アット・ザ・ビギニング

 ――その日、キャットは未認可地区の某所を訪れていた。
 斜めに崩れた看板の酒場は、廃墟のようでいて、一応はまだ営業の灯りをともしている。
 古い木戸を押せば、油の切れた蝶番が大きなきしみを立てて、無遠慮に来訪者の存在を知らしめた。
 それを押しのけて一歩足を踏み入れると、アルコールと煙草とすえた臭いがむっと押し寄せてきて、思わず鼻の頭にしわが寄る。
 おまけに、じろりと向けられたいくつもの視線が、警戒から野卑な好奇心へ、すぐに色を変えた。
 床板をきしませて中へ進めば、からかうような口笛が追いかけてくる。
(ここも変わらないな)
 それらを無視して、キャットは店の奥のカウンターに腰を下ろした。
 バーテンダーは無関心な一瞥を与えて、注文は、とそっけなく尋ねてくる。
「バーボン、ロックで」
 昼日中に酒飲むのも贅沢だな、と思いながら適当な銘柄を注文すると、背後で笑いが起きた。
 同時にぬ、と男が現れ、
「嬢ちゃん、ちっちゃいなりして無理すんなよ。そんな濃いの飲んで平気か?」
 無遠慮に隣へ座り、ニヤニヤ笑いながら絡んできた。
「…………」
 相手にしたところで無駄なので、顔さえ向けずにカウンターに頬杖をつく。相手はそれで懲りるどころか、
「濃いのが欲しいのなら、ミルクを頼んだらどうだ?
 俺のおごりだ、むせるほど濃いのをたんまり飲ませてやっても良いぜ」
「…………」
 仲間たちがげらげら笑い出すのをBGMに、汗くさい体でずいっと近づいてきたので、さすがに辟易する。
(こういう奴、どこにでもいるな。さすがに認可地区の方が、まだお上品だったけど)
 相手をするのも面倒だが、調子に乗って体を触ってきそうだ。うんざりして、追い払おうと口を開いた時、
「――珍しい顔がいるな」
 不意に落ち着いた声が割り込んできて、緩んでいたその場の空気がびしりと緊張した。
 カツ、カツと音高くソールを鳴らしながら、男が店に入ってくる。
 黒のシャツに、一目で仕立ての良さが分かる深い緑のスーツベスト、差し色の赤いネクタイと、洒落た服に包んだ体は上背があり、肩が大きく張って胸板も厚い。
 その恵まれた体格もさることながら、周囲を見渡すまなざしは、それまではしゃいでいた連中の頭へ氷水をかけるように、冷然としている。
 しん、と静まりかえった酒場の中、悠然と歩を進め、怯えて逃げ出した男が座っていた場所……すなわち、キャットの隣に腰を下ろした男は、
「バーボン。いつものだ」
 注文を口にする。その、こめかみに傷のある横顔を見上げ、
「……藤巻……さん」
 キャットが名前を口にすると、男――未認可地区の金貸しにして顔役、藤巻がふっと口の端をあげた。
「少しは礼儀を覚えたらしいな。昔はいくらいっても、呼び捨てにしてきたが」
「……何であんたがここに。こんなところ、絶対来ないと思ったのに」
 げんなりして呻くが、
「俺がどこで何をしようが、俺の勝手だ。人の縄張りに入り込んでるのはお前だろう」
 素っ気ない返事にその通りだ、と頷かざるを得ない。
 じゃあ、とキャットは腰をあげた。
「とっとと退散させてもらう。あんたのツラ拝みに来たんじゃないからな」
 そのまま帰ろうとしたのだが、
「――来たぞ。飲まないのか」
 藤巻がたまたま同じ注文をしたからなのか、バーテンダーが速攻でグラスを二つ、それぞれの前に置く。
「…………」
 出鼻をくじかれた上に、まぁ座れとでも言いたげな藤巻の視線は有無を言わせない。仕方なく座り直した。
 これだけ飲んですぐに出て行こう、と手に取った途端、
「悪ガキのご帰還に、乾杯だ」
 ごつ、と一方的にグラスをぶつけられる。嫌みか、と口が曲がった。
「別に帰ってきたわけじゃねぇ」
「川向こうはよほど居心地がいいらしいな。一時はずいぶん羽振りが良かったじゃないか、野良猫ストレイキャット
「! ……見てたのかよ」
 リングネームで呼ばれて、目を瞬く。からん、と氷を鳴らして、藤巻は軽く頭を傾けた。
「あれほど持て囃されるものなら、地下でお前をリングに上げておけばよかったな。いい商売になった」
「……ルール無用の地下でやってたら、とっくに死んでる。
 そもそも、お前にメガロボクスは無理だと鼻で笑ったのはあんただろう」
「当然だな。いくら客が血に飢えていても、ガキがなぶられるのを見たいわけじゃない。
 そういう連中は余所へいく」
 だろうな、とグラスを傾ける。ぴりぴりした刺激を伴って、熱と化した酒が喉を通り過ぎた。
 味はまぁまぁだが、久しぶりの飲酒はなかなか腹に来る。速攻で空けるわけにもいかないようだ。
 失敗したと少しずつなめつつ、
「あんたでも、商売道具を見誤る事があるんだな。
 ガキをただ同然でこき使ったくらいじゃ、大した稼ぎにならなかったろ」
 嫌みを言えば、きろ、と目を動かした藤巻が、検分するようにこちらの全身を見やり、
「ふ、そもそもお前が女だと初めから知ってれば、別のところで働かせたさ。その方がまだ金になったな」
 と切り返してきた。
(知ってる。だから、男のふりしてたんじゃねぇか)
 見た目でそれと分かるまで、キャットは性別を偽って生きてきた。
 そうしなければ、周りにいた女たちのように、男たちに貪られ、蹂躙されて惨めに死んでいくだけだと分かっていたからだ。
 そのおかげで、ギアさえあれば男と渡り合えるメガロボクスにあれほど傾倒したし、今でも男じみた振る舞いの癖が抜けないのだが。
(……これだから、藤巻こいつに会いたくなかったんだ)
 路頭に迷った自分を拾った事への恩義はともかく、支配者として自分を踏みつけにしてきたこの男と話していると、昔を思い出して嫌な気分になる。
 やはり早々に立ち去るべきだと酒を煽った時、
「――だが、野良猫はリングを下りて、今やただの人だ。
 行く当てもなく、古巣に戻ってきたってわけか」
 空になったグラスを軽く前に押しだし、バーテンに二杯目を催促する藤巻が冷ややかに笑う。
 だから違うっていってんだろ、とつい言葉が荒くなった。
「戻ってきたわけじゃねぇよ。
 今日来たのは、用があったからだ」
「何の用だ」
 あんたに関係ない。
 そう言おうとして、ふと気づいた。
 未認可地区の闇を仕切るこの男は、表裏に限らず数多の情報に通じている。
 自分の用件を片づけるのなら、藤巻ほど適切な相手はいないだろう――素直に答えがもらえるかどうかはともかく。
(駄目でもともと、聞くだけ聞いてみるか)
 キャットはカウンターに両肘をつき、相手の目を見据えた。
 気圧されまいとぐっと拳を握りしめて、問いかける。
「人を探してんだ。藤巻さん、あんた――『JD』ってメガロボクサー、知らないか?」