wingbeat

 今日は朝からずっと雨が降っている。
 雨は辛気臭くて嫌い、客も少ないしと愚痴る仲間もいるが、ファルは雨が好きだ。
 雨音をじっと聞いていると心が静かになっていくし、こういう日は外に立たなくていいから、少し気が楽になる。
 だが、夜闇に降りしきる雨を窓越しに見上げると、胸にぽっかり穴の開いたような虚しさを感じてしまう。
(……アラガキ)
 名を口にするのも恐れて、心中で呼んだ。
 あの後、彼はどうしているだろう。痛みは楽になっただろうか。
(ゆめは、見ずにすんだかな)
 そうだといい。そうであってほしい。あんな優しい人が苦しむのは、見たくない。
 ファルはアラガキに感謝している。
 乱暴に扱われて地べたに投げ捨てられるような、何の価値もない娼婦に、アラガキは手を差し伸べ、居場所を作ってくれた。
 彼自身は大した事をしていないと言っていたが、生まれてこの方、見返りを求めず助けられたなんて初めてだ。
 それが嬉しかった。
 長い時間、一つの部屋に居ても、彼女に何を求めるでもなく、静かに、それでいて安心できる頼もしい存在感でそばにい続けてくれたアラガキには、どれほど感謝してもし足りない。
(アラガキは、わたしに何もしなかった。……それが、うれしかったの)
 嬉しくて、失った足や過去、戦場の記憶でのたうち回るアラガキを少しでも助けたくて――初めて、自分から身を寄せた。
(何もできなくて、ごめんなさい)
 時折、傷ついた心を癒すために娼婦を抱く客がいるから、アラガキも気がまぎれるのではないかと思った。
 けれど、自分は寝る以外に慰めの手段を知らなくて、あれが本当に彼にとって良かったのか分からない。
 意識を手放すように眠りに落ちたアラガキを置いて出て行ったが、もしかしたら今頃、自分を軽蔑しているかもしれない。
 その答えはもう、知る事は出来ないだろう。
『――傷痍兵のところに入り浸ってるらしいな』
 切りつけるような男の声が耳の奥で蘇り、一人でびくっとしてしまう。
 アラガキと別れたその日、退役軍人会の宿舎へ通っているのを聞きつけた店主が、それをきつくとがめだてしたのだ。
『まさかそいつから小遣いをせしめてるんじゃないんだろうな』
『何も……もらってません』
 一緒にいた時間の大半は部屋でぼんやりとすごし、話をし、食事をさせてもらっただけ。
 主が勘繰るような事は何もない――肌を合わせはしたが、あれも仕事ではなかった。
『どうだかな。
 何にしろ、そんな半端者にうちの売り物の貴重な時間を費やしたってんなら、使用料を貰ってもいいくらいだ。
 取り立てにでもいくか』
 そんな無慈悲をこともなげに言うものだから、ファルは必死になって止めて懇願した。
 お願いします、仕事をもっとたくさんします、お金を稼ぎます、あそこへはもういきません、だからやめてください、と。
 普段無気力な自分が稀なほど必死になったのが意外だったのか。
 あるいは仕事に精を出すという言葉にそろばんをはじいたのか。
 昼の外出を禁じられ、前にもまして数をこなす苦行を強いられたが、幸いアラガキに督促が行くことはなかった。
 その事実にほっとして、ファルは自分の生活に戻った。
 何も考えず、触れられる事に耐えながら、流されるまま生きていく暮らしは以前と同じ――だが、日に日に胸に空いた穴が少しずつ大きくなっていくのを感じて、ついため息を漏らしてしまう。
「……憂鬱そうだな。そんなにやる気無いのか」
「!」
 不意に後ろから覆いかぶさられ、息を飲んだ。
 肩越しに振り返れば、今夜彼女を買った男が、髪からシャワーのしずくを垂らしながら抱きついている。
「雰囲気のある美人だと思ったが、ずいぶん上の空じゃないか。何考えてたんだ」
「……何も。ごめんなさい……気づかなくて」
 緩やかに答えると、男は「いいさ、始めよう。時間がもったいない」気安く言って、こちらの肩をぬるりとした手つきで撫でてきた。
(…………っ)
 薄っぺらい服越しに伝わる感触にぞくりとする。
 何度経験しても、体を無遠慮に触られるのには慣れず、腕を撫でおろす熱に嫌悪感がこみあげた。
 だが、振り払う訳にはいかない。
 だからファルは目を閉じ、男に身をゆだねた。せめて最後の日、自分の手で感じたあの男の熱を思い起こしながら。

 古ぼけた宿屋を改装した娼館には、様々な客がやってくる。
 年齢も職種も人種もばらばら、未認可地区ゆえにブルーカラーの比重が大きいが、時折お忍びで普段はスーツに身を包んでいるような客もやってくる。乱暴な客もいるし、優しい客もいる。何もしゃべらず、事だけ済ませて金を置いて出ていく男もいる。
 世の中には色んな人間がいる。それぞれが何かしらの鬱屈を抱えて、娼婦を抱きに来る。
 行為は嫌いだが、外の世界で生きる彼らの話を聞くのは好きだから、ファルは相手の話に耳を傾けた。
 聞き上手だ、と褒めて常連になる客もいたから、この興味はある種、自分の強みでもあるのだろう。
 そういうファルなので、今日の客には一際興味を覚えた。
「ふん。……静かな女をといったが、何とも貧相なのを出してきたもんだ。これでふんだくるとは、強欲な」
 部屋に入ってきた男――ファルの腰ほどまでしかない、小さな老人は、開口一番こき下ろした。
 黒いコートが曲がった背に覆いかぶさり、まるでモグラのような印象を受ける。
 じろりとこちらを見上げる顔は数え切れないほど皺が刻まれ、値踏みするような鋭い眼差しに圧倒されそうだ。
 帽子とコートを椅子の背に投げ、杖をつきながら男はベッドに腰掛けた。
 すぐ始めるのか、とファルは近づこうとした。だが、
「おっと待て。わしはお前みたいな鶏がらを抱きに来たわけじゃない。
 時間つぶしに飛び込んだだけだ。余計な真似はせんでよい、隅っこにいっとれ」
「……は、い」
 明確な拒絶に押されて、後ずさる。
 言われた通り、壁に寄り掛かって距離を置きながら、ファルはこっそり相手を観察した。
 少なくない金を払って、話だけして帰る客はたまにいるが、こんな老人は初めてだ。
 男は年老いて背も曲がっているが、しゃべり方や声はかくしゃくとしていた。そして手にした杖や身に着けている服は、地味ではあるが存外高級品のように思えた。
(……お金持ち、みたい)
 客の中には認可地区の裕福な男もいたから、ファルも多少、物の良し悪しを判断できる。
 しかし、身なりの良い老人が一人で未認可地区を歩いているなど、いささか不用心にすぎる。よく追いはぎの類に捕まらなかったものだ。あるいは外でお付きの人が待っているのかな、と考えたところで、
「おい、お前」
「! はい」
 不意に声をかけられて、背筋を伸ばした。老人がこちらへ鋭利な視線を向け、
「ちょっと外を見て、誰かいないか確認しろ」
 慣れた様子で命令する。顎でしゃくられた窓へ近づいて外を見た。この部屋は通りに面している。ばちばちと点滅する街灯の下では猥雑な街の光景が広がっていて、普段と変わった様子はない。
「どうだ。人はいるか」
「……よってる人と……男の人と女の人……いぬ……くらいです」
 カップルに餌をねだって哀れにすり寄り、追い払われる犬に目を奪われてつい付け足すと、老人はふん、と鼻を鳴らした。
「いったんは諦めたか。やれやれ、面倒な事だ」
「……?」
「何でもない。しかしここは金だけふんだくって、水の一杯も出さんのか。サービスの悪い事だ」
「あ……いま、お出しします……あの、お酒もありますけど……」
「いらん。どうせ水で薄めた偽もんじゃろうが。それなら水の方がまだましだ」
 図星なので、ファルは水を汲むために急いで部屋を出た。
 ついでに食事もいるかを聞けばよかったとコップを手にした時気づいたが、あの調子ではきっとながっちりだ。
 必要になればまた、あちらから言って来るに違いない。
 そう思ったのだが、ファルの持ってきた水を飲んでぶつぶつ文句を言った後、老人はさっさと引き上げてしまった。
 本当に何もしないまま去って行ったので、後で店主に上物の機嫌を損ねたんじゃないかと叱られたが、どうしようもない。
 不思議な人だった、と思いながら、ファルは小言をやり過ごし――

 その日限りだと思っていたのに、老人はまたやってきた。
「ここから先に、昔の友人がいてな。この店は中継地点にちょうどいい。うるさく付きまとう蠅どもを上手く撒けるんじゃ」
 そう言って、また水を所望し、窓の外の通りをファルに確認させ、ぶつぶつ文句を言いながら、短時間滞在して出ていく。
 最初は胡散臭そうに見ていた店主も、よほど金払いがいいのか、やがて老人を喜んで出迎え、部屋へと押し込んだ。
 ファルはファルで、老人の相手は嫌いではなかったし、彼に接客している間は体も心も休められるので、有難いとも思う。
 それに訪問回数を重ねるごとに、老人は少しずつ態度を軟化させ、色々な話をしてくれるようになった。
「――わしはある会社の会長でな。まぁ体もガタが来ている。
 そろそろ表舞台は他に任せようと思ってるんだが、後釜を狙って色んな連中がこびへつらってまとわりついてくる」
 持参したワインを飲みながら、老人は言う。
 少しだけ分けられたので口にすると、くらりと眩暈がするほどに上質な味と香りがして、ファルは瞬きしてしまった。
 酒に弱いという訳でもないが、こんなものを飲んだのは初めてだ。
「友人に会いに行くと言うだけで、やれ未認可地区など危ないし汚い、見舞金だけやればいい、とやいのやいの煩いったらない。
 わしはわしのやりたいようにする。ちょろちょろついてこようが、撒いてやるわい」
「……その、おともだちは……お客さんの、だいじなひとですか」
 ゆるりと問いかければ、老人はぐっと押し黙った。
 苦虫をかみつぶしたように顔をゆがめた後、ため息をつく。
「昔の恋人だ。不治の病でゆっくり死にかけておる。
 わし以外、誰も看取るものがおらん」
「…………」
「もっと早く知っておれば、助けられた。弱っていくのを見届ける事しかできん。……無力だな」
「…………でも……」
「ん?」
「でも、たぶん……その人、うれしいと、思います」
 詳しい事情は知らないし、顔も知らない。
 だがきっと、たった一人でも自分を気にかけてくれる昔の恋人が、こうして危険を冒してまで会いに来てくれる事を、喜んでいるだろうと思う。
 もし自分がその元恋人なら、嬉しい。
 そう思って告げると、
「……ふん。しゃべりすぎたわ。お前は、人の口を軽くするな」
 老人は目をそらし、グラスを空にした。

 その相手が死んだ、と老人が告げたのは、雨の降りしきる夜だった。
 夕方ごろ一度訪れたのに、深夜、土砂降りの中老人は戻ってきた。
「どうしたんですか」
 タオルを手に拭こうとしたが、その手を邪険に振り払い、老人はベッドにどかりと腰掛けた。コートや帽子からぽたぽた水滴を垂らしたまま、杖にすがるように頭を預け、
「……あいつが死んだ」
 それだけ呟く。それだけで十分だ。
「…………かぜを、引きます。服、かけます。ホットワインをもってきます」
 慰めを言うかわりに、濡れそぼった上着と帽子をそっと預かった。
 ハンガーにかけ、老人の口に合わないだろうと思いながら、台所で薄めずにワインを温めて、部屋へ戻る。
 老人は同じ姿勢で俯いている。
 そのわきのテーブルにグラスを置き、ファルは椅子に腰掛けた。
 何も言わない。言ってはならない。
 老人の悲しみと思い出に踏み入る権利が、自分にはない。
 だからただ静かにそこに在る。
 やがて低い嗚咽が聞こえてきたが、ファルはその場から動かなかった。
 涙が零れ落ちていく様をただ見守り、そのうち老人が疲れて寝入ってしまうと、灯りを消し、その体を横たえて毛布をかけ、寄り添った。
 自分には何も出来ない。老人の大事な人を蘇らせることも、悲しみを消すことも、何も。
 だからせめて、その苦しみの傍にいる。
 人の温もりが少しでも、孤独を和らげるようにと、祈りながら。

 老人は、その日から来なくなった。当然だろう、ここへ来ていたのは昔の恋人に会う為だったのだから。
 寂しい気持ちはあったが、あの日帰るときの老人はずいぶん落ち着いて、ありがとうとまで言ってくれたから、それで良いと思った。
(あの人がすこしでも、やすらげますように)
 祈る神など持っていないから、月を見上げてそう願う。仕事を終えて、高いびきをかく男の腕から抜け出し、そんな夜を幾日か過ごした後。
 ある日、不意に再訪した老人が、
「お前、店をやる気はないか」
 開口一番そんな事を言ったので、驚いてしまった。
「み……せ、ですか……?」
 意味が理解できずにおうむ返しすると、また持ち込んだワインを飲みながら、老人は言う。
「そうじゃ。わしが趣味でやってる店があってな。マスターをやっていた男が体を壊して、休業状態になっとる。
 後釜を据えねばと思っていたところ、お前が思い浮かんだ。どうだ、興味はあるか」
 聞けば、繁華街の端にあるバーで、客足はそう多くないが、老人が好きなように手をかけて作ったお気に入りの場所らしい。どうして、と呟く。
「……どうして、わたしに? そんな大事なところなら……もっと、良い人、いると思います」
「良い人てのが適材な人間という意味なら、お前の他におらん。
 見れば分かるが、お前は店の雰囲気に合う女だ。
 無駄口を叩かず、客の話を聞き、酒を出すだけでいい。お前には合う」
「で……も……わたし、お酒にくわしくは……お店なんて、やったことも……それに、……それに、ここを出るなんて」
 とても出来ない。借金は天井知らずの金額で、一生働いたところで解放されるはずもないと分かっている。
 逡巡していると、老人がつかつかと歩み寄ってきた。顔を掴んでぐい、と引き寄せられ、
「そんなものはどうとでもなる。
 お前が言うべきはイエスか、ノーだけだ。
 今すぐ答えろ。さもなくば無かった事にする」
 ぎらり、とナイフのように鋭い眼差しで見据えられた。
 ごく、と唾を飲む。そんな事、――おそらくこの老人なら出来るのだろう。
 いや、必ず断行する。
 老いた男は今をもってもなお活力と決断力に満ち、己の願いを断固としてかなえるに違いないと思える……それが、何の知識も経験もない娼婦を身請けして、店をやらせるなどという、馬鹿げたことでも。
(何も、できない。わたしは何も知らない)
 躊躇って言葉を失うと、老人はごちっと額がぶつかるほど顔を近づけてきて、
「それとも何か。お前はここで死ぬまで働いてたいとでも言うつもりか?
 男に組み敷かれて貪られ、金も奪い去られ、後に残るのは痩せ細ったその体だけ。
 路地裏に投げ捨てられて死んでいくような生き方をしていたいとでも、抜かすか」
 体の中に響くような低い、怒りに満ちた声を浴びせてくる。途端、
「――っ!」
 ぶわ、と震えがこみあげてきて、心臓が高鳴った。
 嫌だ、と思う。
 毎晩体をいいように弄ばれ、何かを感じる事の無いように心を閉ざし、日々を受け流していく。
 そうやって死ぬまで生きていく事など、嫌だ。
 何の望みもない。何が出来るかも分からない。ここ以外での暮らしを想像したこともないから、どうなるのか分からない。でも、
(わたしでも、何か出来る?)
「……い……えす、です」
 その希望が胸に暖かな火をともした時、気づけばそう答えていた。
 そして、突然に生活が、変わった。

 老人は宣言通り彼女を売春宿から引き揚げさせ、住まいを用意し、店へ案内した。
「繁華街から外れてるし、客はほとんどが馴染みだけだ。
 まぁわしの趣味だからな、売り上げは気にせんでいい」
 地下への階段を下りて扉を押し開くと、かびのにおいを含んだ風に顔を撫でられる。老人が手探りでスイッチを入れれば、天井の明かりがふわりと優しく点いた。
 細かいガラスを複雑に組み合わせ、何重にも花びらを重ねたような照明は、オレンジ色の光を柔らかく降り注ぎ、店内を照らし出す。
 温もりに覆われた店内はカウンターだけの小さな店だ。分厚い木のカウンターにスツールが並び、奥には壁に埋め込まれた空っぽの棚。
 使われなくなって久しいのか、空気は埃っぽく、目に見えて塵が漂っているし、棚にも白っぽい幕がうっすらかかっている。
 だが、目に入った途端、
「……きれい」
 ファルは感動して、言葉を失ってしまった。
 物の価値など分からないが、この店の中にある全てが丹精込めて、長年使われてきたのだろうと言うのは、何となく分かった。
 積み重ねられた歴史を、肌で感じ取れるような、濃密な気配がここには漂っているように思えた。
 ふん、と老人は鼻を鳴らす。
「この薄汚れた状態で綺麗などと、よく抜かす。ここを使えるようにするのが、まずお前の初仕事だな」
「は、い」
「それに、教える事は山のようにある。字の読み書きは? ……名前が書けるくらいか。だろうな。接客なんぞやった事も無いんだろう。酒も詳しくないと来た。教える事は山ほどだな」
「は、はい……」
「それにそのしゃべり方! 客はなあ、そんなおどおどしたマスターのいる店には来ん! まっとうな会話が出来んのはそれこそ話にならん! 黙ってるだけじゃいかん、客の好みを把握して、相手に応じて機知の富んだ会話をする、社会情勢やら芸能やら政治やら、押さえておくべき情報は数え切れん!」
「っ……」
「お前の部屋にはテレビがあるし、新聞も五紙ほど頼んである。今はまだ読めずとも目を通して、政治家でもなんでも写真が出たら覚えておけ。他にレッスンと勉強もだ、幸薄い顔も化粧をすればマシになるだろうし、寝る間も惜しんで知識を頭に叩き込め!」
「あ……あ、あ、あのっ!」
 立て板に水とばかりに言い募られ、さすがに黙って受け流せずに声を上げた。
 杖を突きつけてきた老人がぴたりと動きをとめたのを認めて、恐る恐る尋ねる。
「あの……ど、どうして、そこまで……してくださるんですか。
 わたし……わたし、ただの娼婦です。何も持っていないし、あなたに、何もしてあげられなかった」
 ファルは、元恋人を見舞う老人が、言葉通りに冷たい人間とは感じれなかった。
 むしろ優しい人だ。
 そうでなければ、大金を払ってまで、無関係な女を身請けするわけがない。
(見返りが欲しい……のかもしれない、けど)
 とはいえ、彼女が老人に与えられるものなど、この身ひとつしかない。
 年老いても女を抱きたがる男はいるから、肉体はともかく、性欲は年齢による衰えと関わりない場合もある。
 それなら、老人が娼婦を引き揚げるのも分かる。
 しかし、老人は自らファルを求めることなど、一度も無かった。
 セックスどころか、指一本触れる事さえ厭わしそうにしていたのに。
(いまさらだけど。どうして、わたしにここまで、してくれるんだろう)
 答えを待って老人を見つめると、相手は視線を背けた。ふん、と鼻を鳴らし、
「……金だけ追い求めてきたわしに寄り添った女は、あいつとお前だけだ」
 ぼそり、と呟く。
「お前がどうこうじゃない。わしはあいつに何もしてやれんかった、その罪滅ぼしのようなものだ」
 あいつ、というのは元恋人のことか。
 あの夜の悲嘆を思い出し、ぎゅっと拳を握るファルを、老人は再度見上げた。
 照明の柔らかい光さえ眩しいと言うように目を細め、
「……お前はこの店に向いてる。
 言葉も教養も何もないお前は、人の口を軽くして、ぺらぺらといらんことまで喋らせる力がある。力、いや、優しさか」
「やさしさ……ですか……?」
 自分はただ、話を聞いていただけだ。何も出来なくてごめんなさい、と謝りながら傍にいただけなのに。
 ぴんと来なくて首をかしげると、老人はくっと笑って帽子のつばを下げた。
「あずかり知らぬは本人ばかり、だ。
 ……ともかく、余計なことなんぞ考えんでいい。お前はチャンスをつかんだんだ。それなら全力で努力し、己の居場所にしがみつけ」
 そして杖をついて出口へ向かい、
「きゃっ!」
 通りすがりにぱしん、とこちらの尻をたたいた。
「わしは、甘受するだけの怠惰な人間は嫌いでな。
 お前が怠けるようなら遠慮なく放り出すから、覚悟しておけよ」

 それから一年は、忙しかった。
 学ぶことはたくさんある。知らないことだらけで、自分の無力を呪いながら、日々落ち込んだ。
 だが、同時にそれは楽しい日々でもあった。
(わたし、昨日とは違うわたしになってる)
 少しずつ学んだ事が自分の中に蓄積し、個々に取り込んでいた知識が結びついて、ある日ああこれはこういう事だったのか、と驚きと共に悟る。
 読み書きは生きていく中で最低限しか出来なかったが、毎日来る山のような新聞を早く読みたくて、必死で勉強して身に着けた。
 老人は趣味で世界中の酒を蒐集していて、それの管理も任せるつもりだからと、酒の知識を一から徹底的に教え込まれた。
 マナー教室で立ち居振る舞いや言葉遣いを仕込まれ、ある程度形になってきたら、老人の顔がきく店でバイトをさせてもらい、少しずつ接客に慣れていった。
 不慣れでミスばかりで、周りから叱られる事も多かったが、一方で彼女を気に入り、店を始めるならいくよ、と声をかけてくれる人もいた。
(少しずつ、変わってる)
 毎日、目覚めるたびに夢のようだと思う。
 一人で眠り、一人で起きる事が、こんなに開放的だとは知らなかった。
 自分で品物を選び、買い物をする楽しさを知らなかった。
 目にする文字の意味を分かるのが、こんなに嬉しいとは知らなかった。
(たのしい。もっと、知りたい)
 そんな思いで、いつしか自分で本や雑誌を買いこみ、読みふけるのが趣味になっていた。
 その日も、すっかりなじみになった本屋でどっさり買った本を抱え、街の通りを歩いていく。
(きのう、小説を読み終わってしまったから、今日はこれ。どんなほんかな。たのしみ)
 若い女ならもっと派手な趣味を楽しめばいいものと、と老人に言われはしたが、今はこれがファルにとって一番の娯楽だ。
 バイトまではまだ数時間ある。
 待ちきれない、どうせなら行く前に、公園かどこかで読んでしまおうか。
 でも、それで遅刻しそうになった事もあるし、どうしようか。
 弾む足取りで横断歩道を渡り、家か公園かと迷ってふっと歩みを止めた時。
『…………戦場から帰ってきた男、タツミ・レナード・アラガキ!
 いや強い、今日も一ラウンドKOで、完膚なきまでに叩きのめしました!』

 ――心臓が、とまるかと思った。