その声をさいごに

※ねつ造過多注意※
藤巻さんに長年従ってた部下が裏切って、藤巻さんに殺される話。妄想に妄想を重ねてる感じなのでお気を付けください。

『――かれは知っていた。目の前の娘に口づけを与え、己の語りようのないほどのビジョンと娘のはかない吐息を契らせてしまえば、もはや、かれの精神は神の精神のようには飛び回ることができなくなるのだ。(中略)唇がふれたとたん、ギャツビーの胸中におけるデイジーはみごとに花開き、生身の存在であることをやめたのだ』

 腹を押さえた手の間から、押さえきれないほどに血があふれ、こぼれ落ちていく。
 なすすべもなく地面に血の跡を残しながら、壁を伝い、足を引きずりながら、少しでも前へ、前へと進んでいく。
(――は。下手くそ、どもが)
 朦朧とする意識の中で罵倒したのは、彼に銃口を向けた連中だった。
 死にものぐるいで引き金を引くのなら、相手を確実に殺さなければ、意味がない。標的の体中に穴を開けるだけ開けておいて、肝心の急所をはずすとは何事か。おかげでこっちは死に損ない、余分な殺しをするはめになった。
 息がある限り、何が何でも生きる。
 それは彼が長年身を置いてきた裏社会で胸に刻んだ誓いだった。
 命がある限り、ぎりぎりまで生きあがき、少しでも、ほんのわずかでも爪痕を残す。それが彼の矜持であり、彼が信じたものへの誓いだった。
 だが、それも終わりが近づいている。
 がっ、と何かにけつまずき、みっともなく地面に転がる。一度倒れてしまえば、もう起きあがることは出来ない。
 せめて少しでも前へ、と腕を動かそうとしても、全身の血を吸って重たくなったスーツが、まとわりついて動きを邪魔する。
(ここまで、か)
 諦めたくはない。だが視界はぶれて、がんがんと頭痛と寒気がする。この体はもう生きているのが辛いと叫んでいる。大人しく命を手放してしまえ、と死の抱擁を与えようとしている。
(前へ。前へ)
 これではまるで、海に向かうレミングのようだ。ただ前進する事だけを思い、爪を地面に立て、せめて後少し、と力を入れようとしたとき、
「――そこでしまいだ」
 上方から、声が降ってきた。そして指先に、こつ、と靴先が当たる。
 それが誰なのかは、見上げて確認するまでもない。
 は、と笑いが漏れたのは、恐ろしさからか、喜びからか分からないまま、うめきと共に吐き出す。
「……藤、巻」
 長く仕えた男の名を呼び捨てにしていいのは、自分だけだ。
 藤巻、とすがるように呼ぶと、男は間を置いて、静かに膝を折った。髪がつかまれ、ぐいと持ち上げられた視界には、何の感情もない、そこいらの虫けらを見るようなまなざしの藤巻が映る。
「――みっともねぇと思わないのか。そんなざまで逃げ回って」
「……仕方、ねぇさ。小僧どもに、やれるほど、安くねぇ、タマだ。……起こして、くれねぇか。藤巻」
 一蹴されてもおかしくない願いは、しかし何の拒絶もなく叶った。
 藤巻は脱力した重たい体を持ち上げ、壁にもたれかけさせてくれる。もう少し息が続くのなら、煙草もねだるところだが、今は話をしたい気分だ。藤巻、と呼びかける。
「……あんたを、探してたんだ。あんたのところへ、行こうと、思って」
「今更、命乞いか?」
「は……今更、命を、惜しむか。あんたを、裏切った時点で、覚悟は、してた」
 裏切りの言い訳など、するつもりはない。
 藤巻への忠誠心は今も変わらず、ただ、血を分けた実の娘が、敵対勢力に拉致され、盾にされて、どうしようもなくなったという、どこにでもある話。
 こうなった以上、娘は死ぬだろう。自分も死ぬ。犬死にだ。それはもう仕方がない。もとより命乞いなどするつもりはないし、自分が死ぬなら娘が死ぬのも悲しくはない。
 ただ――惜しむものが二つだけ。
 その二つを叶えたくて、前へ前へと愚直に突き進んできた。藤巻、と呼びかける。
「……あいつら、下手くそでな。おかげで、このざまだ。だから、藤巻。――あんたが、始末を、つけてくれ」
「そんな義理はねぇな。このまま放っておけば、てめぇは死ぬ」
 冷然とした口調で述べるのは事実だ。確かに義理はない。
 だが、頼むよ藤巻、と鉛のように重い右腕を持ち上げて、相手の左肩に置く。
「お前を、探して、ここまで、来たんだ。……なぁ、頼むよ、藤巻。長年、連れ添った、よしみで、よ」
「…………」
 目を伏せた藤巻が、やがてゆっくりと前へ体を傾けた。身を寄せ、こちらの肩口に顔を沈め、その表情が見えなくなった時――ぐ、と焼けた鉄のように熱い塊が胸に突き刺さり、柄まで深々と沈みこみ、ぐり、と円を描いてえぐってくる。
「――――!!!!」
 灼熱の痛みで意識が飛びかけ、藤巻の肩を力任せに掴む。だが激痛はすぐに去った。
 全身の力が抜けていき、頭痛も、寒気も、何もかもが消え始める。
 藤巻、と呼びかける――呼びかけようとして、ごふ、と大量の血を吐いた。血は藤巻の肩から背中にかけてに飛び散る。ああ、上等なスーツを台無しにしちまった、とぼんやり思いながら、藤巻、と囁く。
「……の、話……聞かせて、くれよ……」
「……話?」
 ナイフを突き立てたまま、藤巻が呟く。ああそうさ、とその肩の上でかすかに指を動かして言葉を返す。
「……途中……だったろ……あの、話だ……」
「……あれか。聞きたいのか」
「…………ああ……俺ぁ……お前の、話を……聞くのが……」
 好きでな。その言葉は形にならずに消えていく。だが、伝わりはしたのだろう。藤巻が静かに、穏やかに語り始める。

 ――それはある男の話だ。
 どこにでもいるような物静かな語り手の前に現れたその男は、容姿端麗、金に恵まれ、精力にあふれ、人々を引き付ける魅力の持ち主。男は着飾った社交界の連中を次々と呼びよせ、この世の憂いなど何一つ知らぬとばかりに目もくらむような豪奢な暮らしを満喫している。
 だが、男の過去は謎に包まれている。
 生まれついての金持ちでもなさそうなのに、どこで浴びるほどの金を手に入れたのか、その端正な顔に時折落ちる影の意味は何なのか。
 語り手は好奇心に駆られ、男と親しくなり、少しずつその謎に迫り――そして、男が抱える傷が、かつて失った恋ゆえと知る。
 男は愛し合いながら、心ならずも失った女を取り戻そうと、後ろ暗い金と地位を手に入れ、女の元へ現れた。
 だが、女はすでに他の男と結婚している。再び愛し合う、すなわち不倫の関係を持つようにはなるが、彼女は現在を捨てることを拒んだ。
 夫に別れを告げて自分と結婚して欲しいという男の申し出は受け入れられないのだ。
 それを嘆く男と語り手は、こう話し合う――

「――ぼくだったらそんなに多くは求めないけどな。ぼくは思い切って言った」
 藤巻が朗々と謳う。短い話というわけでもないのに、そらで読み上げられるほど覚えているのがこの男らしいと、スーツの厚い肩に血がしみこんでいくのを、ぼんやり見つめながら思う。
「過去はくりかえせないよ。過去はくりかえせない? ギャツビーは疑わしげに叫んだ」
 そこで、間がある。息を吐くほどの短い間を置いて、藤巻は続けた。
「……何を言うのです、勿論くりかえせますよ。私は何もかもを以前と同じ状態に直すつもりです。あのひとも分かってくれることでしょう」
(ああ。そうなりゃ、どんなにいいか)
 もはや目は何も見えず、体の感覚も遠い。藤巻の語る声も遠く近くに聞こえて判然としない。
 だが、その台詞だけはハッキリ聞こえた。
 まだ力が残っていたのなら、きっと自分は口の端を上げて笑っただろう。
 過去をもし繰り返せるのなら、自分はまたこの男と出会い、従い、どこまでも共にあっただろう。
 もしやり直せるのなら、今度は血のつながった娘すら、非情に見捨てて、この男のために生きただろう。
 手ずからとどめを刺され、死に瀕してよりいっそう、この男がどれほど自分にとってかけがえのないものなのかを理解してしまう。
 ゆえに、己の愚かさを嗤い、声にならない声を発する。

 ――ああ、何で俺はここにいるんだろうな、藤巻。

 それは喉から抜ける、すきま風のような頼りない音にしかならず……やがて全ては無に帰し、男は息を引き取った。

 差し込む月光だけを唯一の灯りに、藤巻はグラスを手に、書斎の窓辺に立っていた。
 見るとはなしに、カーテン越しに浮かぶ月を眺めて酒を口に運んでいたが、それが空になったのを潮に、そろそろ寝るかときびすを返す。
 と、一冊の本が目に留まる。
 机上へ無造作に投げ出されたそれは、何度も読み返した証に薄汚れ、折り返しがついて、端が破けている。
「…………」
 藤巻はそれを手にした。表紙に書かれたタイトルを読み上げるまでもない。ついこの間まで、人にせがまれるまま朗読していた作品だと分かっている。
「……何が楽しかったんだかな」
 なぜこの本を読んで欲しいと望んだのかは分からない。
 自分が何度も手にしていたから、気にかかったのかもしれない。
 いざ朗読してやれば、意味が分からない、何て退屈な話だと、居眠りまでする始末だったというのに、
(最期に聞きたがったのは、どういうわけだ)
 その理由は、もはや聞くことも叶わない。聞きたいとも思わない。
 藤巻は本を持ち上げ、そのまま屑籠に投げ込んだ。
 そして振り返りもせず、部屋を出ていく――もう二度とそれを読み返す事はないだろうという予感が、全く無意味で無駄な感傷に過ぎないのだと、自分自身冷たくあざ笑いながら。

F・スコット・フィッツジェラルド『グレイト・ギャツビー』(青空文庫)より引用