dead tired
――俺は今、何をしている。
そんな考えが頭をよぎったのは、ギア開発を進める中、どうしてもクリアできない問題に行き当たった時だった。
考え付く限りの手を試し、あらゆる実験を行って糸口を探しても、いっこうに見つからない。
連日の徹夜で思考も鈍り、とうに空腹も感じなくなって久しい。床に座り込み、辛うじて水だけ煽ってから、口を拭った。
――俺は今、何をしている。
問いかけて、視線を上げた。
その先にあるのは、クレーンにかけられてコードで繋ぎ止められた開発中のギア――いや、もう開発を止められた、ギアだ。
白都コンツェルンのギアテクノロジーを象徴する最高峰のギアを、天賦の才に恵まれたメガロボクサーに与え、大舞台でその有用性をアピールする。
祖父が始めたメガロニアプロジェクトは、社運を賭けたミッションとして、誰もが眼の色を変えて取り組んでいる。
メガロボクストーナメントの委員会を立ち上げた古だぬきたちも、自分たちの技術を活かせるまたとない機会とはしゃぐラボの連中も――もちろん、旗印を掲げるあの女も。
――勇利が身に着けるのは一体型ギアよ、お兄様。
――このプロジェクトは、本日をもって終了します。
取り澄ました顔で、何の痛痒もなく言い放ったあの女の声が耳の奥で鳴り響き、奥歯を噛んだ。
(俺は今、何をしているんだ。もういらないと言われた身で、このギアを作って――何を、したいんだ)
朦朧とした頭ではまともに思考出来ない。ごろりと床に寝転び、痛む頭に顔をしかめながら目を閉じた。
今はもう何も考えたくない――白都樹生は、もう疲れた。いっそここで、ギアと心中するのも、悪くないとさえ、思えるくらいには、疲れてしまった……。
……はっ、と目を開ける。変な格好で地面に突っ伏していたからか、少し動いただけで首がずきりと痛みを訴えた。
思わず呻きながら、手をついて身を起こし――周囲が白いものに包まれている事に気づいて、ぎくっと体をこわばらせた。
(何だ? 火事か?)
うとうとしている間に、何か火の不始末でもあったか。そう思ったが、周りに揺蕩うのは煙ではなく、ただのもやだ。
ひんやりと冷たい空気が頬を撫で、不明瞭な視界には何も見えない……いや。
(……何か、ある?)
自分がいる場所から少し離れたところに、何か大きな影がある。手でもやを払い、目を凝らし――息を飲む。
そこにあるのは、リングだ。
「なっ……」
何でこんなところに、と言葉に詰まる。
今自分はラボに詰めていて、ジムへは足を踏み入れていない。むしろ、一体型ギアを身に着けた勇利を目にするのが怖くて、あえて避けていた。
それなのにどうして、目の前にリングがある。今は絶対に、絶対に近づいたくないのに。
恐れおののく気持ちで後ずさりかけた時、物音がした。
反射的に動いた目が、リング――その上で、軽快に動き回る二つの影をとらえる。
(誰か……いる?)
もしや勇利だろうか。それなら見たくないと思いながら、つい目を細めて正体を見極めようとしてしまう。
リングで踊る影は二つ。
姿は判然としないが、どうやら試合か何かをしているらしく、シューズのこすれる音と、グローブが風を切って体にぶつかる音が耳に届いた。
影が動くたびにもやが少しずつ払われ、視界は清かになっていく。やがて目に映ったものを見た途端、ぞっとした。
グローブをはめ、ギアを身に着け、ひたすら殴り合いを続けているのは、黒いもやの塊だ。
人の形をしているが、顔はなく、ゆえに表情など表れるはずもなく、ただ闇雲な敵意だけを込めてグローブを繰り出し、相手をノックアウトしようとしている。
底知れない悪意を塗り固めたような、至極不自然な、それでいて視線をそらせない存在感。
目が釘づけになって、背中を冷たいもので撫でられるような寒気に襲われて、ひっ、と悲鳴が出かかる。
と――その瞬間、黒い顔に鋭いパンチが突き刺さり、空中にもやを四散させた。
「!」
ハッと叫びを飲みこむ目の前で、それは凄まじいラッシュで黒いもやの塊を後退させ、ロープまで追い詰め、より一層激しく叩きこんでいく。
(誰だ)
白いもやはまだ揺蕩い、視界は完全にクリアではない。
だが、その荒々しい姿に、闇を叩き散らす姿に、胸の奥が熱くなり、自然と腰を上げて、リングへふらふらと歩み寄っていってしまう。
(誰だ)
ぐっとロープを掴んで身を乗り出し、さらに目を凝らす。
ここまで近づけばもう見える――それは黒いもやと違って、はっきり人の姿を持っている。
若い男。軽やかなフットワーク。細くとも鍛え抜かれた体。そしてその上体を覆うギア。……いや、待て。
(あれは……あれは、俺のギアじゃないか)
見間違いかと、もやを払い、目をこすったが、間違いない。
その男が身に着けているのは、彼が開発しているあのギアだった。真っ赤なカラーリングを下地に、三つの節に黄色の差し色が入った無骨な形。
ついさっきまで、これではまともに実戦で使えないと匙を投げていたギアが、なぜあそこに。
「……おい、お前!!」
いったい誰だ、勝手に持ち出しているのは!
カッとなって、つい大声を上げると、男が不意にぴたりと動きを止めた。
「お前、そのギアで何をしている。誰が使っていいと許可を出した!」
ぎり、とロープを握りしめながら詰問すると、しばらく立ち尽くした後、男の体がゆらりと揺れた。
もやの中、ゆっくりとこちらへ向き直り、音も立てずにこちらへ近づいてきて……それが目の前にきた時、心臓が止まりそうになった。
ギアを身に着けて闘っていたのは――自分だ。
ビーッ! ビーッ!!
「っ!!!!」
けたたましいアラート音にびくっと体中を震わせて目を見開いた。
はっ、と起き上がれば、そこはいつものラボ――リングも、リングの上で踊る二つの影も、微塵も存在しない。
(……夢……か……?)
どうやら床に寝転んでいたせいで、妙な夢を見たらしい。
どんな夢だったか、思い返そうとして……しかし、その記憶はアラート音のショックで霧散して、断片的なイメージしか思い出せない。
「……っ」
胸に嫌な感覚が残っているのだけ噛みしめながら、きしむ体を立ち上がらせてコンソールに向かう。
いまだ鳴り続けるアラートをいったん止め、何が警告を発したのか確認し……目を見開く。
「……自動計算……問題解決……AIが動いてたのか?」
自分がどうしようもなく手をこまねていた問題。その解決方法の探索を、AIが行っていたらしい。
思っていたより長く眠っていたのか、ずいぶん長時間計算を続けた後、バグを発見してアラートを立てた――どうやらそのようだが、
(……眠る前にAIの設定をしたのか? あまり覚えていないが)
徹夜で朦朧としていたせいで、自分がそれをやったのかすら、記憶にない。
だが、こうして結果が出たという事は、意識を失う前に指示をしていたのだろう。
そうでなければ、単なる機械でしかないギアが勝手に探索し始めるわけもない。
「…………」
ちら、とギアを見る。眠る前と同じく、ギアはクレーンにかけられてコードで繋ぎ止められたままだ。
何も変わりないのに――なぜ今見ると、言葉にならない感情がこみあげてくるのだろう。
感情を表現するのは苦手だ。
ゼロかイチかで語れる機械との対話の方が自分には楽で、こんなふうに処理できない気持ちに左右されるのは、落ち着かない。
そっと手を伸ばし、ギアの肩に触れる。
掌に伝わる、硬質で冷たい感触。温もりなどないのに、なぜ触れていると、ざわめく心が落ち着いていくのだろう。
(……もう少し。もう少しだけ、あがいてみるか)
胸中でそうごちると、肩を軽く揺さぶって、ディスプレイに向き直る。そしてわずかに笑って、自分に言い聞かせるように呟いた。
――身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、だ。
rainy ghost
今年の法要も、朝から雨が降っている。
今日目覚めた時も、会場へ移動してからも、雨は止む気配がない。細い糸が周囲の音を吸い込むようにしとしとと降り注ぐ様は、何とも言えず気がめいる。
(ある意味、追悼には相応しいと言えるのかもしれないけど)
窓ガラスに手を当て、ぼんやりと曇天を見上げながら、ゆき子は思う。
祖父が亡くなってからはや数年。
動かなくなってしまった体にすがり、声を上げて泣いたのは、もう遠い記憶だ。
折々、こうして祖父の死を悼む日が訪れるけれど、ゆき子はもう涙を流さない。楽しかった記憶を思い出して、ほんの少し悲しい気持ちになるだけだ。――そしてそれが、自分の薄情さを証明しているようで、湿った気持ちが更に重くのしかかってくる。
コンコン。
胸を刺す痛みにわずかに眉根を寄せた時、ノック音が響いた。どうぞ、と声をかければ、
「……オーナー。そろそろ、時間です」
朝本かと思いきや、勇利がその向こうから現れた。
背をわずかにかがめて部屋の中へ入ってきた長身の男は今、ゆき子と同じく喪服を身に着けている。
――白と黒。その色の印象がぱっと目に焼き付く。普段と違い、モノクロで彩られた勇利を目にした途端、ゆき子は一瞬、死神を連想してドキリとした。
(……駄目ね。感傷的になりすぎてる)
祖父を思い返すと、いつもの怜悧な白都ゆき子はどこかへ行ってしまう。軽く頭を振って、ゆき子は勇利へ歩み寄った。ふと思いつき、手を上げて、勇利の腕に触れる。
指先が探り当てたのは、柔らかい布地の下、正反対に硬質な感触。
人の血が通っていない、冷たいそれは、今目にする事は出来ないけれど、何よりも美しく、彼女の夢を体現している事を、ゆき子は知っている。
(……お爺様の。そして私の、夢)
白都の未来を象徴する、勇利の一体型ギア。
祖父があれほど熱く語り、きっと叶えるのだと誓っていた夢は今、ゆき子が担っている。
(あと少し。あと少しで、この夢が叶う)
社長になってからゆき子は様々なものを犠牲にして、ただひたすら邁進してきた。その終点はもう目に見える位置まで来ている。
やっとここまで来たのだと感慨にふけってしまいそうになるのは、今日が特別、感情的になっているせいだろうか。
「…………オーナー?」
訝し気な声に視線を上げれば、勇利が目を細めてこちらを見下ろしている。自分の腕に触れて黙っているゆき子は、さぞ不可解に映ったのだろう。
「……何でもないわ。行きましょう、勇利」
感傷を振り払うように笑って、ゆき子はすっと部屋を出た。
後ろから番犬のように付き従う勇利の気配を感じながら、真っすぐ前を見て歩き出す。その胸中にはもう、湿っぽい雨の気配など微塵も残されていなかった。