
「……お前は」
すっかり温くなった茶に口をつけながら、九葉は言った。
「お前は、あの時鬼門に消えた。
そして今、こうして私と再会した」
目は見ない。湯呑の中で揺れる茶に視線を据えたまま続ける。
「十年の時を必要としたにしても、お前も私も生きてめぐり合う事が出来た。それはおそらく、我々の間になにがしかの縁があるのだろう」
「……縁ですか」
少し驚いたような声音で蕾が呟いた。そうだと頷き、九葉は再び湯呑を置いた。
ゆっくりと顔を上げ、相手と視線を交わす。
(私はその縁にすがって、生きてきたのだ)
十年前と少しも変りない、曇りのない瞳と真っ向から見つめ合い、口にしないまま叫ぶ。
どれほどに絶望的な状況に陥ろうとも、犠牲になった人々の怨嗟に身を焼かれようとも――自分は生きなければならないと思った。
彼の策によって流された数多の血に報いるために。
そしていつの日かまた、この女に巡り合う日が来る事を信じていたがゆえに。
「……少し、待て」
しかしすんでのところで本心を飲み込み、九葉は腰を上げた。
きょとんとする相手をよそに戸棚の引き戸を開けて中身を取り出し、それをどすん、と二人の間に置く。
「お酒、……ですか? 九葉、あなたがお酒を持ち込むなんて珍しい……ような気がしますけど、よく飲むんですか?」
今度は声のみならず、目を丸くしてはっきり驚きの表情を見せる蕾。
その前に置いた一升瓶から手を離し、九葉は腕を組んだ。ゆるりとかぶりを振って、
「いいや。これは賄賂だ」
あっさり言う。は、賄賂? と言う相手の反応に続けて答えた。
「マホロバは今お頭詮議の真っただ中だ。少しでも審判役の印象を良くしたいとちょろちょろする輩が後を絶たぬでな。
これはその愚か者がいらぬというのに置いていった代物だ」
「賄賂って、そんな事する人もいるんですね。八雲や刀也が聞いたら激怒しそうなものですが……。
でもそれじゃあ、あなたがこれに手を付けては問題になるのでは?」
まじまじと酒瓶を覗き込んでから蕾は柳眉をひそめる。何問題あるまい、と九葉は口の端を上げた。
「何しろそれを開けたのは私ではなく、家に上がり込んで棚を漁ったお前だからな」
「はっ!?」
予想外の言葉に素っ頓狂な声を上げる蕾の、予想通りの反応に思わずくっと笑ってしまう。
「私は手を出していないのだから詮議の公平性に問題はなく、里の英雄がそれを飲みほしたところで、送り主が抗議できようはずもない。
それは賄賂としての用をなさずに処分されるというわけだ」
「……そんな無茶苦茶な」
つられたように蕾は苦笑を漏らした。
「あなたも随分老獪になりましたね。
焔の時といい、平気な顔で無茶を通すのは霊山軍師の面目躍如ってところですか」
「そうならねば、私はこの年まで生きてはいない。
……さぁ、早く開けろ」
促されるまま、蕾は酒の封を切った。それを手にこちらへ差し向けようとしたのをするりと奪い取り、
「九葉?」
「私は飲めぬ酒だ。お前の腹にのみ収めておけ」
空の湯呑になみなみと注ぎ入れる。苦笑いをしたまま酌を受けた蕾は、軽く匂いをかいで頬を緩めた。
「ああ、いい匂いだ。これは良いものですね、私だけが飲むのでは勿体ない。
あなたも相伴にあずかって下さいよ、九葉。
私が勝手に飲ませたのなら、問題ないんでしょう?」
止める間もなく茶の残りを囲炉裏に捨てて、酒で満たしてこちらにもたせて来る。
無理強いされたのであれば致し方あるまいな、と九葉は湯呑を持つ手を前に突き出す。乾杯の催促と見た蕾は、
「……なんだか別れの盃になりそうで、縁起が宜しくない気がするな」
そんな事をぽつりと言った。
まだ不安がぬぐえていないのだろう、その表情には先ほどと同じ陰りが蘇り、赤い火の光を受けてゆらゆらと揺らいで見える。
「……いいや、違う」
己の言葉に、言霊が宿ればいい。そんな思いで、九葉は静かに言った。
「これはお前との縁を結び付ける、固めの盃だ。
――この大戦を終えた後、お前と私とで今度こそ昔を語り合う時間を過ごすのだ」
「!」
は、と息を飲む音が聞こえる。
大きな瞳をみはって凝然とした蕾は数呼吸間を置いた後、
「……いやだな、九葉。あなたは随分変わった」
不意に顔を歪ませ、今にも泣き出しそうな表情で笑った。
「そんな優しい事を言ってくれるような人じゃなかったでしょう……昔は」
「十年経てば、人も変わる。お前は今の私を知らぬだけだ」
「そう……そうですね」
声を震わせ、蕾は顔を伏せた。その拍子に光る粒がいくつか床に落ち、
「――あぁ知りたいなぁ、あなたの十年を。私の知らないあなたを、全部、教えてほしい」
独り言のような小さな呟きも零れ落ちたように思ったが、九葉はあえて何も言わなかった。
ややあって上体を起こした蕾が、
「すみません、久しぶりに良い酒を前にして取り乱しました。では改めて、固めといきましょう」
いつものように明るい声で、明るい笑みで手にした酒を差し出す。その眩しいほどの笑顔に目を細めながら、九葉もまた湯呑を近づけた。
互いの器が重なり、きん、と澄んだ音を立てる。
互いに酒を煽り、盃を空にして、再び視線を交わす。
蕾の表情から不安の色はもはやない。
ただ穏やかな、慈愛に満ちた優しい微笑を浮かべて、九葉を見つめている。
(お前は生きている。今この時、私と同じ時代を生きている)
その事がどれほど幸福で喜ばしい事か、己の言葉で伝える事など決してできないが……せめて欠片でも伝わればと、
「生きて帰るのだぞ、蕾。
私はもはやお前の上官ではないが――無事は、いつも願っている」
ひそやかに囁いた言葉に、かつての部下は、何よりも頼りにしていた腹心の部下は、はい、と嬉しそうに、力強く答えてくれたのだった。
いつか会える日を支えに頑張ってたんだと萌えます。
君影草はスズランの別名で花言葉は
「幸福が帰る」「幸福の再来」