その日、藤巻は場末のバーで人を待っていた。
今にも崩れ落ちそうな薄汚い店は、彼の好みではないが、たまにふらりと訪れる。昔まだここが流行っていた頃、よく足を運んだからだ。
まだ何者でもない若造だった自分には、ここの安酒が分相応で、浴びるほど飲んで悪酔いした思い出もある。
(思い出に浸るほど、年老いちゃいないが)
たまにこの陳腐な味を思い出し、気紛れにやってくるのだ。
しかし昨日今日と連日、ここに腰を落ち着けているのは、昔を懐かしんでの事ではない。
以前たまたま鉢合わせした昔の知り合いと、人に聞かれては都合の悪い話をするため、貸し切りにしていた。
(……そろそろだな)
壁にかかった時計の針は十一時に差し掛かろうとしている。
約束の時間まであと数分。
これで来ないようなら、話し合いは決裂だ。
彼女があくまでもチャンプに操立てし、藤巻の意向に従わないというのであれば、彼らの蜜月は終わりを告げる。
(哀れなもんだな。憧れたヒーローの為に破滅する女ってのは)
皮肉げに口の端をあげた時、店のドアが派手な軋みを立てた。
肩越しに視線をやれば、屈強な男二人の間に小柄な女――今はキャットと名乗っている彼の元養い子が、店内に入ってくるところだった。
(来たか)
ならばここからは、彼が配ったカードでゲームが始まる。
藤巻が前へ視線を戻すと、キャットは名前のように猫じみたしなやかさで、音もなく隣に座した。
「時間は守ったようだな。
一杯飲むか……といいたいところだが、昨日みたいな飲み方をされちゃあ、酒が可哀想だ。さっそく商談といくか」
「……」
女はミリタリージャケットのポケットに両手を入れたまま、背中を丸め、カウンターへ視線を落としている。
ナイフでも忍ばせているのだろうか、と藤巻は微笑した。野良猫の儚い抵抗を嗤いながら、それで、とせっつく。
「どうするか、腹は決まったか」
「………………ああ」
長い間を置いた後、キャットは顎をあげた。
何もない空中をしばし眺め、それから深く息を吸い込み、緩やかに顔を向ける。
そこで、こいつ、と藤巻は眉をあげた。
こちらを見据える女の顔からは血の気が引き、顎は固く食い縛っている。
だが、目……それこそ口ほどにものを言う、常に隠しようもなく感情を露呈するその目には、動揺も怒りもない。
それどころか、凪いだ海のように静かで、なにも写し出さない。そこにあるのは静謐な決意だけだ。
――これは、すでにカードを切ったやつの目だ。
藤巻がそう悟るのと同時に、
「勇利とは別れた」
女は手札を惜しげもなく晒した。
ポケットに手を入れたまま、どうと言う事もないように続ける。
「だからあんたがいくら自分の過去を暴露しようがどうしようが、意味がない」
「それでこっちの手をつぶしたつもりか」
瞬きもせずキャットの視線を受け止めながら、藤巻は薄く笑う。
「突然別れたいと言われて、チャンプは納得したのか?
出来ねぇよな。突然、理由も分からないまま、甘い恋人の時間を終わりにしようっていうんだ。納得できるはずもねぇ」
「…………」
「お前がいくら覚悟を決めたとしても、チャンプは未練たらたらだろう。あれは間違いだった、やっぱりこれまで通りでと復縁を持ち掛ければ、戻らない手はない」
「……戻る気はない」
「お前にその気がなくとも、俺がそうしろと言っている。
……聞き分けのない悪ガキに、仕置きはいるか?」
藤巻の言葉に反応して、入り口を守っていた男たちがこちらへ近づき、キャットの背後に立つ。
その気になれば、いつでも襲い掛かれる距離まで迫った時、
「…………」
ふ、と小さな笑いが聞こえた気がして、藤巻は眉を上げた。
それまで緊張して能面のようになっていたキャットの顔に、いつの間にか微笑がうかんでいる。
目を伏せ、彼女は言う。
「あんたがどれだけ自分を痛めつけようが、こき使おうが、もう思い通りにはならない。
あんた、大事なこと忘れてないか」
「何?」
「――勇利は、キング・オブ・キングスは、白都コンツェルンの『財産』だ。
メガロニアなんて大プロジェクトを前にして、余計なトラブルに巻き込まれないように、いつも神経をとがらせてる。
それなのにチャンプ自ら、地下闘技場に乗り込むなんて真似をしたんだ。白都の
「……なるほど。そっちに手を回したって事か」
キャットが言わんとする事を理解して、藤巻は足を組んだ。
彼女の言う通り、勇利はチーム白都所属のボクサーとして、全面的なバックアップを受けている。
当然、公私にわたってチャンプの身辺には注意を払っているだろうし、もし彼の恋人が、メガロニアプロジェクトの障害となりうるのであれば、排除もやむなしと判断するだろう。
――つまり、キャットは藤巻から脅しを受けた事を、白都側に打ち明けた上で、勇利の保護を頼んだのだ。
いくら未認可地区で顔がきくとはいえ、天下の白都コンツェルン相手では、さすがの藤巻も手が出せない。
「やってくれるじゃねぇか、キャット。せっかくの美味いシノギが台無しだ」
無敗のチャンピオンをもこちらの懐に招き入れる絶好のチャンスと考えていたのだが……あてが外れた。
自身も小さく笑いながら言うと、女は笑みを消して冷ややかに見返す。
「金稼ぎがしたいのなら、
川向うの先まで手を伸ばすのは強欲ってもんだろ」
「ずいぶん生意気を言うようになったじゃねぇか。
商売の機会があれば、食いつくのが金貸しの性ってもんだ。
てめぇの手駒がでかい魚を釣り上げたとあっちゃ、使わない手はねぇ」
「……自分はあんたの手駒じゃない」
「これまではな。
……一人でのこのこやってきて、俺の顔をつぶして、それで大手を振って帰れると思ったのか?
覚悟はしてきたんだろう」
一度逃げ出した人間を優しく出迎えてやる情など、持ち合わせていない。
まして彼の提案をこんな形で踏みにじるのであれば、報いを与えるのは当然だ。
藤巻の意図を汲んだ男たちがずいと踏み出し、彼女の細い肩を掴む――いや、掴もうとした時。
不意にキャットの体が消え、次の瞬間、骨の砕ける音が響いた。
「!」
息を飲んだのは、その不気味な音に驚いたからではない。細く小さな拳を、男の腹に深々と突き刺したキャットが、
「ふっ!」
床すれすれまで身をかがめたかと思うと、ばねのように跳ねあがって、体を二つ折りにした男の顎に、痛烈なアッパーを叩きこんだからだ。
「ぐはっ!!」
鼻と口から血をまき散らして後ろにのけぞるそれに驚き、硬直したもう一人のボディーガードに、キャットは素早く肉薄した。
一人目がどう、と床に倒れ込む音と共に、今度はキドニーに一発。
不恰好に体をゆがめた男の鼻面に拳を叩きこみ、ついで鞭のようにしなるフックをテンプルに放った。
「ぎっ……!!」
体格では一回りも二回りも勝る男たちが、折り重なるようにして倒れた。
泡を吹いて白目で伸びる連中を見下ろし、肩で息をしながらキャットがぷらぷらと、テーピングをした手を振っている。
グローブも無しにパンチを繰り出したからか――いや。
「……キャット。上着を脱いでみせろ」
椅子に座したまま身じろぎもせず、藤巻はそう命じた。
彼女はちらりと見やり、特に反抗する事もなく、羽織っていたジャケットを脱いだ。
小柄な体には少々大きく見えた上着の下から現れたのは、背中から肩、腕にかけてにまとわりつく金属の塊。
――
「白都の忘れ形見を、パワー重視に改良したか。それじゃあ体への負担も相当だろう、
かつてメガロボクサーとして公式試合に出ていた時に使っていたものと見て取り、藤巻は酷薄に嗤った。
対してキャットは笑わない。息を整え、こちらに向き直り、両の拳を構えて、
「自分が欲しけりゃ好きにすればいい。その代わり、こっちも好きにさせてもらう。
これで死んでも、野良猫が一匹いなくなるだけだしな」
ごく平坦な声で、気負いも何もなく言い放ったので、藤巻は目を細めた。
――ああ、これはいけねぇ。腹ぁ括った奴は使い物にならない。
言葉のナイフも、弱みに付け込んだ脅しも、直接的な暴力も、すべては相手に感情がなければ意味をなさない。
怯え、恐怖、怒り……形は何でもいい、その人間が持つ感情の揺れを逆手に取って、掌で弄んで、限界まで奪い続けるのが彼の手だ。
ほとんどの人間はどれほど虚勢を張ろうと、実際に死や喪失を眼前につきつければ、心が折れてしまうものだ。
だが、今のキャットは駄目だ。
揺れるものがない。
ここで死ねば、あれほど敬愛したチャンプに看取られる事なく無駄死にするだけだというのに、何の怯えもない。
そうなるのが自然とでも言いたげなほど、死を受け入れてしまっている。
仮に今、藤巻にねじ伏せられたとしても、彼女は悲鳴一つあげず、舌をかみ切るだろう。
(それほど入れ込んだか)
この女がメガロボクスにどれだけ憧れていたか、チャンプにどれだけ心酔していたかは十分把握していた。
だがそれは、抑圧された子どもが見る夢のようなもので、実体を伴っていなかった。
生身の人間は、彼女が思い描いていたように完璧な存在ではない。いずれ幻滅して、夢も覚めるものだと思っていた。
それがまさか――死ぬほど怯えていた自分に対して、命がけで牙をむくほどに惚れこむとは。
(……これが親離れ、って奴か?)
ファイティングポーズを保ったまま、藤巻を見据えるキャットを見返して、ふとよぎった考えに笑いがこぼれた。
親と子、今までそんな風に考えた事など一度もなかったというのに、どうしたものか。
思わずくっくっくっ、と肩を震わせてしまうのは、自分の中に親心のような、陳腐な感情がまだ残っていた事への嘲笑だ。
「……良い動きだ、野良猫。引退は惜しいな、まだ現役でやれそうじゃないか」
グラスを取って褒め言葉を口にすると、キャットは眉を寄せた。
ふと気が抜けたというように、どういうつもりなのかと言いたげな表情は、昔通りに素直過ぎる。
まだ笑いの名残を残した口調で、藤巻は軽く手を振った。
「ナイスファイトに免じて、今日は見逃してやる――チャンプともどもな」
「……本気か」
「本気だ。気が変わらない内にとっとと失せろ。俺は今、少しばかり気分が良くなった」
キングの八百長は美味い稼ぎを逃したとは思うが、まず
大きなシノギはいま、別件で動いている。
女を使ったハニートラップはその片手間にあわよくば程度だったので、実はさほどに惜しくはない。
「…………」
そんな藤巻の胸中は読めないキャットは、しばらく身構えたままでいたが、やがて上着を羽織り、倒れたままの男たちをまたいで出口へと向かった。
もう二度とここへは来ない、と書いてありそうな背中を見送りながら、
「……だがなぁ、キャット」
藤巻は最後に、含み笑いで語りかけた。
「一度味わった禁断の果実は、そう忘れられるもんじゃない。
お前はいずれ、チャンプの元へ舞い戻り、すがりつく事になるだろうよ。その時が来れば――」
「そんな時は来ない。二度言わせるなよ、
背を向けたままぴしゃりと言い放ち、彼女は店を出て行った。
ぎい、ぎいと耳障りな音を立てる扉から目を離し、
「……そいつはどうかな。お前の性根はよく分かってるぜ、キャット」
それは呪いであり、予言でもあるのだと、もはや声の届かぬ彼女に向けて、藤巻は嘯いたのだった。
その日、ゆき子は自宅のリビングで、時ならぬ訪問者と対面していた。
「――では、あなたは白都を辞め、勇利とも別れると。そう言うことですか」
夜中の訪問は穏やかでないと構えていたが、申し出の内容はそれどころではない。
白い封筒……退職届が置かれたテーブルを挟み、向かい側のソファーに腰を下ろしたキャットに確認すると、
「はい。オーナーが許してくれるのなら、今日を限りに退職したいと思ってます」
落ち着いた様子で答える。
改まった話だからか、今日は終始敬語で受け答えしているのだが、常日頃、素直に感情を表す彼女にしては、冷静に過ぎる。
その態度にゆき子は、不穏さを感じずにはいられなかった。眉を潜め、
「何も言わずに辞めさせてくれと言うのは、よほど職場に不満があるという事ですか。退職理由は?」
問いかけると、キャットは目を伏せた。
軽く肩をすくめ、
「自分にはこっちの水が合わなかった、というだけです。
馴染んだ振りをしても結局、ここは自分がいるべき場所ではなかったんです」
「……勇利と何かあった、という訳ではないのですか?」
プライベートにどこまで踏み込んでいいものか、と迷いながら問いを重ねる。
注視していたわけではないが、はた目に勇利とキャットの交際は順調なように思えた。
ゆき子からすれば、ずっと共に夢を目指してきた同志が取られてしまったような、子どもじみた感傷を、ひそかに覚えなくもなかった。
が、キャットと話しているときの勇利の穏やかな表情で、彼が心から満足しているのは見てとれたから、余計な口出しはすまいと決めていたのだ。
しかし、こと男女の話となれば、外からでは分からないこともある。
もしや二人が深刻な仲たがいをしたのかと危ぶんだが、
「これは自分の個人的な事情によるもので、勇利とは何もありません」
彼女は首を横に振り、だからこそ、続ける。
「……明日、いや、もう日付が変わってるから今日ですね。今日、勇利に別れ話をしたら、消えるつもりです。
あっちにしてみれば寝耳に水だろうから、多分自分を探そうとするでしょう」
足の間で手を組み、静かに続ける。
「そうしたら前のように、白都のNシステムを使わせてくれと、あなたに頼みに来るかもしれない。もし勇利が来たら、断ってほしいんです」
「……その為に来たのね」
その言葉でゆき子はようやく、深夜の訪問に合点がいった。
ただ会社を辞めるだけなら、自分にわざわざ告げる必要はない。
退職届を郵送して、姿をくらませればいいだけだ。
だが以前、キャットが失踪した時、勇利はゆき子へ追跡システムの使用を願い出た。
本来個人の探索に用いるべきではないが、社長から許可をもらえば、多少の無理は通ると知っているからだ。
そしてその前例があればこそ、彼女は夜中の対面を申し出て、釘を刺してきた――すなわち、彼に自分の行方を知られないために。
「……なぜ、そこまでして逃げようとするの。
何か困っているというのなら、それこそ勇利に相談すべきでは?」
常に冷静沈着な彼が、血相を変えて探し回るのが目に見えるようで、胸が痛んだ。
出来るものなら、そんな姿は見たくない。少しでも彼女の決意を翻す手がかりはないかと水を向けると、
「…………」
キャットは一度目を閉じ、開いた。そして身を起こして真っすぐにこちらを見据え、
「――自分は、未認可地区で育ちました」
穏やかな口調で語り始める。
「親に捨てられて、窮屈な孤児院を飛び出し、いつ死ぬか分からないような、ひどい暮らしをしました。
子どもが飢え死にしようが何をしようが、あの街で注意を払う奴なんていない。
自分がいたところは特に治安が悪かったので、死体なんて見慣れたもので、誰も注意を払わないくらい当たり前でした」
「…………」
「自分がいつそのうちの一つになっても、おかしくなかった。そうならなかったのは……たまたま、人に拾われたからでした」
拾われた、と言ったくだりで、キャットの目の下あたりがひきつった。苦々しく笑いながら、
「命を救われたという意味で、その男は確かに恩人でした。
でも、そいつは聖人でも何でもない。
自分が与えたら、その対価に相手の全てを奪うような、悪党中の悪党で――未認可地区の顔役だったんです」
「……そういう存在については、耳にした事があるわ。
白都の中でも、繋がりを持っていた者がいたから」
自分が社長に就任した際、そういった悪辣な連中は徹底的に洗って叩きだしたが、未認可地区はいまだ、薄暗い存在をちらつかせている。
「でしょうね、奴らはどこにでも潜んでる。
川向うじゃなおさら、誰も逆らえない。何も出来ない子どもの時はそいつに従うしかなかった。
だけど自分は、もうそんな生活がいい加減いやになって、逃げ出したんです。
その後は路上暮らしで楽じゃあなかったけど、あいつの下にいるよりは全然ましだった。
あんな奴とは、もう二度と関わらない。
どんなに苦しい生活でもそう決めていたし、勇利と
これで昔の事なんて思い出さずに済む……と、思ってたんですが」
「その男がまた、あなたの前に現れた、というわけね」
この流れでいけば、うすうす事情が見えてくる。ゆき子が言えば、キャットは小さくうなずいた。
「そいつは、地下賭博を仕切ってる金貸しなんです。
八百長も死人も何でもあり、貧乏人がその日の憂さを晴らすために作られた違法の地下闘技場……っていえば、心当たりがあるでしょう」
「! まさか、勇利がギアレス・ジョーに会いに行ったのが、そこだというの?」
勇利の奇行や、違法賭博場について報告を聞いていたとはいえ、キャットの事情と絡んでいるとは思わず、ゆき子はつい声のトーンを上げてしまった。
相手はまた首肯する。
「……自分の注意が足りなくて。
あのとき勇利と一緒にいるところを見られて、尻尾をつかまれたんです。
そして脅迫されました――自分の後ろ暗い過去をばらされたくなければ、チャンプにいかさまをさせろと。
あいつは勇利をまともに試合が出来ないような状態にしろと、そう命じてきました」
ゆき子は息を飲み、視線を鋭くさせた。そんな事は、と咄嗟に言い返す。
「そんな事は許しません。
勇利は、無敗のチャンピオン、本物のメガロボクスの体現者、キング・オブ・キングスなのよ。リング外からの横やりに屈するなんて、絶対にありえないわ」
「……ええ。自分も、そう思いますよ」
キャットは静かに答えて、背もたれに寄り掛かった。
苦々しい笑みは消え、また最初の落ち着いた顔で言う。
「今日の夜、そいつと会って、返事をすることになってます。
自分は、断ります。それ以外の選択肢がないから。
ただ、出来ないと断って、それなら仕方ないと簡単にあきらめるような相手じゃない。
自分を使って、勇利を脅すような真似をするかもしれません」
「それなら、」
手を出される前にこちらから打って出ればいい。そんな男は、叩けば埃がいくらでも出るだろう。
理由をつけて拘束してしまえば、と言いかけた時、
「――だから、そうならないように。あなたに勇利を守ってもらいたいんです」
キャットが言った。穏やかな笑みを浮かべ、何の気負いもなく。
「……勇利を守る、ですって?」
意味をとらえかねて、ゆき子は目を瞬いた。
白都が勇利を守るのは今更、彼女に言われるまでもない。なぜわざわざそんな事をと困惑するこちらに、キャットは続ける。
「あの男は、未認可地区では絶大な権力を持っています。
でも、白都コンツェルンに真っ向から喧嘩を売るほど、命知らずじゃない。
白都の財産ともいえる勇利にちょっかいをかければ、自分たちの身が危うくなるのも分かってるはずです」
息を吸って、キャットは続ける。
「あなたが守ってくれれば、あの男は指一本、キングに触れられない。
わざわざ念を押すようですが、今までにも増して、勇利の身辺に注意を払ってほしい。
今日頼みたかったのは、この事なんです」
「……それは……あらかじめ警告を与えてくれるのは、有難いけれど」
けれど、とゆき子は眉根を寄せた。
彼女は勇利を案じ、身を守ってくれと頼んできている。
それはいい。事情が事情なのだから、より一層の配慮が必要だと感じる。
だが、勇利はともかく、
「……あなたは、どうするつもりなの? その男に会って、脅迫を断れば――」
二度と関わらないと決めた場所へ、引きずり戻されるかもしれない。
それどころか、その場で殺される可能性だってあるのではないか。
言葉にすることが躊躇われて、唇を噛むゆき子に、
「自分の事は、自分で始末をつけます。その為にもう一つ、お願いが」
彼女は、しゅっと音を立てて羽織っていたジャケットをはだけた。何を、と視線を上げて、思わず目を瞠る。
「それは……あなたのギア?」
思わず言葉に詰まったのは、キャットが公式試合で使っていたものを、身にまとっていたからだった。
選手を引退してから後、小柄な彼女に合わせたこのギアは、他に使い手が居ないまま、白都のジムに保管されていたはずだが。
「これを少し貸してもらいたいんです。後で盗難届でも何でも、出しておいてください。
無事に返せるかどうかは、分からない」
再びジャケットの前をしめて、キャットが微笑む。
その言葉を反芻して、ゆき子は言葉を失った。
(返せるかどうか分からないという事は、自分が無事でいられるかどうか、という意味なの)
彼女は死をも覚悟して、未認可地区の顔役に会いに行こうとしている。
妙に落ち着いているのは、ここへ来る前に、もう決意を固めてしまっているからなのか。
「……どうして」
長い沈黙を挟んだ後、ゆき子は呟いた。キャットの目を見つめ返して、問いかける。
「どうして、そこまでするの。あなた一人で全てを背負う必要なんてないでしょう。
……勇利が、悲しむわ」
「…………」
そこで初めて、彼女は辛そうに顔をゆがめた。迷うように目を伏せ、言葉を探して視線を揺らした後、
「…………自分はただ、勇利がメガロニアで闘う姿を見たかっただけです」
聞き取りにくいほど小さな声で囁く。
「勇利が、心の底からメガロボクスを楽しんで、心の底から本気で闘う、そんな姿を見たいとずっと思ってました。
それがようやく叶うかもしれないって時に、自分が足を引っ張るなんて、耐えられない」
顔を上げたキャットは、笑っている。
……本当に、何の拘泥もなく、清々しいほど爽やかに笑っている。
「泥水をすすって生きてきた過去をばらされるのは、別にどうでもいいんです。
それを知ったあの人が自分を嫌いになるなら、それは当たり前だから、構わない。
そうなったら、元の生活に戻るだけです。
でも……自分のせいで、勇利があんな奴に目をつけられるのは嫌だ。
あいつを近づけたくない。それだけは、絶対に、本当に嫌だ。
勇利のメガロニアを――こんな形で、汚したくない」
すっ、とキャットがソファーから立つ。
こちらを見下ろす彼女を見上げれば、相手はもう笑みさえ浮かべていなかった。
凪いだ海のように静かな目で、柔らかくこちらを見つめ、
「あなたなら、きっと一番それを分かってくれる。
……そう思ったから来たんだ、ゆき子さん。後は、よろしく頼みます」
思いを託して満足したのか、そのままソファを離れ、ドアへと足を運ぶ。
ゆき子は急いで立ち上がったが、
(……駄目。止められない)
制止の言葉が喉の奥に詰まった。
確かに自分は今、キャットの気持ちに共感している。
メガロニアに、一体型ギアに、勇利に、ゆき子は夢の全てを賭けてきた。
その集大成がようやく実を結ぼうと言う時に、泥を塗るような真似は許せない。
未認可地区の顔役が、勇利に害を与えようとするなら、白都の総力をあげて対抗する。そして、その男が足がかりに使おうとしているキャットが、自ら身を引こうとしているのなら――
天秤のどちらを選ぶか、問うまでもなかった。
勇利なら、彼女を止めるだろう。
だが自分は……彼女を切り捨てる方を選ぶ。
選んで、しまう。
それが自分、白都ゆき子という女だ。
「……キャット」
自分の酷薄さに胸を刺されたがごとく痛みを覚えて、ゆき子はかすれ声で彼女を呼ぶ。
ドアノブに手をかけたキャットが、わずかに視線を寄越したのを見つめた。
「……最後に、勇利に伝言は、ないのですか」
せめて傷心を慰める何かはないかと、すがるような気持ちで尋ねる。
彼女はかすかに目を細め、それからにこっ、と笑って言った。
それなら、こう伝えてください。
さようなら。どうか、自分の事は忘れてほしい――と。