晴れやかに澄み渡る空を仰いで、周囲の森から漂う清かな空気を吸い込めば、気分まで爽やかになるような日。
だが、いま自分がいるのは、風が滞留する薄暗い地下室だ。
最低限の設備を整えはしたとはいえ、所詮は急ごしらえ。充分とはいえない。
出来ればもっと良い環境で、自分一人ではなく、熟練したアシスタントが数名欲しい。
しかし、事情がそれを許さないのだから仕方ない。樹生は小さくため息を漏らした。
「――勇利、そろそろ始めるぞ」
手術器具を並べ、自身も術衣とマスクを纏って振り返ると、部屋の中央に位置する手術台に腰掛けた男……一体型ギアを晒した勇利がうなずいた。
そのまま横になろうとするので、
「待った。その前に一つ、確認しておきたい」
ふと思い出した事があって、手で制する。何かと目で問いかけてくる彼を見返し、
「……キャットには、この事を知らせたのか?」
念のため、最終確認をする。
勇利は一瞬目を細めた後、いいや、と短く否定した。予想通りの返答で、思わず眉間にしわを寄せてしまう。
「こんな
あいつなら何があっても、お前のそばに居たいと言ってきそうだが」
「あいつは俺の元を去った。伝える必要はない」
(……別れてたのか)
その事に少し驚く。
白都に居た頃は、自分が望むと望まないと限らず、様々な情報が耳に入ってきていた。
その中には、勇利が女を拾って懇意にしている、などという醜聞じみた話もあったから、興味本位で時々、接触していた。
しかし、ここしばらくは樹生自身、ファイナルワンを決める試合に没頭していたので、彼らの近況はまるで知らない。
(今の口ぶりだと、どうやらキャットから離れたようだが……あいつが? 勇利と別れる?)
そんな事は想像の埒外だ。
少し話をしただけでも、彼女がキングに心酔しているのは良く分かった。
勇利を貶した自分に、後さき考えずに殴りかかってこようとするくらい、入れ込んでいたというのに。
「……知らせなくていいのか?
いくら別れたといっても、教えればすぐ、すっ飛んでくるんじゃないか」
余計なお世話かもしれないと思いながら聞けば、勇利は小さく首を振る。
「あいつは白都を辞めて、家を出た。電話も通じない。今どこで何をしているのかは、俺にも分からない」
「そんなもの、その気になればいくらでも、探す手段はあるだろう?」
ゆき子に言えば、白都のNシステムを使えるはずだ。
それがもし駄目でも、キャットが市民IDを持っている限り、追跡はいくらでも可能だ――もちろん、それは正規の手段とは言えないが。
だが、勇利は再び頭を振った。
中途半端に乗せた足を手術台へ上げ、横になりながら言う。
「あいつはそれを望んでいない。望んでいないものを、無理に引きずり出したくはない」
「だが、この状況を後で知る方が、よほど酷だろう。
何度も言うようだが、百パーセント命の保証が出来るような、簡単な手術じゃないんだぞ」
少しは命を預けられるこっちの身にもなれ、と思う。
生身同然に一体化したギアをはがす。そんな大手術をするには、機材も人も足りない。
自身で何とか出来ると判断したから引き受けたものの、これで失敗すれば、勇利を悼む女がもう一人、増えてしまう。
今でさえ、ゆき子の悲嘆を思うと胸が痛むのに、この上さらに女の涙を見るのはごめんだ。
そんなこちらの不安を見越したように、勇利はふっと口の端を上げた。
「百パーセントの保証など、この世に存在しない。
だが、俺はお前の腕を信頼している。怖くはないんだろう?
樹生」
「……お前のそういうところは、本当に質が悪いと思うぞ」
誰も信じないと言うようにてっぺんから睥睨しているかと思えば、不意に思いがけないほど強く相手への気持ちを吐露するから、勇利と語るのは時折、心臓に悪い。
予想外に大きい信頼を寄せられているのだと知って、樹生は苦笑した。
患者の顔に麻酔のマスクをかぶせながら、
「そんな挑発をされたんじゃ、失敗するわけにもいかないな。約束は出来ないが、全力は尽くすよ。
その後、ジョーと闘えるようになるかどうかは、お前の気力と体力次第だ、勇利」
念を押すと、彼はマスク越しに静かに言う。
「俺はジョーと闘う。
俺自身が何よりもそれを望んでいる。そしてあいつも……シャルも同じく望んでいた」
シャルというのは誰か、と問うのも野暮だ。
それがあいつの本名かと察して、樹生は黙って麻酔ガスの注入を始めた。
少しずつ増していくガスに眠気を誘われて、ふっと瞼を下ろした勇利が、
「……俺は、俺の闘いを……あいつに……見せる、だけだ……」
こちらにというより、自分自身に言い聞かせるように呟き、そのまますっと眠りに落ちた。
「…………」
ガスが充分いきわたるまで待ちながら、樹生は勇利の端正な、それでいてどこか柔らかな、初めて目にする表情を見下ろした。
絶対王者、勇利。
今や白都の代名詞ともいえる一体型ギアを身に着けた、無敗のチャンピオン。
かつてあれほど憎み、蔑み、自身の全てを賭けたAIギアで上回ってみせると、命を削って目指した男。
それが今は、この化け物じみたギアを外せと自分に申し出ている。予想外の事態に、つい苦笑いをしてしまった。
(皮肉なものだな。……人生、何が起きるか分からない)
自分を駆り立てていた、正体の知れない焦燥感はもはや霧散し、跡形もない。
あれほど固執した白都を捨てて、山中で隠遁生活をする未来など、白都樹生は想像したこともなかった。
そしてそれはきっと、勇利も同じだろう。
過酷な実験とリハビリとトレーニングを何年も積み重ね、もはや生身と変わりないほど自分のものとしたギアを、捨てるなど。
しかも樹生に言われるまで、因縁があった事すら忘れていたような、地下から成り上がってきた男相手に、メガロニアの決勝で対峙しようなどと、少し前まで考えもしなかったに違いない。
(この世は素晴らしい。戦う価値がある、か。全くだな)
昔読んだ本の一文が頭をよぎり、ふっと微笑が漏れる。
たとえ無様に見えても。
何もかも失ったように見えても。
ままならない現実に抗い、あがき、闘い続けることには、きっと意味がある。
自分は白都を捨てる事でそれに気づいた。
勇利はギアレス・ジョーと出会い、その闘いにこそ意味を見出した。
そしておそらく、キャット――あの小さな子猫との出会いにも、大きな価値を見つけたに違いない。
(それなら、ここで俺が道を閉ざすわけにはいかないな)
ガスを止め、深い眠りの中にある勇利の傍に立ち、樹生は深呼吸をする。
そして電気メスに手を伸ばし、たった一人で、長い闘いへと挑み始めたのだった。