フェイント, ステディ・ライト

 ――メガロニア決勝。
 ギアをはずした無敗のチャンピオンが、挑戦者に敗れるという大番狂わせ。
 その混乱がいまだ冷めやらぬ、次の日の早朝。
 押し寄せたマスコミでごった返す周囲とは裏腹に、病院の中は耳が痛くなるほどの静寂に包み込まれている。
「……では、後はよろしくお願い致します、先生。無理に応じて下さって、ありがとうございました」
 診察室から出たゆき子は、白衣の医師に深々と頭を下げた。相手は慌てて、
「頭をあげてください、白都さん。お礼を言いたいのはこちらの方です。
 あなたのお力添えがなければ、勇利さんは本当に危なかったかもしれないんです。あなたは彼の命の恩人ですよ」
「……勇利はわが社に長年、誠心誠意、貢献してくれました。
 私はそれに報いただけです。
 最後の報酬としては妥当でしょう」
 背をまっすぐにしてそう言うと、医師は困惑を見せる。
「本当にもうお帰りになるんですか?
 勇利さんの意識が戻ったら、きっと真っ先にあなたへ感謝を伝えたがると思いますよ」
 それはそうだろう。
 彼は律儀な性格だから、ゆき子が白都の最先端医療技術スタッフを手配し、夜を徹しての手術で命を救ったと知れば、心から感謝するだろう。
 ……だが、それはもういい。
 勇利からは十分、白都へ恩を返してもらった。これは最後の余録のようなものだ。
「彼は、すでに白都の人間ではありません。
 メガロニアトーナメントの決勝戦で死者が出ては、せっかくの成功に水を差してしまう。……それだけの事です。
 この件についてマスコミに好きに書かれても困りますので、くれぐれも内密にお願いします。
 また、彼の容体が急変するような事態が起きない限り、連絡も結構です」
「は、はぁ……そこまで仰るのであれば、承知しました」
 ビジネスライクな物言いに鼻白んだ医師に会釈し、ゆき子は同行者の朝本のところへと歩き出した。
 彼女は今、事務的な手続きで、入り口の受付にいるはずだ。
 それが終わったら、報道陣の目を盗んで、裏口から会社へ帰らなければならない。
(まだまだ、することは山積みね)
 昨日からあまり寝ていないせいか、頭が少し痛い。
 移動の合間に少し寝ておこうかと思いながら、廊下を曲がって待ち合いスペースに出たところで、
「……あっ、キャットさん! あなた、まだいらしたんですか」
「!」
 後ろからやってきて自分を追い抜いた看護師が、ソファに腰かけた人物のところへ駆け寄った。
 叱責されて、俯いていた顔をあげたのは、
(……キャット)
 間違いなく、あの彼女だった。看護師がその前に立ち、強い口調で告げる。
「点滴が終わったらお帰りください、と言ったでしょう」
「でも……勇利、勇利はどうなったんですか。手術してるんですよね、無事なんですか!?」
 対してキャットは椅子から立ちあがり、切羽詰まった様子で問いかける。相手は渋い顔になった。
「それもいいましたよね。
 部外者に他の患者さんの詳細はお話しできません。
 あなたが以前入院していた時は、勇利さんが代理保証人でしたから、先生から説明がありましたけど。
 あなたは彼の保証人でも、ご家族でもないでしょう。
 だから、何もお教えできません」
「でも……!」
「――待ってください」
 見かねて、ゆき子はヒールの靴音も高く、歩み寄った。二人が同時に振り返り、
「!」
「これは、白都さん……! いらしてたんですか、失礼しました」
 あわてて畏まる看護師の隣で、キャットが鋭く息を飲んだ。ゆき子はちらりとそちらを見やってから、
「彼女の付き添い、認めて頂けませんか。彼女は……キャットは、勇利の婚約者です・・・・・・・・
 看護師の目をまっすぐ見つめ、堂々たる嘘をついた。
「……なっ」
「えっ? ……そ、そうなんですか?」
 二人とも、寝耳に水という顔で驚く。合わせて、とキャットに目配せして、ゆき子は続ける。
「ええ、ごく内々の話で、まだ公にはしていませんが。婚約者であれば、勇利の身内といっていいですよね?」
「それは、そうですが……そうなんですか? キャットさん」
 婚約者というのなら、なぜ言わなかったのか。疑いの浮かんだ目を向けられ、キャットはぎしりと硬直した。
 しばし迷う間をおいた後、
「……そ……そう、です」
 ぎこちなく、肯定する。
 ……ばればれだ。
 それでは否定しているのと同じではないか。
 呆れながらゆき子は間髪入れず、
「この通りですから、彼女を付き添わせてあげてください」
 看護師に言うと、相手はまだうろんげな目で自分とキャットを見比べている。
 では、駄目押しを。ゆき子はにっこり、とっておきの笑みを浮かべた。
「――それとも私、白都ゆき子・・・・・の保証では、足りませんか?」
「! い、いいえ、とんでもない!
 で、では今手続きの準備をしてきます……キャットさん、そこで少しお待ちください」
 こちらの圧に恐れをなし、看護師は慌ててその場から立ち去った。ぱたぱたと忙しない足音が十分に遠ざかってから、
「……あの……ありがとうございます。助かりました」
 キャットが腰を折って、深々と頭を垂れた。その律儀さに、つい苦笑する。
「たまたま通りすがったから、お節介をしただけです。顔をあげなさい、キャット」
 こちらの言うまま上体を戻した相手の顔を見て、ゆき子は眉をひそめてしまう。
 久しぶりに見る彼女は、ひどく憔悴した表情をしていた。
 勇利の安否を心配してというのもあるのだろうが、それ以前に、元々痩せていたのがさらに肉が落ちて、病的にやつれて見える。
 隈が浮かび、顔色は真っ白で、疲労の色も濃い。
 先ほど点滴がどうのと聞こえたが、ここにいるのは試合後の勇利を追いかけてというより、彼女自身も倒れて、搬送されたのかもしれない。
(……勇利もあの後、しばらく荒れたけれど。あなたもそうなのね、キャット)
 互いに嫌いあってではなく、納得いくような別れでなかったのだから当然だろう。
 今ここにいる事自体、キャットにしてみれば、身を切られるような思いで選択した結果に違いない。
(それも、もう私には関係ないわね)
 荒れた挙げ句、スパーリングマシンを破壊した勇利を思い出せば、元凶に一言いいたい気もする。
 とはいえあの失踪は自分も共犯だし、彼らはもう白都を離れた人間だ。
 これからどうなろうと、自分が関与すべきではない。
「…………では、私はこれで」
「は、はい。ありがとう、ございました」
 それはもう聞いたわと苦笑し、背を向けて歩き出す。
 だが、少し進んでから、足が止まった。
 肩越しに振り返ると、看護師を待つためにキャットは再び椅子に腰を下ろし、じっと前を見つめている。
 やつれたその横顔を見ていたら、
(……勇利)
 あの山小屋、兄の手で一体型ギアを外した後、気が狂うような悲鳴を上げてのたうち回っていた勇利を思い出し、胸がしめつけられた。
 ゆき子が痛み止めを手に地下を訪れた時の彼は、もはや暴れる力さえ失って、別人のように弱っていた――ちょうど、今の彼女のように。
「……もし、あなたが」
「え?」
 自分でも意図せず、言葉が口から零れ落ちる。それを聞きつけて、キャットがこちらへ視線を向けた。
 目が合って、言うべきか否か迷ってゆき子はまつげを伏せたが、
「もし、あなたがあの時、ギアを外そうとする勇利を止めていてくれたら。こんな事にならなかったかもしれない」
 胸のつぶれるような一夜を過ごしたせいだろうか。そんな弱音がつい、漏れてしまう。
 目を見開く彼女へ、話を続ける。
「――勇利の手術は、成功しました。
 まだ予断を許しませんが、ひとまず峠は越えた、と医者は言っています。
 でも、勇利は……勇利は、試合よりも前に、命を落としかねなかった。
 あの一体型ギアを外した時、彼は文字通り、生死の境をさまよったのです。
 それがどれほど危険か、あなたにも分かるでしょう」
「……はい」
 キャットは神妙な顔で頷く。
 ずっと勇利の傍にいた彼女なら、誰よりも理解しているだろう。
 だから、とゆき子は続けてしまう。
「あの時、勇利がギアを外すと言い出した時、あなたが彼の傍にいれば……彼を止めていてくれたら、二度も命を危険にさらすような事にならなかったでしょう。
 ジョーとの試合に勝ち、無敗のチャンプとしてメガロボクスの頂点に君臨し続けていたはずだわ」
 それがただの繰り言に過ぎないのは、自分で分かっていた。
 勇利はもはや、自分と道をたがえた。
 いくら過去に『もし』と言ったところで、取り返せるものではない。彼が一人のボクサーとしての闘いを選んだ事実を、ゆき子は受け入れている。
 ただ、今キャットと対面してしまうと――勇利が命を落とすかもしれない、と不安な夜をすごした、もう一人の女と対面してしまうと、どうしても言いたくなってしまう。

 ――あなたさえ居れば、勇利が死にかけなかったかもしれないのに、と。

 しん、と沈黙が落ちる。
 ゆき子は俯き、ぐっと唇をかんだ。
(こんな事、今更どうこういっても仕方がないわ)
 キャットはキャットで、彼を思って身を引いたのだ。その後に起こった事で責められても、困惑するしかないだろう。
(……ごめんなさい)
 これはただの八つ当たりだ。そう思って、謝罪を口にしかけた時、
「………それは、無理だと思う」
 不意に静かな声が静寂を裂いた。はっと顔を上げると、キャットがじっとこちらを見上げて、
「勇利が一度ギアを外すと決めたのなら、他の誰が何を言ったって、絶対に曲げない。
 もし自分がやめてくれと言っても、聞かなかったと思います」
 断言する。それは、と反論しかけるが、ふっと彼女は笑った。
 その苦い表情に何かと思ったら、
「それに、自分がその場に居合わせたとしても、多分止めなかったんじゃないかな」
「……何ですって?」
 思わず目を瞬いて、聞き返す。
 キャットは小さく肩をすくめた。
「だって勇利は、ジョーと対等に闘いたいから、ギアを外すと決めたんですよね?
 その気持ち、分かる気がするんです。もし自分が勇利なら、たぶん同じ選択をしてる」
 パーカーのポケットに手を入れ、ふと何かに気づいたようにそこから丸まった紙くずを取り出す。
 キャットはそれをぎゅっと握りしめ、もう一方の掌に拳を打ち当てた。
「ジョーは最高のメガロボクサーです。
 自由で、がむしゃらで、強くて……見ているだけで、血が熱くなる。あいつとリングで闘いたくなる」
 自分でさえそうなのだから、と彼女は――元メガロボクサーの野良猫ストレイキャットは、笑う。
「初めて会った時からジョーを気にしてた勇利なら、なおさらじゃないかな。
 自分をさらけ出して向き合える相手と出会えたのなら、全てを捨てて生身で闘いたいと思うのは、当然だと思います。
 ……だから自分には、勇利を止められない。
 こうなると分かっていても、それでもギアレスになるのを、止めなかったと思いますよ」
「…………」
 絶句、してしまう。
 同じ女として、同じ男を気にかける存在として、キャットとは共感できるものがある、と思っていた。
 だが、ふたを開けてみればどうだ。
 彼女は自分には到底理解できない、メガロボクサーとしての感覚をもって、勇利の選択を肯定している。
 身も細るほど彼を案じ、後さき考えずに看護師に食って掛かるような、恋人として当然の反応をしておきながら――なぜこうも決定的に、自分と異なる結論を出してしまえるのか。
「……呆れたわね」
 長い沈黙を挟み、ゆき子はため息を吐き出した。
 あの男勇利にしてこの女キャットあり、とでも言うべきか。
「それならあの時、あなたがいなくてよかったわ。
 私は、兄とあなたの両方、責める羽目になったでしょうから」
「兄? 樹生……さん、ですか」
「勇利の手術をしたのは兄よ。全部終わった後に、連絡を寄越してきたの」
「えっ……え? 樹生が……えっ、何で……?」
 その事実にはさすがに困惑したのか、キャットが首をひねっている。
 ゆき子はつい苦笑してしまった。
(……やはり私には、理解出来ないのね)
 以前勇利と、持つものと持たざるものについて、会話した事があった。
 持つものは持たざるものを理解出来ない、というような内容だったと思うが――この場合の前者は、勇利やキャット。後者は自分だ。
(メガロボクスに命を賭けるほどの情熱を持った人たちなんて、私には分からない)
 ゆき子はあくまでプロモーター、リングの外でメガロボクスを見守る立場の人間だ。
 そしてメガロニア自体、一体型ギアのプロモーションであり、ビジネスだった。
 だからそんな自分には、彼らを理解出来ない。
 おそらくどれほど深く交流を持ったところで、それは決して埋まらない溝なのだろう。
(……けれど。それでいいんだわ、きっと)
 不意に清々しい気持ちで、諦める。
 勇利と決別した時にも感じたそれは、軍との商談の場で告げた言葉で昇華している――たとえ全てを分かり合えなくとも、友人になる事は出来る、と。
「……私は帰ります。仕事が残っているので」
 くるっと背を向けて告げると、後ろでせわしない音がして、
「あのっ、本当にありがとうございました!
 今度、お礼に伺います!」
 静寂をたたき割るような大声を出すキャットが、深々と頭を下げているのは、振り返らずとも分かった。思わず笑ってしまう。
「そんなこと気にしなくていいわ。あなたは勇利にしっかりついていなさい」
 気安く手を振って、その場から歩き出す。

 道は分かたれ、かつて共に夢を見た同志はもう隣に居ない。
 だが、それは決して永遠の別れではない。きっといずれ、重なり合う時も来るのだろう。
 それがどのくらい先か分からないが、きっとその機会があると、願っている。
 ――その時にはきっと、お互い笑って語り合える友人になれるだろう。
 珍しく根拠のない確信を抱いて、ゆき子は自分の新しい道へと、足を踏み出したのだった。

 ――深く沈んでいた意識がゆっくりと浮上し、瞼の裏に光を感じる。
 頬を撫でる優しい風に誘われて目を開くと、右手の窓は開け放たれ、白いカーテンがふわりと踊るように揺れていた。
 ここはどこだ。自宅ではない。天井も、カーテンも、窓も、視界に見える何もかもに覚えがない。
 事態を理解するため、ゆっくり視線を動かしていくと――そばに居る人の影が映る。
 最初、それが誰なのか分からなかったのは、夢うつつの感覚だったからだ。何度か瞬きして、ぼやける視界をクリアにして、ようやく判別がつく。
(シャル)
 ベッドの脇に座っているのは、シャルだった。
 肘をついた両手を固く組み、祈りをささげるように目を閉じているので、眠っているのか起きているのか分からない。
 いや、そもそもこれは現実だろうか。
 以前二日酔いの寝起きに彼女を見て、夢の続きかとつい口づけてしまった事があったが……今度は、本当に夢かもしれない。
 なぜなら、彼女はもう自分の元へ戻ってこないだろうから。
 触れて、確かめたい。
 そう思って腕に力を入れる――途端、激痛が走って息を止めた。
「ぐっ……」
 思わず呻きを漏らす。
 と、それが聞こえたのか、シャルがハッと目を開けてこちらを見た。つぶらな瞳を大きく見開き、凍り付いたように凝然とこちらを見つめ、
「……ゆ……ゆう、り?」
 恐る恐る、まるで壊れ物を扱うように、自分の名前を口にする。
 その声を耳にして、顔をしかめていた勇利は、体の力を抜いた。不思議だ。彼女の声を聴くだけで、痛みが遠ざかっていくように思える。
「……シャル……」
 ぎこちなく笑いかけ、長い事話していなかったような、しゃがれた声で呼び返す。
 途端、彼女は顔をくしゃくしゃにして、
「勇利……勇利、勇利……!」
 まるで爆発したかのように彼の名を連呼しながら、ぼろぼろと涙をこぼして泣き始めてしまった。
「ゆ、勇利、目さめ……よかっ……」
 涙の合間にしゃべろうとするものだから、しゃっくり上げて何を言っているのか分からない。
 その頬から伝い落ちた涙がぽつぽつ、と自分の手に落ちる感覚があって、勇利はようやく実感した。
(……ああ、これは、現実か)
 実感した途端、言いようのない喜びが胸の奥からこみ上げてくる。どうしようもなく、彼女に触れたくなった。
「シャル……」
 腕を持ち上げようとすれば、痛みがある上に、鉛のように重い。
 だが強いてそれを無視して、勇利はシャルの頬に手の甲を当てた。
 自分の体がままならない歯がゆさを感じながら、ぎこちなく指で涙をぬぐい、
「……痩せたか、シャル」
 以前より肉が薄くなったような感覚に、ふと心配になった。
 よくよく見れば彼女は、記憶にあるよりも大分やつれているようだった。
 元から小柄で痩せていたとはいえ、さすがにこれは度が過ぎるのではないか。そう思ったが、
「そんなの……、今の、勇利のほうが、よっぽど……」
 シャルは彼の手をぎゅっと握り、一方の手で胸を押さえて縮こまった。ベッドに額を当てて、
「勇利……ほんとに……死んじゃうかと、思った……!!」
 泣き叫ぶような様子に、やっと事態を理解する。
 そうか。自分は、ジョーとの試合に挑み、十三ラウンドを闘った結果、負けたのだ。
 リングに膝をついた後の事は、覚えていない。
 断片的な記憶で、横たわったままどこかへ運ばれていたような気がしたが――あれはきっと、救急搬送されていたのだろう。
(あの時、死を覚悟した)
 そんな事を思い出し、ついで、
(シャルの声も聴いた気がする)
 意識が薄れる中、必死で自分を呼ぶ彼女の声が、聞こえた気がした。
 おそらくあれは、空耳ではない。
 確信をもって、勇利は緩やかに言葉を紡ぐ。
「……お前は必ず、試合を見に来ると思っていた。
 お前に俺の闘いを見てほしいと、考えていたんだが……結果、この有様だ。格好がつかないな」
 ジョーとの試合は言葉に尽くせない。全力で闘ったから、勝敗はどうあれ、悔いはない。
 だが、シャルがあの場にいたのなら、やはり勝利する姿を見せたかった。
 そう思って自嘲すると、彼女はぶんぶんと頭を横に振り、
「そんな事、ないっ……勇利は、世界一、いつでも、だれよりも、かっこいいよ……!」
 涙ながらに言うから、微笑んでしまった。
 その台詞を、ずいぶん久しぶりに聞いた気がする。
 彼女がまだ自分を神のように崇拝していた頃よく言っていた、妄信の賛辞。
 だが今の彼女が、あの時と異なる思いでそれを口にしているのは分かっている。
 勇利は、シャルの手を優しく握り返した。
 一回りも二回りも大きさの違う手は、自分の掌にすっぽり収まって包み込んでしまえる。
 柔らかく小さなその温もりを、どれほど求め惜しんでいたのだろうと実感し、
「……好きだ、シャル」
 素直な気持ちを、口にする。ぴくっと彼女の肩が震えるのを目でとらえながら、静かに続ける。
「戻ってきてくれないか、シャル。俺には、お前が必要だ」
「…………」
 返ってきたのは長い沈黙。
 彼女は俯いたまま、顔を上げようとしない。まるで何かに怯えるように縮こまっているので、シャル、と優しく呼びかけると、
「……駄目だよ」
 少しだけ顔を上げて、呟く。
 涙はひとまず落ち着いたようだが、その表情は悲しみに沈んだままだ。
「何故だ」
「……だって……勇利に、迷惑かかるから……」
 何が迷惑なのか、詳しく聞き出したいところだが、目覚めたばかりだからか。いささか頭が重く、判然としない。このままではまた、眠りに落ちてしまいそうだ。
 せめて最低限の話をしなくてはと思いながら、勇利は続ける。
「それを言うなら……俺の方が、迷惑をかける」
「え?」
 予想外だったのか、彼女がぱっとこちらを見た。
 きょとんとした顔はいつものシャルで、ひどく愛らしく見えて、胸が暖かくなる。
 その一方で、身動き一つ叶わない自身の体を思って、苦い気持ちがこみ上げてきた。
「……俺は、この様だ。
 ギアを外した上、あれだけの試合をした。体へのダメージは計り知れないだろう。
 元通りに動けるのに、どれくらいかかるか。そもそも、元に戻れるかどうかも分からない。
 この状況で、今お前が帰ってくれば、必然的に俺の介護をつきっきりでする事になる。
 それなのに戻ってほしいと言うのは、俺の我儘だろう」
「! そ、そんなの……!
 そんなの全然、迷惑なんかじゃ、ないっ! 自分は、だって、勇利を……っ」
 言葉に詰まり、迷うようにシャルの視線が揺れる。
 胸の内に抱えたものが、彼女の言葉を遮っているのだろう。勇利は握った手を、柔らかく撫でる。
「……何か事情があって、お前はあんな風に別れを切り出した。そうだろう?」
「っ……」
「お前は以前、言ったな。
 俺にはしがらみが多い。そういったものと関係なく、メガロボクスを好きにやれればいいのに、と」
「…………うん」
「俺は、好きにした。自分の為に闘った。
 結果は伴わなくとも、俺は十分、満足している。
 ……お前はどうだ、シャル」
 ぎゅ、と手に力を込めて、問いかける。
「お前は今、何をしたい。何を望んでいる。しがらみも、ためらいも全て捨てて、叶えたい望みは――何だ」

 シャルは、息を飲んだ。涙の名残を残して潤んだ瞳がこちらを見つめ、少し迷って視線が揺れ、――そして、
「…………勇利の、そばに居たい」
 震える声が、ようやくその思いを口にする。

「勇利を支えたい。勇利のそばで力になりたい。勇利の為に、何でもしたい」
 一度言葉にしてしまうと、止まらなくなったのか、矢継ぎ早に告げた。
 血の気の抜けた頬が、ほんのりと朱色を帯びて、ようやく生気を取り戻す。
「迷惑だって、嫌われたくないって、怖いけど、でも、もう嫌だ。
 勇利と離れてるの、やだ。ずっと、一緒に居たい」
(……ああ。それが、聞きたかった)
 溢れんばかりの思いに、少し気恥ずかしくも思うが、喜びで体中に熱が駆け巡るようだ。
 勇利はゆっくりとシャルの腕を引き寄せ、手の甲に口づけた。
 自身の頬に彼女の手を当てて、優しく微笑む。
「ああ、シャル。俺も同じ気持ちだ。……一緒に、居よう」
「……うん……うん、勇利……うん……」
 互いの気持ちを確認して心から安堵したせいか、彼女はまた泣き始めてしまったし、自分は自分で、重たい睡魔が押し寄せてきて、今にも眠ってしまいそうだ。
 しかし今度目を覚ませば、シャルが、新しい明日が、ここに間違いなく待っている。
 それを思えば、何もかも愛しく優しく思えて、どうしようもなく心が震えた。
(リングではジョーが、隣ではシャルが、熱を失った俺を、心から望んでくれた。俺は――本当に、ついている)
 そう考えたのを最後に、ふっと意識が眠りに落ちていく。
 勇利、と呼ぶシャルの声が聞こえたような気がしたが――また後で、彼女は彼を、暗闇から優しく救い起こしてくれるだろう。
 それを心から確信できたから、勇利は抗いようのない安らぎに身をゆだねたのだった。