コール・トゥ・エンド

 その日、勇利がシャルの無断欠勤を知ったのは、昼近くになってからだった。
「勇利、キャットがどこにいるか知らないか? 連絡なしに休んでるんだが」
「……いや」
 ジムのトレーナーに聞かれて首を振った勇利は、一人になってから彼女に電話をかける。
 ――出ない。何度かけても、出ない。
(シャル。……どうした)
 普段ならほぼワンコールで出るし、そもそもシャルは無断欠勤などしない。
 それをしたのは一度だけ――医者に病気を告げられた、あの時だけだ。
「…………」
 ふ、と不安が胸をよぎる。携帯電話を持ったまま歩き出した時、
「!」
 不意に手が震えたので、即座に応答した。電話を耳に当てると、
『勇利。今いいか』
 シャルの声がすぐに聞こえてくる。
「……ああ、大丈夫だ」
 周囲に人目がない事を確認してから応じる。
 彼女の声のトーンはあの時のように落ちていなかったので、少しほっとする。壁に背を預け、
「シャル、どこにいる。体調でも悪いのか」
 尋ねたが、返事がない。
 間を置いて、勇利、とシャルがもう一度呟いた。それはとても穏やかな声音で、
『勇利。――別れよう』
 続く言葉はすでに決定事項のごとく、断定的に響いた。

「…………何の話だ」
 あまりにも唐突な提案に、思考が停止した。
 声を出せたのは、息苦しくなるほどの沈黙を挟んでからだ。
 低く問いかけると、シャルは落ち着いた調子で答える。
『別れようと言ってるんだ。鍵はさっき送ったから、明日には家に届いてると思う』
「……本気で言ってるのか」
 冗談にしては質が悪い、と語気を強めた勇利に、
『嘘や冗談でこんな事、言うわけないだろ。本気だ』
 彼女はあくまでも冷静だ。
 電話を握る手に力がこもった。理由を、と呟く。
「理由を聞かせてくれ。俺は、お前に何かしたのか」
『勇利が? いや、あんたは何もしてないよ。するわけないじゃないか』
「……なら、なぜだ。何かあったのか」
 自分との交際を続けられない理由があるのか。問題なら二人で解決すれば、と思ったのだが、
『何も。ただ、自分はやっぱり勇利に釣り合わないんだと悟っただけだよ』
 シャルの答えはそっけない。
『自分みたいな底辺の人間と、キング・オブ・キングスなんて、最初から無理があったんだ。だから、別れた方がいいと思ってさ』
「釣り合わないと勝手に決めるな。俺はお前を底辺の人間だと思った事は、一度もない」
 むしろ、彼女は気高い人間だと思っていた。
 劣悪な環境の中、叶わぬ望みを抱えながらもくじけず、自分にすがりついてまで、夢をつかみ取ろうとした。
 そのために日々努力を惜しまず、一心不乱に打ち込んでいた。
 そして病気で続けられなくなっても真摯に向き合い、小さな体で闘い続けてきた。
 その姿をずっと見てきたのだから、底辺の人間などと思うはずもない。
 保護者と被保護者のような感覚は未だ付きまとっているにせよ、勇利はシャルと対等な人間関係を築いてきたつもりだった。
 だが――彼女はそれを、否定する。
『そんな風に言ってくれて嬉しいよ、勇利。ありがとう。でも、もう決めたんだ』
「……今、どこにいる。会って話したい」
 話しながら、勇利は足早に歩きだした。
 こんな深刻な話を、電話で済ますべきではない。
 会って、目を見て、互いが納得できるまで話し合うべきだ。
 けれど彼女は、小さく笑うだけだ。
『勇利、重く考えすぎるなよ。こんな別れ話なんて、よくあるだろ? そんな特別な事じゃない』
「シャル」
『何も変わらないよ。ただ、前の状態に戻るだけだ。
 あんたはキング・オブ・キングスに。自分はそのファンって形にさ』
「シャル!!」
 語気鋭く名を呼ぶと、かすかに息を飲む音が聞こえた。
 初めて伝わってきた動揺の気配に、会話のとっかかりを見つけたように思えたが、
『――メガロニア応援してるからな、勇利。
 今までありがとう。一緒に居られて、夢みたいに楽しかったよ』
 微笑んでいる表情が見えるような優しい声で、柔らかく別れを告げ――そして、電話は切れた。

 勇利は午後のトレーニングを放り出し、シャルを探し回った。
 ジムにはいない。ラボにも、食堂にもいない。
 社内で立ち寄りそうな場所を巡っても、誰も彼女を見ていなかった。
 会社には来ていないと悟り、勇利は車を出して、シャルの自宅へ向かう。
 ベルを鳴らし、ドアを叩いても返事はなく、以前貰った鍵で中に入ったが、部屋はきちんと片付けられ、ベッドにもどこにも、家主がいた気配がまるでない。
 バイクも見当たらないとなると、どこか他所へ行っているのだろう。
(前と同じだ)
 以前もこんなことがあった。それなら以前と同じ手を使う。
 思い立って勇利は会社へ戻り、都合を聞くより先に、社長室へと歩を進めた。
 ずかずかと無遠慮に踏み込んできた彼に、
「勇利さん、どうしました。社長はこれからミーティングが……」
 社長の傍にいた朝本が驚きの声を上げる。だが、それをゆき子が制した。
「少し時間をちょうだい。すぐに終わるから」
「社長、ですが……、いえ、分かりました。終わりましたら、お声がけ下さい」
 ゆき子とこちらを見比べ、彼女は頭を下げて退室する。
 扉が閉まる音を聞きながら、勇利はデスクの前に立った。
「突然すみません、オーナー。頼みがあります」
 自分がどれほど不作法な事をしているか百も承知で、以前シャルが失踪した時のように、自動車追跡装置Nシステムを使わせてもらえないかと打診するつもりだった。
 だが、それを口にする前に、
「キャットに関する事であれば、あなたの頼みをきくわけにはいきません」
 ゆき子が静かな口調で告げたので、息を飲んだ。
 無茶を通そうとしているのは、分かっている。
 警察の捜査にも使用される追跡装置を、個人の探索に使おうとするのは望ましくはないから、オーナーが渋るのは当然だ。
 だが……いま彼女は、何といった。システムを使う事ではなく、シャルに関わる全てを、拒絶しなかったか。
「……何故です」
 理由を尋ねる。
 彼女とオーナーが、格別仲が悪かったという話は聞いていない。
 いや、もし不仲だったとしても、ゆき子は個人的な感情で物事を判断するような人間ではない。
 シャルの身に何かあって緊急事態だというのなら、ましてめったに要望を口にしない自分からの頼みであれば、以前そうしたように聞き入れてくれるはずだ。
 なのに何故、と掠れた声で聞くと、オーナーは引き出しを開け、
「…………昨日、彼女がこれを渡しに来ました」
 す、と封筒を机の上に置いた。白い紙面には、シャルの字でこう書かれている――退職届。
「……っ」
 がん、と頭を殴られたような衝撃を受け、勇利はめまいがした。
 何故、と繰り返し呟いたのは、事実に思考が追いつかないからだ。
 しかしこれを社長に提出したという事は……シャルは白都から、自分から、本気で離れようとしている。
「……あいつは……あなたに、会ったのですか」
 くらくらする頭を押さえて尋ねると、ゆき子は小さくうなずいた。
「昨夜遅く、彼女から至急の話があると連絡が入りました。
 明日にしてはと言いましたが、どうしても今すぐでなければ駄目だと。
 あまりにも切羽詰まっている様子だったので、家に呼んだところ、辞意を伝えてきました」
「……理由は。なぜ辞めたいのか、理由を言っていましたか」
「ええ。でもそれは、彼女個人の事情です。私の口からあなたに言うわけにはいきません」
「っ、オーナー!」
 焦燥に喉を焼かれ、つい声を荒げた。
 だがゆき子は、眉一つ動かさない。
 彼の動揺などとうに見越した、冷静な眼差しでこちらを見上げ、
「私はこれをその場で受理しました。
 今は事務方で手続きをしているはずですが、ともあれキャットは、もう白都とは無関係です。
 たとえあなたの頼みであっても、社員でもない人間を探すために、手を尽くすつもりはありません。
 そもそも、彼女自身がそれを望んでいないのですから」
「シャルが……あいつが、そう言っていたのですか」
「そうです。
 自分がいなくなったら、勇利は以前のように、会社のシステムを使って探そうとするかもしれない。
 もしあなたがそれを頼みに来たら、断ってほしいと。そう言われました」
「……」
 ではこれは、一時の感情から出た突発的な行動ではなく、本当に覚悟の失踪なのだ。
 勇利はようやく理解し、絶句した。
(それなら……俺には、何も出来ない)
 あの時のように、シャルが失意の底にいて身動き出来ずにいるのなら、何を置いても救いに行くだろう。
 だが、彼女自身が勇利を拒んでいる、
 探し出す事さえ厭うのであれば……自分は、その願いを受け入れざるを得ないではないか。
「…………オーナー」
 胸に沸き起こる冷たく熱い感情に翻弄されながら、勇利は声を発した。
 下がった視線を緩やかに上げ、ゆき子のゆるぎない目を見つめ返し、
「あいつは、何か言っていましたか。
 俺に伝言は……ありませんか」
 まるで子どもが親にねだるような、どこか遠くへ響いているような、心もとない調子で尋ねる。
 ゆき子は長いまつげを伏せ、机上で軽く拳を握りしめた後、
「……最後に、あなたへ伝言がないのか尋ねたら、彼女はこう伝えてほしいと言っていました」

 ――さようなら。どうか、自分の事は忘れてほしい、と。

 社長室を辞した勇利は、視線を落したまま歩き出した。
 行先は無い。トレーニングをしなければならないと頭の片隅で考えてはいたが、もうそんな気になれなかった。
 全身がけだるく、手中に収めた携帯電話が妙に重く感じられる。
『勇利。――別れよう』
『嘘や冗談でこんな事、言うわけないだろ。本気だ』
『自分みたいな底辺の人間と、キング・オブ・キングスなんて、最初から無理があったんだ。だから、別れた方がいいと思ってさ』
『そんな風に言ってくれて嬉しいよ、勇利。ありがとう。でも、もう決めたんだ』
 頭をめぐるのは彼女の声だけだ。
 優しい、それでいて断固とした拒絶の言葉が胸を切り裂いて、思考がまとまらない。勇利は足を止めた。
(何故だ。昨日まで、何も変わりなかったのに)
 突然突き付けられた別れが、どうしても納得できない。
 できないのに、彼女はもう二度と自分の前に戻ってくるつもりはないのだと察せられて、息が詰まりそうになる。
『何も、変わらない。前の状態に戻るだけだ。
 あんたはキング・オブ・キングスに。自分はそのファンって形にさ』
(……変わらないわけが、あるか)
 自分はもう、彼女を……キャットを、キトゥンを、シャーロットを、シャルを知っている。
 彼女と出会い、彼女を知り、彼女をこの腕に抱いて、どれほど愛しいと思っているかを知ってしまった。
 それを今更、忘れられるわけがない。
「…………っ」
 力を込めたその手の内で、携帯電話がぎしり、と悲鳴のような音を立ててきしみ、歪んでいくのを感じながら――勇利はきつく目を閉じて、呻く事しか出来なかった。