認可地区と未認可地区を明確に分ける川。
以前、ファストフードを子どもたちと分け合った土手にバイクを停めたキャットは、車体に寄り掛かった。
漫然と周囲を見渡す。
認可、未認可問わず、街並みに変化はない。
相変わらず認可地区は高層ビルが立ち並び、未認可地区はおんぼろの建物が、せせこましく肩を寄せ合っている。
街は変わらない。
なのにどこか違って見えるのは、自分があの時とは全く異なる立場にいるから、だろうか。
ふ、と視線を横に流せば、認可地区の中でもひときわ大きな、メガロニアドームの影が遠くに見える。
白都の威信をかけ、四年の歳月を経て完成したメガロボクス専用スタジアム。
今夜そこで、大会最後の試合――勇利とジョーの闘いが行われる事になっている。
「…………」
キャットは白いパーカーのポケットに手を突っ込み、中から紙切れを取り出した。
赤を下地にIMAのマークが入ったそれは、今夜の試合のチケットだ。
チャンプとギアレス、どちらも押しも押されもせぬ人気選手の対戦となれば、チケットは販売、即完売。
そのあと転売屋が高値でさばきはじめて、争奪戦は凄まじいの一言だった。
なけなしのツテを辿りに辿って、なんとか確保できたが、一生分の運を使い切った気がする。
結局、通常の三倍近い値段を支払う羽目になったが、その価格に相当する試合になるのは間違いないだろう。
「…………」
じっとそれを見つめ、キャットは浅くため息を漏らした。
す、と指先でずらせば、赤いチケットの下から薄い冊子ともう一枚、紙切れが顔を出す。
作ったばかりの真新しい冊子はパスポート。紙切れは――飛行機のチケットだ。
以前訪れた番外地ジムは、ジョーとサチオしかおらず、寂しい光景だった。
だが、今日は千客万来のようだ。
土手から見下ろせば、リングではジョーがスパーリング中。その周囲で、大人や子どもたちがわいわいと楽し気に観戦している。
「――よお。今日はずいぶん、賑やかなんだな」
キャットは坂を降りながら、声をかけた。
「あっ、キャット!」
「おう。久しぶりだな」
「キャット? 誰だよ、お前らの知り合いか」
サチオ、ジョーがこちらに手を振り、もう一人、片目に包帯を巻いた男が、こちらに顔を向けた。
これが『おっちゃん』だろうか。検討をつけて、キャットは軽く頭を下げた。
「元メガロボクサーのキャットです。ジョーとサチオとはちょいちょい顔合わせてます」
「メガロボクサー? んっ? 女……だよな!?」
「彼女は
……どうも、アラガキだ」
驚いたように声を上げる彼(南部というのか)に、リング上でジョーの相手をしていた男が説明し、声をかけてきたので、キャットは笑い返した。
「よろしく。あんたのラストファイト見たよ、アラガキさん。胸が熱くなるいい試合だった」
「ああ、ありがとう」
「で? 今日は何の用だよ。まさかここまで来て、勇利の勝利宣言しにきたわけじゃねぇだろ」
ロープにもたれたジョーが問いかけてくる。
その言葉には何の裏表もないし、事情を知らないのだから、胸に痛みを覚えるのは、こちらの勝手な都合だ。
引きつりそうになる顔を、何とか笑みにとどめて、
「…………いや。もういまさら、どっちが勝つとか負けるとか、外野がごちゃごちゃ言うのも野暮かと思ってさ。
今日はただ、あんたに頼みたくて」
「頼み? 何だ」
うん、とキャットはパーカーのポケットに手を入れた。
ぎゅっとチケットを握りしめたのは、自分を鼓舞するためだ。息を吸い込み、
「あのさ。今日勇利と、本気で、真剣に、試合をやってくれ」
そう告げた。
すると皆が、はぁ? という顔で首をかしげる。――当然の反応だ。
全て見て知っているわけではないが、ジョーはずっと本気で真剣に、勇利のリングに上がるために闘ってきたのだろうと思う。
生身でギアのパンチを受け続け、痣だらけの血だらけになりながら、それでも歯を食いしばって耐えてきたのだろうと思う。
だからこんな事を、部外者の自分からわざわざ言われる筋合いはない。
――だが、言わずにはいられない。
「あんたが全力でぶつかってくれれば、きっと勇利も全力で応えてくれる。
勇利も、本気で、真剣に、あんたと向き合ってくれる。その時やっと、心からメガロボクスを楽しめると思うんだ。
だから頼むよ、ジョー。今日の試合、掛け値なしの本気でやってくれ」
「キャット……?」
何でわざわざと言いたげに、サチオがこちらへ眼差しを向けてくる。
だがキャットは他の誰も見ず、ジョーだけを見据える。その視線を受けたジョーは、黙ったまま瞬きをした。
そしてロープから身を起こし、
「……当然だ。こっちは遊びでやってんじゃねぇ。
訝し気に眉根を寄せる。
「あんた、何でそんな念押しに来たんだ?
対戦相手に構ってる暇があるなら、チャンプの面倒でも見てりゃいいじゃねぇか」
「…………うん。そうだな」
自分がトレーナーとして試合を控えた勇利を支え、リングインする時にはセコンドとしてサポートする。
そんな未来があればと夢見ていた事を思い出して、また胸が痛んだ。
こちらの事情など、ジョー達には無関係だ。くだくだしく説明するつもりはない。
ただ、と彼の強い視線を避けるように目を伏せて、
「ただ、伝えたかっただけだ。今日の試合、楽しみにしてるってさ。……それだけだよ」
「……本当にそれだけか?」
「!」
不意に脇から声がかかって顔を向けると、南部がこちらへ真っすぐ顔を向けていた。
包帯と反対側の目も眼帯をはめているから、視界はふさがっている。
そのはずなのだが、見えない眼がこちらを見据えているようで、妙に迫力がある。
「……何だよ?」
つい身を引いてしまう。
南部はこつこつ、と杖をついてこちらへ歩み寄ってきて、
「俺は今日初めて会ったが。あんた、何か心配ごとでもあるんじゃねぇのか」
無造作に核心をついてきたので、思わず息を飲んだ。まずい、とすぐに気を取り直して笑う。
「なんだ、あんた占い師か何かか?
次はこの壺があれば不安なんて吹っ飛ぶ、なんて始めるんじゃないだろうな」
茶化したが、相手は首を左右に振った。
「声ってのは正直なもんでな。
目がこうなってから俺は、声の調子でそいつの気分を聞き分けられるようになった。
あんたの声は初めて聴くが、最初っからどうにも不安そうに聞こえる。
相談事があるから、ジョー達に会いに来たんじゃねぇかと思ってよ、違うか?」
あてずっぽうにしては、的を射た事を言う。思わず言葉に詰まると、
「……そうなのか? キャット。また恋愛相談か?」
「恋愛相談? 何だそりゃ、よりによってジョーに相談するこっちゃねぇだろ」
「よりによってとはどういう意味だよ、おっさん。そんなの聞いてみなきゃ分かんねぇだろ」
「まぁ、ジョーが恋愛ごとに得意なようには見えないな」
「おいアラガキ、あんたが言うなよ!」
わいわいと勝手に盛り上がり始めてしまう。仲が良いのは結構だが、人を肴にしないでほしい。
キャットは慌てて、
「そ、そうじゃねぇよ! ただ、その……なんだ、ジョーと勇利のファンとして、どっちも応援してるってそう言いたかっただけだ!」
声を張り上げた。と、ざわめきがぴたりとおさまって、
「なーんだ、またおっちゃんのはったりか。適当な事いうからキャットが困ってんじゃねぇか」
「あ!? 待てよ、こいつぁはったりじゃねぇよ!
俺ぁ確かに……」
「あー分かった分かった、落ち着けよおっさん」
続いてまたひと悶着、始まってしまう。
(……なるほど、これがチーム番外地か)
楽し気に語らう彼らはいかにも和気あいあいとしていて、チーム白都のプロフェッショナル然とした空気とは全く違った雰囲気を作り出していた。
これがギアレス・ジョーと彼を支えるチーム。
とてもいい雰囲気だ。誰も気負いが無くて、満たされている感じがする。
もし自分が白都ではなくどこか他所へ入ろうと思ったら、こんなジムを選んだかもしれない。
そう思うくらいに、居心地の良さを感じる。
「……じゃあ、自分はいくよ。試合、見に行くからな」
注目が自分からそれたのを潮に、キャットは別れを告げた。
「おう、後でな」
「またなーキャット!」
ジョーとサチオの声を背中に受けて、バイクへ足を向け――
そして、離れた川べりで一人、試合のチケットとパスポートを見下ろしている。
(……今日、二人の試合を見届けたら、ここを出よう)
そう決めてから急いでパスポートを作り、飛行機のチケットを確保した。
行先は適当だ。
持っていく荷物は数日分の着替えと、いくばくかの金銭くらいで、後は現地調達で何とかする。
英語が通じる国だから、とりあえず片言と身振り手振りで通じるだろう。
当面の宿と日雇いの仕事でも見つけられたら、後はどうにでもなる。
(ここにいたら、自分は本当にいつか、勇利の元へ戻っちまう)
この間、バロウズとジョーの試合で彼を見た時、強く確信した。
自分は結局どうあっても、勇利が特別な存在で、どうしても傍に居たいと思ってしまうのだ。
どれほど嫌われても、軽蔑されても。
自分の存在が彼の迷惑になると分かっていても。
それでも姿を目にしたら、何も考えずに駆け寄ってしまいそうになる。
勇利が自分を拒んでくれるのならいい。
けれど彼は、受け入れてくれるかもしれない。
あの人は本当に優しいから、事情を聞いてそれは大変だったなと労わり、また傍に置いてくれるかもしれない。
(だけど、それじゃ駄目なんだ)
自分に断ち切れない過去――藤巻という脅威がある限り、いつキングに牙を向けるか分からない。
だから、絶対に勇利と鉢合わせない場所……国外へ行こうと決めた。
メガロボクスも、もう見ない。
グローブやシューズは部屋に置いてきたし、今日を最後に試合観戦もやめる。
何もかも完全に捨て去り、全てを終わりにする。
……そうしようと決めていた、のに。
(……自分の為に、闘え)
バロウズ戦の時に聞いた、サチオの言葉が蘇る。
あれから何度もそのフレーズが頭をよぎるのは、引っ掛かりを覚えているから、だろうか。
(自分は藤巻と闘った。勇利の為、というのもあったけど、あれは自分の為でもあった)
藤巻という呪縛をたたきつぶそうと、ギアを身に着けて決死の覚悟で挑んだあの時、自分は確かに闘っていた。
だが――いま、試合と飛行機のチケットを両方持つ自分は、何をしているのだろう。
(いま、自分は闘ってるのか?)
チケットを持つ親指に力が入り、端が縒れる。
(これは闘ってるのか? ……逃げてるだけ、じゃないのか?)
勇利に迷惑をかけたくないから、というのなら、試合を見ずにさっさと国外へ脱出すればいい。
都合のいい建前だけいくつも用意して、その実、彼と向き合う事から逃避しているだけではないか。
(……分からない)
自分は一体、何をしたいのか。
勇利に告白されて、悩んでこの土手に来た時と同じだ。自分で自分の気持ちが、分からない。
分からないまま、キャットはきつく目を閉じ、気をそらすように、川を吹き抜ける風の音に耳を澄ませた。
勝負の時は、すぐそこに迫っている――そして自分が決断を下す時もまた、刻々と近づきつつあった。