暗中に咲く

 半分残っていた光は失われ、すべては闇に閉ざされた。
 半分の闇にはずいぶん慣れていたから、すべての闇にもすぐ慣れるだろうと高をくくっていたが、大違いだ。
 何しろなにも見えないものだから、どこへ行くにも手探りのすり足で、油断すればすぐにけつまずいて転んでしまう。半分でも光があるのとないのとではこんなに違うものか、と実感すると同時に、日々の生活は困難になった。
 だが、それも少しずつ慣れる。
 杖をつき、手で周囲を探り、耳で音を拾い、においをかいで、声で周囲とコミュニケーションを取れば、たいがいのことはどうにかなった。
 これなら大丈夫だ。俺はまだやれる。あいつの為にしてやれることがある。
 そう確信できた頃、あの男に連絡を取った。
 音の悪い通信機越しでも、相手の穏やかな声は耳によく響く。頼みごとを口にすると、驚いたように息を飲んだ後、少し待ってくれ、と間があった。
 向こう側でアラガキ、と呼びかける声がして、何事か話し合っている気配がする。
 さすがにそれを聞き取るのは難しかったが、ほどなくして、了解の返事が返ってくる。
「助かるよ、ミヤギさん。それじゃあ足労かけて悪いが、こっちのジムに来てくれないか。待ってるからよ」
『ああ、もちろんだ。では明日、アラガキと一緒に向かうよ』
 歓迎するような弾んだ声が響き、通信が終わる。これで大丈夫だ。太いため息を漏らし、目を閉じる――いや、もう目はない。ここにあるのは闇だ。闇しかない。それなら、目を閉じる手間も、省けるというものだ。

「南部……さん。その目……」
 次の日。病院を無理言って退院し、チーム番外地のジムへ出向き、ミヤギとアラガキを迎えた。
 名前を呼びかけたアラガキの声が、上調子から下がって、驚きの色を帯びる。
 へへ、と意味もなく笑って、かいがいしく付きまとう子供たちと杖を頼りに、声の方へと歩を進めた。
「無理言って悪いな、アラガキ。俺がこの調子だからよ、ジョーの面倒を十分に見られなくなっちまったんだ」
「それは……いえ、むしろ望むところです。
 あいつや南部さんの力になれるのなら、喜んで。ですが……」
「……この目の事なら、気にするな。昔のドッグレースみたいに、下手をうっちまってな。てめぇのケツをてめぇで持っただけの事よ」
 静かに、何の気負いもなく伝えると、アラガキは黙った。長く沈黙が落ち、アラガキ、とミヤギが柔らかく名を呼ぶと、かすかに鼻をすする音を耳が拾い上げる。
 泣いているのか、と思ったら、少しおかしくなった。これではいつかの時と反対だ。
 死んだと思っていたアラガキが目の前に現れた時、自分はその再会に感謝し、ぐずぐずと自分の喜びに浸ってしまった。アラガキがその時どんな思いで自分の隣にいたのか、その顔を見る事もせずに。
 今も、顔は見えない。
 だがその心の動きは、手に取るように分かる。自分と同じように体の一部を失ったかつての師を、心から心配し、その不運を悲しんでいるのだろうと。
「……アラガキ」
 歩を進め、手を伸ばして、アラガキの腕に触れる。
 かつてのように、いやそれ以上に厚い腕の筋肉が、服の上からでも分かる。死に物狂いで獲得した今のアラガキの姿を、見えずとも手に刻み付けた。
「アラガキ。俺の代わりにあいつを助けてやってくれ。お前になら、安心して預けられるぜ」
 心からの思いを込めて告げると、アラガキはこちらの手に自分の手を重ねて、ぐっと握りしめてきた。
「……ええ、もちろん……もちろんです。今度こそ、あなたに恩返しをさせてください、南部さん。あいつの、明日のために」
 明日のために。その言葉を聞くと胸が締め付けられ、こっちまで湿っぽい気分になってしまう。それをごまかすようにへへへ、とまた笑って腕を叩いた。
「ああ。頼んだぜ、アラガキ。……明日のために、な」

 半分残っていた光は失われ、すべては闇に閉ざされた。
 だが、その闇の中には、今まで見つける事の出来なかった光が確かに見える。決して消える事のない、偽りではなく、本物の光が。
 ゆえに南部贋作はまっすぐ前を見据え、リングへと向かう。
 一歩一歩、のろくとも確実に、自分の足で近づいていく――己の夢の全てを賭けた、あの男のもとへ、いかさまもはったりも迷いもなく、暗中にあってもすこぶる晴れやかな気持ちで。

アラガキはやっぱりショックだったと思う。