吹き抜ける爽やかな風に乗って、ひらりひらりと花弁が舞い落ちていく。
満開に咲き誇る桜は天を覆うように枝葉を広げ、その美しさは圧巻の一言だ。
こんな光景を独り占めしているのは贅沢だな、と車にもたれて見上げていた樹生は、ふと顔を動かした。
視線を向けたのは、細くうねる山道を走る車のエンジン音を耳にしたからだ。
小柄で円やかな曲線を描く青の車体は女性的で、それを見るだけで主の姿を連想出来て、微笑が口元にのぼる。
(ちゃんと来たか)
しかも時間通りだ。その律義さは昔のままだから、いっそう微笑ましい。
青いポルシェは樹生が車を停めた、近くの路肩に滑り込んで停車し、すらりとした一人の女性が中から姿を現す。
クラッチバッグを手に、白都の清廉潔白さを主張するような白ではなく、オレンジのニットとパンツ姿でこちらへ歩み寄ってきたのは、白都ゆき子――彼の妹だ。
「やぁ。来たんだな、ゆき子」
軽く手を上げて声をかけると、彼女は柳眉を上げた。まるで対決するように、少し距離を置いて立ち止まり、
「呼び出したのはあなたでしょう、お兄様」
と切りつけてくる。そうだけどな、と樹生は肩をすくめた。
「忙しいだろうし、正直無視されるかと思ったよ。そんな時間はないとね」
「忙しいのはその通りですが、無視はしません。来る来ないくらいはきちんと連絡します」
「そうだけどな」
これまでの経緯を思えば、土壇場でキャンセルされる可能性も、考えなくはなかったのだ――あのセレモニーの時のように。
だが、あの時と今では、自分と彼女の関係性は激変している。
そう無下に扱われる事もないだろうと目算していたとはいえ、実際こうしてゆき子が自分の誘いに応じてくれたのは、単純に嬉しいと思えた。
ゆき子、と自分の隣のドアを軽く手で叩くと、彼女は少しためらった後、歩み寄ってきた。
樹生と同じように車体に寄り掛かり、彼女もまた、目前にそびえたつ桜の木を見上げる。
「……見事なものね。こんな山奥に、こんな立派な桜があるなんて」
感嘆の声が自然と漏れ出るのも当然だろう。
春になれば白都コンツェルンの周囲でも桜並木が一斉に花開くが、それは街中で管理され、景観に添うように整然と剪定されていて、どこか作り物めいても見えた。
逆にこの桜は人の手がまるで入っていないせいで、枝はあちこちにひねくれ、天を掴もうとするように荒々しく伸び放題だが、それがかえって、溢れだす生命力を感じさせた。
隅々まで咲き乱れる儚い花々は、今この時の命を精一杯謳歌しているようだ。
「これを一人で見るのは勿体ないと思ってね。誰かと一緒に見たかったんだ」
ゆき子を見ながら言うのは気恥ずかしくて、桜を見つめながら樹生は言う。
観桜に誘うなら、他にもあてはある。
勇利と犬を招いても良かったし、番外地の面々なら桜の下で賑やかに宴会を始めるだろう。
わざわざ、縁を切った妹を呼び出さずとも、それなりに楽しい時はすごせたはずだ。
(だが、最初にこれを見つけた時、ゆき子が思い浮かんだ)
山中のドライブでここを訪れた際、咄嗟に『ゆき子に見せたい』と思った。そう考えた自分に少し驚いたが、逆に当然だろうと納得もする。
(俺は元々、ゆき子を嫌っていたんじゃないんだ)
怨みはした。自分から何もかもを奪っていった妹を、まばゆいほどの才に溢れた美しい妹を、妬みもした。
だがそれは結局、自分や彼女が背負ってきた白都という名への憎しみで、樹生は心底からゆき子を憎悪していたわけではなかったのだと、今になって思う。
(身勝手だな。ゆき子にはいい迷惑だろう)
あれほど激しく対立しておいて、何を今更と言われても仕方ない。
それでも樹生にとって、ゆき子はただ一人の、かけがえのない妹なのだと、白都を捨ててから強く実感した。
だから、樹生は開いた窓から車内に腕を入れ、
「ゆき子」
手に掴んだ四角い箱を、ゆき子に差し出した。
は、と夢から覚めたように目を瞬いて、桜からこちらへ顔を向けたゆき子は、訝し気な表情になる。
「何ですか、これは」
「誕生日プレゼントだ。……何年か分のな」
仲たがいする前は毎年渡していたプレゼントは、絶えて久しい。
今日の誘いに応えてくれたら渡そうと考えていたのだが、いざ本人に差し出すとなると、突っ返されないかと内心どきどきする。
「…………」
ゆき子は再度瞬き、じっと箱を見つめた。やがて、
「……ありがとうございます。今、開けても?」
そっと受け取ってくれた。
ほっとして肩の力を抜いた樹生が勿論、と頷けば、ゆき子は白いほっそりとした指で箱にかかったリボンをほどき、壊れ物を扱う慎重な手つきで蓋を開けた。そっと取り出されたのは、
「…………お花?」
色とりどりに咲き乱れる花々を閉じ込めた、手のひら大の透明なキューブだった。あぁ、と樹生は頷く。
「プリザーブドフラワーだ。それならいつまでも枯れる事なく、花を楽しめる」
「……これは、嫌味ですか」
むす、と声が沈んだのは、生きた花の扱いに不慣れな自覚があるからだろう。
樹生はつい吹き出してしまう。
「純粋に好意からのプレゼントだよ、素直に受け取ってくれ。それならオフィスの机に置いて、いつでも眺められるだろう?」
分刻みのスケジュールをこなす社長業の最中、ふとこれを目にしたゆき子が、少しでも心を落ち着かせられればいい。
そう思って選んだのだから、変に勘繰らないでほしいものだ。
「そうですか。ありがとうございます」
一応こちらの気持ちは伝わったのか、ゆき子はそれをバッグの中にしまった。
飾ってくれるかどうか分からないが、ひとまず受け取ってもらえてよかった、と思ったところで、
「……お兄様。どうぞ」
不意にずい、とラッピングされた袋が突き出された。え、と目を丸くすると、ゆき子はこちらを見ないまま、
「…………私も、一応、持ってきました。どうぞ」
気まずげにつっかえつっかえ言う。
「……俺に、プレゼントを? お前が?」
まさか返礼があるとは思わなかったので、つい意外さを声にも表情にも出してしまう。その反応にむっとしたのか、ゆき子は更に腕を突き出し、
「いいですから、受け取って下さい。いらないなら捨てます」
強く言い放つので、
「ああいや、いらないなんて事はない。もちろん貰うよ、ありがとう」
慌てて包みを受け取った。彼女に倣って封をとき、袋の中にあるものを掴んで取り出すと――それは、クッキーだった。
「これは……もしかして、お前が作ったのか」
既製品にしては形が不ぞろいだし、ラッピング自体、手作り感がある。
問いかければ、ゆき子の白い頬にすうっと血の気が上った。相変わらず視線を避けたまま、
「久しぶりに作ったので、味の保証はしません。ひとまず、食べられはします……味見はしましたから」
言い訳めいた事を言うので、樹生はつい言葉を失ってしまった。
(……ゆき子の手作りクッキーなんて、何年ぶりだ)
もう遥か彼方の昔。まだ祖父が存命で平和だった頃、樹生とゆき子は仲睦まじい兄妹だった。
樹生は愛らしい妹を掌中の珠のようにかわいがったし、ゆき子はいつもお兄様、お兄様と彼にまとわりついて離れず、天真爛漫な笑顔で懐いてくれていた。
ゆき子がよく手作りのお菓子を振る舞ってくれたのは、その頃の思い出だ。
白都家の子ども達という立場上、身の回りの世話は全て召使いが行っていたし、厨房に立つような身分ではないのだが、ゆき子と樹生は仲良く入り浸り、二人でよくお菓子を作っては、祖父と共に午後のお茶を楽しんでいたものだった。
祖父が亡くなり、樹生とゆき子の仲が決定的に裂かれてからはもちろん疎遠になっていたのだが……まさかまた、これを手にする日が来るとは。
「……今、食べてもいいか?」
何か胸がいっぱいになってしまい、感極まりながら問いかければ、頬を紅潮させたままゆき子は首肯した。
では有難く、と袋を開け、飾りのないシンプルな、丸いクッキーをつまんだ。
一口食べれば、ほろりと崩れて、口の中にレモンピールとバニラエッセンスを含んだ甘い香りがふわりと広がって、柔らかく溶け消えていく。
「ああ、美味しいよ、ゆき子。……一緒に、食べないか」
そういって差し出すと、ゆき子は躊躇った後、自分もクッキーを取った。
さくり、と小さな音を立てながら食べるその姿は、頬をバラ色に染めて、幸せそうにアフタヌーンティーを楽しんでいたかつての少女を思い起こさせて、何とも言えず愛おしさがこみあげてくる。
「……ありがとう、ゆき子。最高のプレゼントだ」
胸が熱くなってきて、樹生は顔を背け、桜を見上げながら小さく呟く。
「どういたしまして、お兄様。……誕生日を覚えていてくれて、ありがとうございます」
答えたゆき子の声も、聞こえるか聞こえないかくらいの小声だったが、ちゃんと耳には届いている。
(…………今年は、良い一年を過ごせそうだ)
長く思い煩った懊悩は消え去り、穏やかな時を過ごせる今がこの上なく幸せに思えて、目が熱く潤んでくるのを感じる。
だが、泣いている姿を妹に見られるなんて恥ずかしいにもほどがある。
ゆえに樹生は、クッキーの優しい甘さを味わいながら、空を抱えるように咲く大輪の桜を見上げて微笑んだ。こんな幸せな時間を過ごせるのが何よりも贅沢で、たまらなく嬉しかった。
blue bird