――老人の死が報じられてから後。
騒がしいマスコミが次のニュースを求めて去り、喧噪も落ち着いた頃、老人の世話役だったという男からファルへ連絡が入った。
呼び出された喫茶店にいたのは、眼鏡をかけた初老の男だ。
皺ひとつないスーツで、一見して執事のようにも見える相手の名刺には『楡山』という名前と共に、弁護士、会計士の肩書きが併記されていた。
彼は老人の遺産相続について、話し合いの場を設ける事になったといい、ファルに同行したアラガキにもぜひ来てほしいと熱心に言い募った。
『大旦那様(老人の事だ)の御親族を悪く言うのは、フェアではありませんが……大旦那様はご家族とあまり折り合いが良くありませんでした。酷い言いようですが、亡くなってせいせいした、というのが向こうの本音でしょう。
そして莫大な遺産を分配するにあたって、突然現れたファルさんの存在は、目の上のたんこぶのようなものです。養子縁組をしたとはいえ、こちらの立場が弱いと下に見て、かさにかかって相続分の放棄を強要してくるでしょう。
その時、あなたのような頼りがいのある男性がファルさんと一緒に居て下さったほうが、交渉しやすいんです』
それはつまり用心棒役か、とアラガキは納得した。
確かにファル一人では、大企業を経営する海千山千の男たち相手に対抗できないだろう。自分のこわもてや図体が少しでも威圧になるなら、それを使わない手はない。
話を聞いているファルは、相続をどうするかまだ悩んでいるせいもあってか、不安げな顔だ。そんな彼女に自分がついていると微笑みかけ、アラガキは否応もなく楡山の申し出を引き受けた。
そして、その日。
アラガキとファルは、かつて老人が築き上げた会社の最上階にある会議室へ通され、相手が来るのをじっと待っていた。
広々とした室内、背後はガラス張りで、認可地区どころか未認可地区まで見えるほど眺めがいい。
足元のカーペットも、部屋におかれた調度品のどれもこれも、一目で高級品とわかる代物。黒を基調としたインテリアは、訪れる者を威圧するかのような様相で、アラガキは内心怯みを感じた。
何しろ自身、会社というものに縁がない。
折り目正しいスーツのサラリーマン、煌びやかに着飾ったOLの人々は別世界のようで、アーミージャケットを羽織った自分はここでは相当場違いに映るだろう。
(いや、俺が怖じ気づいてどうする。ファルのほうが、よほど心細いだろう)
丸くなりそうになる背筋を伸ばしてちらりと隣を見れば、予想通り、ファルは心細そうに眉根を寄せて、体を小さくしている。
「ファル」
ぐっと胸が締め付けられて、アラガキは呼び掛けた。膝に置かれた手をそっと握り、口の端をあげる。
「大丈夫だ。俺が隣にいる。楡山さんだってうまくやってくれるさ」
「……うん」
励ましの言葉に、あえかな微笑が浮かぶ。
だが陰りが晴れないのは、まだ相続をどうするか、答えが出ていないせいかもしれない。
(ファルの希望に添った形で、すんなり終わればいいんだが)
そう思った時、会議室の扉がこんこん、とノックされた。
はっと二人揃って立ち上がると同時に扉が開き、
「お待たせしました、ファルさん、アラガキさん。……会長、社長、どうぞ」
まず楡山が穏やかに挨拶し、扉を押さえて後ろの人々に道を開けた。
「こんな事はさっさと終わらせるぞ、後の予定が詰まっている」
「同感だね、父さん。楡山が余計なことをするから、面倒になったじゃないか」
入ってきたのは、七十絡みの恰幅のいい男と、アラガキより一回り上くらいに見える男だった。
年配の方は白髪混じりの頭髪で、眼鏡の奥から眼光鋭くこちらを見据え、すぐに視線をそらす。
しわが刻まれたいかつい表情、一瞥だけで鋭利と感じる眼差しが、どことなくあの老人を想起させるのは、血の繋がりがより近い息子ゆえだろう。
対してもう一人のほうは線が細く、終始、父親の顔色を窺っていて、こちらは落ち着きがない。
現会長の息子なら、あの老人の孫ということになるのだろうが、どこか甘えた風情があるのは、三代目ゆえだろうか。
(厄介なのは会長の方だな)
素早く見て取り、アラガキはそちらへ注目した。
おそらくこちらを中心に話が進行するに違いないと目したところ、全員が革張りの椅子に腰を下ろしてさっそく、会長が口火を切った。
「さて、我々は暇ではない。この話し合いも早々に片付けたいので率直に聞こう。いくらほしい?」
「……」
いきなりこれでは、まったく話にならない。
思わず言葉を失うこちらを見やってから、双方の間に座った楡山がとりなす。
「会長、まずはお互いの希望を提示することから始めませんか。ファルさんの側からの要望を確認してから……」
「馬鹿馬鹿しいことを言うな、楡山」
だが会長はぴしゃりと撥ね付けた。じろっとファルを見据え、そしてさも今気づいたというようにアラガキへも視線を流し、鼻を鳴らす。
「その男はなんだ。まさかそいつも、親父の慈善事業の恩恵を受けたのか」
「いえ、こちらはファルさんのお連れ様です」
「タツミ・レナード・アラガキと申します。ご尊父とはほんのひとときですが、お話しする機会をいただき、その人柄に感服しました。慎んでご冥福を申し上げます」
丁寧に告げて頭を下げる。だが返ってきたのは、侮蔑の笑いだった。
「金になると見越して、チンピラで威嚇か。いかにも育ちの悪い連中のしそうなことだ」
「!」
ぱっと視線を向ければ、発言した社長はびくっとして顔を背けた。
その表情は怯えと嫌悪が混じり、父さん、と助けを求めるよう声をかける。
お前は黙ってろと睨みを効かせてから、会長は肘をついて両手を組んだ。
「失礼、不躾な物言いだったな。――だが、これで怒りを覚えるのは、図星をつかれたからではないのかね」
「会長、アラガキさんの同席を依頼したのは私です。
ファルさんと親しくお付き合いされている方ですので、決して無関係ではありません」
「なるほど。それも、親父のいかれた遺言を死守するためか。お前の忠誠心は見上げたものだな、楡山」
吐き捨てるようにいい放ち、男は続ける。
「だが、私としては到底、受け入れることなぞできん。
あの頑固親父がようやく逝って、これから自由にやれるというところで、降ってわいた養子。
しかも正体がスラムの娼婦ときては、看過出来る筈もない」
「!」
びくっとファルが震えたので、アラガキはその手を強く握る。
調べたのですか、と問いかければ、当然だろうと答えが返ってきた。
「生前、家族にも愛想なくケチケチしていたあの親父が、若い女を養子にまでしたとあっては、不審に思わない方がおかしいだろう。まさかあの年で、娼婦を抱え込んでいるとは思わなかったがな」
「会長。大旦那様はファルさんと関係を持っていたわけではありません」
「ほう。関係を持たないまま、大金を払って娼婦をもらい受け、家をやり、店をやらせ、あげくに強引な手段で養子にしてまで遺産を相続させようとしたと。
親父はそこまでボランティア精神に溢れた人間だったかな。年をとって、若い女にノブレス・オブリージュを発揮したと?
そうならなんとも美しいお話だな、映画にでもすればいい」
会長が皮肉げに笑えば、
「そんなの嘘に決まってる! どうせじいさんを体でたらしこんで、財産をせしめようとしたんだろう!
あんなじじいと寝た上、やくざみたいな男までつれてのこのこ遺産を貰いにくるなんて、図々しいにもほどがある!」
調子づいた息子が勢い込んで罵倒してきたので、
「っ!」
カッとなったアラガキは、思わず椅子を蹴って立ち上がった。
自分はともかく、ファルをけなされるのは我慢できない。あまりにも悪意に満ちた決めつけに、ふざけるなと怒鳴り付けようとしたが、
「――訂正してください」
不意に、静かな声が響いた。
会長たちやアラガキの怒気に水をかけるような、淡々とした声音にどきっとして、その源……ファルへと振り返る。
ファルは、いつも通りに見えた。
落ち着いている。先刻までの不安そうな影も、頼りなげな風情も見えない、店でマスターとしてそつなく客をあしらう時のような、きりっとした表情をしている。否――
「訂正? なにをだ。まさかこの期に及んで、自分は清廉潔白な身の上だと主張する気か」
嘲りを投げつけてくる会長をじっと見据える青い瞳が、この上なく……燃えている。
(ファルが、怒ってる?)
今まで見たことのない、強い感情が浮かんだ目にアラガキも戸惑ってしまった。
ファルといえばいつも穏やかで、怒るべき場面で悲しみを見せるのが常のはずが、今間違いなく、怒っている。
めったに見せない激情を目に宿したまま、彼女は小さく首を振った。
「いいえ。私はお調べになった通りの身上です。それは何も、訂正することも、付け加えるべきことはありません。ただ」
そう思って聞けば、声もそうだ。
柔らかく耳を撫でるように響く優しい声が今、内面に渦巻く激情を表すように震え、いつもより大きく響いて聞こえる。
膝の手を握りしめて、ファルは言う。
「あの人は私を苦境から救い、勉学を教え、私が知らない新しい世界を教え導いてくださった恩人です。
なんの見返りも求めず、ただ優しさから、一人の何もない人間を救ってくれた人を、そんな風に侮辱されるのは、それこそ看過できません。
訂正してください。私はあの人を、本当の家族のように思っていました」
怒りと誠意とを帯びた、凛とした声が雰囲気を一変させた。
しん、と針が地面に落ちる音さえ響きそうな静寂が室内を支配する。
(怒っているところなんて、初めて見た)
激昂して立ち上がったアラガキも気圧されて、言葉を失ってしまう。
楡山も意外だったのか目を丸くしているし、社長にいたっては、ファルに言い返されるなど露ほども考えなかったのか、ぽかんと口を開けた間抜け面を晒していた。
「……そちらの要求は何だ」
そんな中、唯一冷静を保っていたのは、やはり会長だった。眼鏡の向こうで、ぴくっと眉を上げながら、
「ここで話し合うべきはそんな綺麗ごとではない。
まんまと養子になって遺産相続の権利を得て、この場にいるという事は、何かしらの要求があるからこそだろう。言い分を聞くだけなら聞いてやってもいい。
あるいは金銭で片がつくのなら、金額を言えばいい。それで縁が切れるのなら、こちらとしては願ってもないんだがな」
「…………」
ファルの眉間に深くしわが刻まれる。
自身の心に問いかけるように、まつ毛を伏せてしばし黙り込んだ後、彼女はすっと背筋を伸ばした。
ほっそりとした体が不思議と一回り大きく見えるような、凛とした空気を纏ったファルは口を開く。
「……お金はいりません。
私はもう十分すぎるほど多くのものを頂いています。それ以上を望むつもりはありません」
「ファルさん待ってください、大旦那様はあなたにもうこれ以上苦労させまいと……」
慌てた様子で楡山が口をはさみかけたが、ファルがかぶりを振って続ける。
「お金は頂きません。相続権が私にあるというのなら、放棄します。
その後はあなた方で配分されるなり、寄付されるなり、好きになさってください」
「それでいいのか、ファル」
自棄になっているのではないかと心配になって、腰を下ろしたアラガキも問いかける。
顔を覗き込むと、ファルはちらりと視線を上げた。一瞬だけ、だいじょうぶ、というように微笑みが唇に上り、すぐ横に引き結ばれた。
「何だ、思ってたより聞き分けがいいじゃないか。そういう事なら楡山、すぐ書類を作って……」
うきうきと声音を弾ませて社長が立ち上がろうとする。それを遮るように、ただし、とファルが声を張った。
「ただし、ひとつだけお願いがあります。
――あのお店を、わたしにください」
「……店、だと? 親父が道楽でやっていた、あれか」
短くない間を置いて、会長が眉根を寄せた。
楡山の方へ顔を向け、
「それも、この女への相続に入っているのか、楡山」
「え、ええ……はい。今はファルさんが店の経営から営業まで、全て行っていらっしゃいます」
「資産価値は」
問いかけに応じて、楡山は用意していた書類を各人へ配る。
(これは……凄い額だな)
それを受け取り、今回争点になっているファルの相続分の内訳を見て、アラガキは内心唸ってしまった。
店の資産価値どうこうは測りがたいが、ファルが放棄すると告げた金銭の額は、女ひとり生きていくには十分すぎる額だ。
それを見れば、あの老人がどれだけファルの行く末を案じていたか伝わってくるようだし、これで遺産の一部なら総額はどれほどなのかと恐れすら覚える。
(あの人には悪いが、こんな大金をぽんと渡されてしまっては、トラブルの元にしかならないな)
重たい愛情だとしみじみ感じ入っていると、社長がぱん、と書類を叩く。
「何だ、大した事ないじゃないか。立地は良くないし、土地も店もそこそこでしかない。
こんなもの相続したところで、潰して賃貸にでもした方がましだ。未認可地区じゃ、その程度がせいぜいだろ」
そして会長もまた疑心に満ちた目でファルを見据えた。顎に手を当て、低く問う。
「……なぜこの店が欲しい。隠し財産でもあるのか? あるいは、店に上物の品でも……」
「あの店は」
ぴしゃり、とはねつけるような強い声が、ファルの唇から放たれる。
「おじいちゃんがなによりも大事にしていた、たいせつなお店です。
たくさんのおもいでと、きもちが詰まった、なによりもたいせつな場所です。それを簡単につぶしてしまえなんて言う人たちに、わたすつもりはありません」
青い目が再び怒りに揺れるのを見て、アラガキは咄嗟にファルの手を握った。
正面を向いたまま、その手を握り返して、ファルは絶対に、ここだけは絶対に譲らないと言う決意をあらわに、告げる――
「わたしはあの店だけは、ぜったいにゆずりません。
おじいちゃんがわたしに残してくれたゆいいつの形見を、わたしたくありません。
――あなたがたは、おじいちゃんが亡くなってもかなしまないあなたがたは、あのお店にふさわしくありません!」