一日一個のリンゴ
思えば朝から調子がおかしかった。
いつもよりだいぶ遅い時間に目が覚めたし、起き上がったら、くらっとめまいもした。
だがそれもすぐ治まったので、寝起きだからかと一人合点し、寝坊を責められながらも朝飯を食べる。後から思えば、そういえば食欲もあまりなく、やっとの事で皿を空にした気がする。
そうして、日課の畑を手伝うかと外に出て――ぎらつく太陽に当てられた後、気づいたらその場にへたりこんでしまった。
「……こりゃ風邪だな。ジョーが寝込むとは珍しいこともあるもんだ」
へたばった自分に気づいたサチオたちに寝床へ連れていかれ、額に手を当てた南部が面白がるように告げた。だからいったじゃないか、とたらいの水につけたタオルを絞るサチオが口を尖らせる。
「川遊びした後、ちゃんと乾かさないから。風邪ひくってオレは注意したからな」
「……あんなの、いつもじゃねえか」
反論したが、その声も掠れているからいまいち説得力に欠ける。
普段なら水から上がって、犬のように水気を払うだけで十分間に合っている。昨日もそうして、そのまま寝たのだが、
「夜中、急に冷え込んだからな。おめえ、タオルケットも満足にかぶらねぇから、まんまと引っ掛かったんだろ」
「ちっ……こんなの、どってこと……」
ねぇよ、と起き上がろうとしたのだが、南部の手が頭をぐっと押さえつけた。
「馬鹿野郎、風邪を甘くみるんじゃねぇ。飯食ったんなら、とりあえず今日はもう一日寝ておけ。サチオ」
「うん!」
分厚い手が引き、代わりにタオルが置かれる。ひんやりとしたその感触は存外心地よくて、つい目を閉じてしまった。
「ジョー、寝るのは薬飲んでからだからな」
「オレ取ってくる、ちょっと待ってて」
暗闇の中、サチオの軽快な足音が遠ざかっていく。冷気に覆われてようやく、自分が思っていた以上には熱を出している事を実感出来て、何だこれしんどいな、とジョーは呻いた。
「普段、病気のひとつもしねぇんだ。ことのほか辛ぇだろ、ジョー」
「……どうってこと……ねぇよ」
「ちっ、こんな時くらい素直に甘えてみせろってんだ、可愛くねぇやつだな」
そう言って南部は笑い、布団の上から胸元をぽんぽん叩く。言葉とは裏腹に優しい仕草と、安心できる柔らかな重みを感じて、ジョーはため息を漏らす――そういや、こんな風に看病されるなんて初めてだな、などと思いながら。
不慣れな手つき
久しぶりに深酒をして、床で寝込んでしまったのがまずかった。
「あ~~…………頭がいてぇ……げほっげほっ」
「わざとらしいなぁ、ったく。ひとの言う事きかないで、さっさと寝床にいかないのが悪いんだからな、おっちゃん」
「うるせぇな……。病人には優しくしろって、習わなかったのか」
「十分してるだろー? 朝ごはん作ったり、汗かいたの着替えさせたの、誰だと思ってんだよ」
枕元の椅子に座ったサチオに言い返されれば、ぐうの音も出ない。ただでさえ普段、目の見えないわが身を手助けしてもらっているというのに、この上風邪をひいたとあっては、辛辣になるのもやむなしか。
(しょうがねぇ。ここは大人しく従っておくか)
そう思い、ごそごそと布団を肩までずり上げた時、
「……サチオ、粥っての作ってみたけどよ、これでいいのか?」
二階に上がってきたジョーがサチオに声をかけた。椅子からぴょんと飛び降りてそちらへ駆け寄った少年は、粥を味見でもしたのか、
「……うん、まぁいいんじゃないかな。じゃあジョー、看病交代な。オレちょっと買い出し行って来る。氷枕とかあった方がいいからさ」
「え。おい、サチオ!」
ジョーが呼び止めるのも無視して、あっという間に出て行ってしまった。取り残されたジョーは、
「…………食うか? おっさん」
迷うような間を置いた後、こちらへ尋ねてきた。
「……ちゃんと食えるんだろうな?」
思わず警戒してしまう。サチオもジョーも台所に立つのが習慣になってきたが、性格のせいかジョーの料理はいつも荒っぽくて大味だ。普段なら文句を言いながらも平らげるのだが、さすがに弱ってる時にはきつい。さぁなとジョーは椅子に座った。
「サチオがいいって言うんなら、多分大丈夫だろ。焦げてもいねぇし」
「粥焦がす馬鹿がいるかよ。どれ、寄越してみな」
そういって受け取ろうとしたのだが、指先に触れた器の熱さに思わず悲鳴を上げてしまった。
「熱ぃ! おめぇ、鍋まんま持ってきやがったか!」
「皿がちょうど無かったんだよ。匙は持ってきたから……あんた見えねぇか。俺が食わしてやろうか?」
からかうように言ってきやがる。この野郎、病人で遊びやがってと唸った南部は、どかっと枕に背中を預けて腕組みし、
「おお食わせてもらおうじゃねぇか、てめぇ自慢の粥ってやつをよ」
がば、と口を大きく開けてやった。え、まじかよ、冗談だってと言い繕うのが聞こえたが、
「いつまで待たせやがんだ、喉が渇いちまう。さっさと寄越せ」
急かすとようやく、おそるおそるといった手つきで、スプーンが口の中に差し込まれた。「熱ぃって言ってんだろうが! 舌が火傷する!」と文句を言いながら、南部はそれを味わって食べる。
水気が多すぎて食感が柔らかすぎるし、塩も入れ過ぎで味が濃い。相変わらずの大味だと評価しながら、
「……ま、悪かねぇな」
ごくんと飲み干して告げる。ほ、とするような気配を感じて、南部は思わず笑ってしまった。こいつはこういう事に、本当に慣れてねぇなと思いながら。
時には子供のように
がっ、と音を立てて針が氷に刺さる。角度が浅く、十分に砕けなかったと、アイスピックを引き抜いて再度刺した。
今度はうまくいった。塊がこそげ落ち、流しの中へがらんと落ちる、その音が妙に大きく聞こえた。
(足りねぇ。もっと作らねぇと)
何も考えず、その一心で氷塊に針を落とす。その動作を機械的に繰り返していたら、
「……わっ、ジョー! そんなに作らなくていいって、もう十分だよ!」
不意に声が響き、びくっとして危うく自分の手に針を刺すところだった。肩越しに振り返れば、手元を覗き込むサチオがあーあ、という顔をしている。
「それ全部砕く必要ねぇからさ。これに入る分だけでいいんだよ、ジョー。ほら」
そう言って差し出してきたのはゴムの袋――氷枕、とサチオが言っていた代物だ。ああ、と受け取り、言われるまま砕いた氷を入れる。だが、
「ちょっと待った、氷だけ入れるんじゃねぇからな!? それじゃおっちゃん、枕にできねぇって!
ああもう、ぼーっとしちまって、ジョーも風邪引いてるんじゃねぇよな? もうオレがやるから、上に行ってていいよ」
またも制止され、仕事を奪われてしまった。
小柄なサチオは台に上り、蛇口をひねってゴム袋に水を入れ始める。押しのけられ、その背中をぼんやり眺めるジョーは、ずきっとした痛みを感じて手を見下ろした。
ずっと氷に当てていた掌は真っ赤になって、ひりひりと痛みを訴えている。
風邪をひいた南部の容体は存外重かった。
なかなか熱が下がらないものだから、医者を呼んできてみせたら、流行りの病を貰ったのだろうと診断を下した。
『引き始めは高熱が出ますけど、明日にはおさまりますよ。
この薬を飲んで、今日は安静にしていてください』
あんまりにもあっさり言って帰ろうとするものだから、思わず本当かよ、と突っかかってしまった。
『本当にこんな薬で良くなるのかよ。あんな弱ったおっさん、見た事ねぇ』
『よくある事です。ご家族なら心配されるのは当然ですが、まず落ち着いてください』
そう宥められて、一瞬言葉を失った。家族じゃねぇよ、と言いかけた言葉が喉に詰まったのだ。
音を立てないように二階へ上がり、寝室へ入る。卓上スタンドの一番小さな灯りだけを頼りに、南部のそばへ腰を下ろすと、ううん、とうめき声が聞こえた。
「おっさん」
起きたのかと思ったが、単なる寝言だったのか。横たわった南部は少し身じろぎして、太い寝息を立てている。
その呼吸がいつもより荒く、額にも汗が浮かんでいるのに不安を感じて、ジョーは眉間にしわを寄せた。
こういう事には慣れていない。
つまり、他人が苦しんでいるそばにいて、何も出来ずに歯がゆい思いをしなくてはならない、こういう状況には。
(他人なんて、どうでもよかった)
ほんの一年前まで、自分は一人だった。
南部と出会い、メガロボクスのリングに上がっていたとはいえ、あの頃はまだ単なるビジネスパートナーで、そこには何も無かった。
いや、正確には何か、言葉でいい表せない曖昧な感情がありはしたが、少なくとも今ほど南部を信頼してはいなかった。
自分は一人だった。
傷つくのも、ぶっ倒れるのも、全部自分だけだった。
だから楽だった。
(死ぬ時は俺一人だけだった。……他の奴の事なんて、考える必要なかった)
それなのに、今はどうだろう。南部が熱を出して寝込んでいるのを、まともな思考も出来ないくらい心配している自分に、自分で驚いてしまう。
(おっさん。……なぁ、おっさん)
呼びかけたら眠りを妨げてしまうだろう。声に出さず、ジョーは手を伸ばした。
掛布の上に投げ出された南部の掌に近づけ、直前で触れる事を躊躇い、すぐ間近に下ろして拳を作る。
重ね合わせているわけでもないのに、その手から発する熱を感じた。
よほどの高熱なのだろうと思うと、喉に何かの塊が詰まったように思えて、息が苦しくなった。
「……あんた、死んじまうのか」
ぽろりとこぼれたのは、自分の弱音だ。言葉にすることでそれがより現実に近づいたようで、ぞっとする。
この感覚は、覚えがあった。
南部が借金のかたをつけるために自身の目玉を抉り出した後、病院で手術が終わるのを待っていた時と、同じだ。
(死ぬのか、おっさん)
死に触れた事はある。自分も死に向かうぎりぎりのところを走り続けていた。だから慣れているし、怖くもなかった。――そう思っていた。
(……おっかねぇよ)
ぐっと拳に力をこめ、背中を丸くする。恐ろしい。
今身近に感じているこの熱が失われるかもしれない事が、南部贋作という、自分を形作る大きな存在が消えてしまうかもしれない事が……心底、恐ろしい。
(置いていかねぇでくれよ、おっさん。俺はまだ、あんたに)
泣き言が口をついて出そうになる。言葉にしてしまえば、自分は泣いてしまうかもしれない。そう思った時、
「!」
熱が自分の手に触れた。はっと顔を上げれば、南部が少しだけ顔をこちらへ向けていた。見えない目で見て、はぁ、はぁ、と荒い息を漏らしながら、
「……そう簡単にくたばってたまるかよ。勝手に、人を、殺すんじゃねぇ」
そう嘯いて笑い、ぽん、ぽんと軽く拳を叩いた。
「おっさん」
「何て情けねぇ声出してやがる。ただの風邪だ……一晩寝りゃ、良くなる。心配するな、ジョー」
「……」
いつもなら出てくるひねくれた言葉が、今は出ない。普段通りの南部の言葉にほっとしすぎた。
おっさんと呟き、ジョーは南部の手を握った。「何だよ、気持ち悪ぃなぁ。男と手をつなぐ趣味はねぇよ」と言いながら、南部も握り返して、再び眠りに落ちていく。
(ああ、らしくもねぇ。……家族って、こんなおっかねぇもんなのか)
失う事が怖くて、存在に安堵する。他人にこれほど心を揺さぶられるなんて、本当にらしくもない。
そう思いながら、ジョーは南部の分厚い手を包み、脈打つ命を聞く。
その熱は心地よく、恐ろしく、心配で、気持ちの置き場所がなくて、どうにも落ち着かなかった。
――後日。
「いやーあんな風邪ひいたのは久しぶりだったぜ、参った参った」
「元気になってよかったね、おっちゃん」
「ったく、人騒がせだな。面倒だからもう寝込むんじゃねーぞ」
「面倒とはひでぇ言い草だな、おい! 人の枕元で、あんた死んじまうのかーって泣き言はいたのは、どこのどいつだ?」
「えっ、ジョーそんなにおっちゃんの心配してたのか!?」
「……さぁな、知らねぇよ」