蛇は冠をかぶり、蠍は毒に溺れる

 ドランク・モンクの闘技場は薄汚れ、酒と煙草と欲の悪臭がこびりついて離れない。毎夜繰り広げられる負け犬どもの狂騒は日が昇るとともにお開きとなり、後に残るのは、びりびりに破れたチケットと、酔っぱらいどもの吐しゃ物くらいなものだ。
 無人の会場、耳が痛くなるほどの静寂の中、扉を押し開けた藤巻は、ゆっくりと歩き出した。
 床に散らばるごみを避けて歩を進め、短い木の階段を上り、ロープをくぐってリングに立つ。
 ひでぇもんだ、と呟いたのは、リングの整備がまるでなってなかったからだ。
 誰かが撒き散らした血の跡がまだ残って、黒ずみになっている。会場は勿論、リングの掃除はきちんとやれと命じておいたはずだが、今日はまだ手入れがなっていないらしい。
 ……おそらく、昨夜のメガロニアに皆が皆かじりついて観戦し、ギアレス・ジョーの勝利に快哉を上げたからか。
(とんだ負け戦になったな)
 八百長が失敗した為、藤巻は大損害を被った。
 洒落にならない金額の大きさからして、各方面から責任の追及が聞こえてきている。
 それらへの対応は現状部下が行っているが、遠からず藤巻自身が出張る必要があるだろう。下手をすれば詰め腹を切らされる可能性もある。
 だが、それについてはさほどの痛痒も感じない。
 面倒だと思いはしても、乗り切れる自信はある。これまで何度も直面してきた危機を思えば、大したことではない。
 しかし、今日は何かが違う。普段めったに気持ちの浮沈のない自分が、砂を噛むような思いを抱えている。有り体に言えば、落ち込んでいる。
「……メガロニア、か」
 小さく呟き、顔を上げる。
 目に映るのはうら寂れた地下のリング――ではなく。大観衆で埋め尽くされたスタジアムの中央、目がくらむほどのライトに照らし出された、真新しいリングだ。
 そこに立つのは、選ばれた勝者のみ。己の肉体とギアを武器に、ただ一つの頂点を目指して、しのぎを削る戦場。
「……」
 藤巻はすっと腰を落とし、腕を上げた。ガードを固め、足を前後にずらし、眼前に敵のシャドウを見据えて、
「……ふっ!」
 鋭く息を吐くと同時に、拳を突き出す。
 びゅっと風を切る音を立てて、指輪が金の軌跡を描き、影へと吸い込まれた。ジャブ、フック、ウェービングから懐に飛び込んでのアッパー、そして素早く距離を取る。
(所詮、ただの殴り合いだ)
 素早いフットワークをこなして影の攻撃を避けながら、毒づく。
 藤巻にしてみれば、メガロボクスはただのシノギにすぎない。
 他に何の取り柄もなく、技術やプライドも持ち合わせていない地下ボクサーたちは血反吐を吐くまで、阿呆のように殴り合い、それに熱狂の歓声を上げる客どもは、懐の金を吐き出す。
 理性を奪う野蛮なスポーツは、金貸しにはもってこいの獲物。リングさえ用意すれば、後は勝手に噛みつき合う連中を使って、いくらでも稼げる美味い商売だ。
(こんなものに何の意味がある)
 汗が飛び散る。顔の近くで拳を固めた時、不意に影が揺らめいたように思えて目を瞬き――ついで息を飲む。
(ジャンクドック!)
 影は、その男になった。
 ギアを脱ぎ捨て、ぼろぼろの生身でふらつきながら、その目は退くことを知らない。凛と輝く瞳が真っ向から藤巻を見据え、大きく振りかぶってそのパンチを繰りだそうとするに至って、
『立て! 立つんだ、ジョー!!』
「――っ!」
 藤巻は力任せにストレートを放ち、その横面に叩きつけた。だが、相手のパンチも自分の顔へ吸い込まれるように入り――
「……はっ……はっ……」
 気づいた時には、汗を滴らせて、リングの中央で立ち尽くしている。突き出した腕も、パンチを食らったはずの顔も、どこにも痛みはない……当然だが。
「……」
 呼吸を整えながら、藤巻は構えをといた。ぐ、と自分の拳を握りしめ、眉をひそめる。
 動悸がするのは、らしくもなく体を動かしたからだ。息が荒く、喉が乾くのもそのせいだ。単なる生理現象にすぎないとわかっているのに、
(――胸が、灼ける)
 ずしりと重い何かが押し込まれたように、息苦しさを感じる。
 爪が食い込むほどに拳を固め、指の隙間から赤い血が流れはじめてもなお、解くことが出来ない。
(リングに立つなんて、とうに諦めたはずじゃなかったのか)
 ここは自分の場所ではないと背を向け、高みの見物と称して遠ざけてきたリングに、なぜわざわざ上がってしまったのか。なぜこうも胸が熱く、灼けるように痛むのか――
(……俺は、ギアレス・ジョーに妬いているのか)
 自身に問いかける。リングの上で誰よりも自由に踊るあの男に嫉妬しているのか。否、とすぐに答えは返った。
(俺は、南部贋作の描いた夢に、嫉妬している)
 それはこの三ヶ月の間、自身の中でもやのように漂い続けた感情だった。
 かつての名トレーナーは、借金と酒にまみれて地に落ちた。恥も外聞もなく、嘘泣きと薄っぺらな言い訳で金を無心する、哀れで惨めなクズに成り下がった。
 その姿を藤巻は何の感慨もなく見据え、冷淡に言葉のナイフで弄び、容赦なく奪い続けた。
 この調子ではいずれ飼い犬にも愛想を尽かされ、首が回らなくなって、その命を差し出す末路しかないだろうと思っていた。
 だが、あの日――例えはったりであっても、メガロニアへ行くと吠えた南部贋作の目には、生きた光があった。
 それが、藤巻によって追い込まれたがゆえ、死にものぐるいで噛みついてきたネズミの儚い抵抗であったにしても。藤巻は、わずかながらも喜びを感じている自分を意識した。
(あんたの夢がどこまで通じるか。見せてくれよ、南部さん)
 九割はメガロニアというでかいシノギのためであったにしても、残りの一割に、そんな思いがあったのは、確かだ。
 自分は、見てみたかったのだ。南部贋作という男が、どこまで夢という毒に侵されるか――そして、その毒で飼い犬ごと更なる地獄の底へ沈んでいく様を。
(だが……まさか蠍が自分を刺すとはな)
 リングから見上げる。ドランク・モンクの狭い会場にはあり得ない、高い位置へと視線をあげたのは、メガロニアスタジアムのあの部屋を幻視したからだ。
『立て、立つんだ、ジョー!!』
 渾身の檄を飛ばす南部の背中を、藤巻は見ていた。ギアレス・ジョーはリングからその顔を見ていただろう。イヤホンから耳に突き刺さったあの声を、ジョーはどんな思いで受け止めただろうか。
(……嫉妬、か)
 肩から落ちた上着を拾い、藤巻は自嘲の笑いを漏らす。
 あの時、この胸には確かに、嫉妬の感情がこみ上げた。
 リングに立って、思うがまま、自由に戦うジョーに。
 そして、誰よりもまっすぐにジョーを信じ、夢に賭け、その為に己をも犠牲にした、南部贋作という男に。
(目が曇っていたのは俺の方か)
 臆病でケチでこびへつらう事しか出来ない野郎と見誤った自身をあざける。たった一つ残った男の希望をも奪うつもりでいたのに、まさか自ら抉り、そのまま差し出してこようとは思わなかった。
「……本性は変わらねぇな、南部さん」
 あの男の本性は蠍。己の性で、仲間をも巻き添えに川底へ沈んでいく愚かな蠍と信じていたのに、
(あんたの本性は、そっちだったって事か)
 南部贋作は、本物のトレーナーに立ち返った。もはやあの男は蠍ではなく、夢の毒をも飲み干す、一匹の獣になり上がったのだ。彼はもう、藤巻には決して届かぬ領域に達している。
「……は、嗤わせやがる」
 もう一度同じ台詞と共に唾を吐き捨て、藤巻はリングを降りた。そして己の日常へ、血と暴力と金にまみれた世界へと戻っていく――その胸中に灼けつくような嫉妬と憧憬を抱え、この期に及んで青臭い感情を持て余す自身を嘲笑いながら。

藤巻さんがかつて現役ボクサーの南部さんに憧れて、自分もボクサーを目指すも断念した…という前提で。
勇利とジョー、藤巻さんと南部さんが対の相手として描かれてる印象を持っていて、11話で勇利が「嫉妬」というワードを口にしたので、もしかしたら、藤巻さんの南部さんに対する気持ちの根底は、嫉妬があるんじゃないかと思った次第です。