リトル・ステップ

「はっ、はっ、はっ……は、もうダメだ……!」
 足が限界に達して、がくんと崩れる。
 たまりかねて芝生の上に転がり込み、汗が流れ落ちるに任せて、激しく呼吸を繰り返す。そこへ、
 わん! わんわん!
「うわっ!!」
 灰色の影が勢いよくぶつかってきて、その場に転がされた。
 しかも、ひっくり返った所に犬がのしかかり、嬉しそうにべろんべろんと顔中なめてきたので、
「ちょ、ま、うわっ、待てって……!」
 悲鳴を上げてしまった。いくらこの犬に慣れたといっても、これはさすがにきつい。
 何とか引きはがそうとしたら、
伏せダウン
 低い声が響き、途端に犬が上から降りて、芝生に伏せた。
 よだれでべとべとになって、うへぇと呻きながら顔をあげる。
 そこには、トレーニングウェアのフードをかぶった勇利が足踏みしながらこちらを見下ろしていた。
「そっちもダウンか、キトゥン」
「……です。ごめん……あんたのトレーニング、つき合えって言われたのに……」
「俺はもう二周する。そこで待ってろ」
 そう言いおいて、勇利は再び、公園のランニングコースへ戻っていく。
 ここに来て長時間走り続けているのに、その足取りはまるで乱れがない。
(はー……さすが、キングはタフだ……)
 自分だって、仮にも元選手だ。
 自転車じゃなくとも、もう少しついていけるかと思ったのだが、そもそも歩幅が違いすぎて、一周目から周回遅れにされた。
 キャットは上体を起こすと、持参したペットボトルの水でタオルを濡らした。汗とよだれでべたつく顔を拭きながら、ため息をつく。
(久しぶりのランニングでなまってるのもあるけど……やっぱ、かなわないなぁ)
 少しずつ落ち着いてきた息の合間に水を飲み、ふと横を見ると、犬がまだ律儀に伏せている。
 その目が、コースをぐるりと回る勇利を追っているのを見て取り、
「……お前のご主人様は、凄いなぁ」
 ふさふさの頭に手を置いて、呟く。
 勇利が凄い、なんて事は前から分かっていたはずなのに。
 今になっていっそう実感するのは、彼が神のように超越した存在ではなく、一人の人間だと意識し始めたからだろうか。
 改めて勇利のトレーニングを見てみると、休みを挟みつつ効率的なプログラムを、みっちり組み込んでいる。
 基礎の筋トレやロードワークもしっかり時間を取っていて、地道かつ過酷だ。
(前はトレーニング内容違ってて、一緒に走るなんて無かったから、知らなかった)
 勇利が家から連れてきた犬の散歩もかねた、近くの国立公園での走り込み。
 見習いとして、選手から勉強させてもらえとコーチに言われて着いてきたものの、このていたらく。みっともない。
 せめて戻ってくるまでに、水やタオルの準備をしなければ。
(……それにしても、勇利は目立つな)
 バッグから彼の分を取り出しながら、思う。
 公園を利用する人々はそこかしこにいて、ランナーもちらほら見受けられるのだが、勇利はその中でも特に際だって見える。
 他より抜きんでて背が高いし、無駄な肉がどこにもない、シャープな体は長い手足もあいまって、例え群衆の中にあっても人目を引く。
 今はフードをかぶっているが、あれで顔が見えていたら、すれ違う者は皆、十人中十人振り返るだろう。
 ボクサーでなければ、モデルか何かと勘違いされそうなくらい、整った顔立ちだし。
(つくづく、キング・オブ・キングスの名前がぴったりだな)
 たぐいまれな才能と地道な努力で、富も名声も、何もかもを手に入れた、最強の男。
 テレビで観戦していた時よりも、こうしてそばで見ている方がもっと、勇利の偉大さを感じてしまう。
(なんならもっと天狗になってもよさそうなものなのに、何であんないつも落ち着いてるんだろうな……。
 そういう余裕を持てるとこも、チャンプの器って事なのか)
 そんなことを思いながら、伸びをする。走り込みの疲労は少しまぎれたらしい。
 そのままごろんと芝生に横たわると、青臭い草と土の香りがして、心地が良かった。
 そこへすかさず犬がばふっと腹に顔を乗せてきたので、つい笑ってしまう。
 頭を撫でて、ふかふかした感触の気持ちよさに和みながら、
「お前のご主人様は、本当に凄いよな。やっぱり世界で一番かっこいいよ、勇利は」
 しみじみ呟いた時、
「――俺が、何だって?」
「!!」
 いきなり人の声がしたので、がばっと跳ね起きる。
 慌てて振り返ると、ランニングを終えた勇利が、こちらへ歩み寄ってくるところだった。
「あ……えっと……」
「……?」
 途端、カーッと顔が熱くなり、言葉が詰まってしまった。
 妙な反応をしたせいか、相手は怪訝そうにこちらを見やる。その額からつっと汗が流れて、顎からしたたり落ちるのが見えたので、
「あっ、ゆ、勇利、タオルこれ!」
「ああ」
 慌ててタオルをつきつけると、受け取った勇利は目礼して、汗を拭った。
「ふー……ふー……」
 そしてフードをおろし、深呼吸を繰り返しながら、クールダウンのストレッチを始める。
 柔軟そのものは誰でもやるような内容なのだが、長い手足や引き締まった体がしなやかに伸びる様は、それだけで絵に描いたように美しく見えて、思わず見とれてしまう。
(勇利、綺麗だ)
 そう思った瞬間、転がり出そうになった言葉が舌の上で凍り付いたので、自分で自分に驚いた。
(前なら、勇利はいつもかっこいいな、なんて、すぐ言えたのに)
 そう思ったら何だか落ち着かなくなってきて、目をそらしてしまう。
 もうすっかり息は整ったはずなのに、何でこう胸が急にドキドキしてきて、顔が熱を放つのだろう。
(ダメだ、なんか最近勇利といると、調子がおかしくなる)
 わん! わんわん!
「……分かった、分かった。フリスビーをやるんだな?」
 伏せを解除された犬が嬉しげにじゃれつき、それに答える勇利の声を聞きながら、
(今ぜったい変な顔してる、見られたくない)
 汗を拭くふりをして、タオルを被って顔を隠す。
 妙に高鳴る胸の鼓動はまだ収まる気配がなく、頬に汗がにじんできた気がする。