フィール・ロスト

 通いなれた道を歩き、ドアを開き、部屋の中へ入る。
 広々とした空間はどこも綺麗に片付けられ、大きな窓から差し込む陽光で、きらきら輝いているように見える。
 そこに整然と並ぶ設備――サンドバッグやパンチングマシン、ウェイトマシン、バーベル、壁一面を使った鏡、ストレッチエリア。
 そして何時間もその上で闘ったリングと、なじみ深い光景は変わりない。
 さほど時が経ったわけではないのに。もう遠い昔のように懐かしく思えて、自然と笑みが浮かぶ――

「……というわけで、だ。今日からトレーナー見習いが一人増える事になる。今更紹介するまでもないが、いちおう型通りな。
 ――キャット、ひとこと挨拶しとけ」
 ずらりと居並ぶのは、白都ジムに所属する選手やコーチ、トレーナーの面々。
 その注視を浴びて、前に進み出たキャットは、
「今日から、トレーナーとして一から勉強します、キャットです。よろしくお願いします!!」
 大声を張り上げて、勢いよく頭を下げる。温かい歓迎は最初はなから期待していない――はずが、
「元気になってよかったな、キャット!」
「おーう、頑張っていいトレーナーになれよ!」
「しっかりやれー!」
 わっと声が上がると共に拍手が起こったので、びっくりして顔を上げた。
(な、なんだ?)
 皆が皆、なぜか嬉しそうに、手を打って歓迎している。
 復帰する前から、あまり親しくしてはいなかった人々だ。
 どうしてこんな風に迎えてくれるのだろうと目を丸くしてしまったが、
「そりゃ、当然だろ。
 ジムの仲間として一緒に戦ってたやつが、挫折を乗り越えて戻ってきたんだ。
 前と違った形だとしても、嬉しいに決まってる」
 挨拶を終えて、それぞれが自分の仕事やトレーニングに入る中、キャットを連れてレクチャーを始めたトレーナーが言う。
「ジムの仲間……」
 そんな風に思われてたのか。ずっと一人でやってきたつもりだったのに。
 へっ、と相手は笑って、
「ちっこいなりして負けん気強くて、クソ真面目に練習する奴を気に入る、物好きな連中もいるってこった。
 お前もトレーナーを目指すつもりなら、周りにもっと心を開いて行けよ。
 どんなに技術や才能があっても、人間同士の付き合いだ。
 信頼関係がなけりゃ、選手のサポートはできねぇし、一人前のトレーナーになれねぇんだからな」
「…………はい。分かりました」
「よし、お前にしちゃ上出来な返事だな。んじゃあ見習いの初仕事だ」
 トレーナーは、部屋の隅に積んだボックスの山をぽんと叩く。
「こいつの中には壊れたギアが入ってる。
 台車はあっちにあるから、全部ラボにもっていけ。んで、向こうからは、修理が終わったのを受け取ってくるんだ。
 それが終わったら、あそこのウォーターサーバーの空ボトルを業者に渡す。
 他にもグローブとシューズの手入れにマウスピースの発注と、やる事は山ほどあるぞ! さっさと行け!!」

(……厳しいのはトレーニングだけじゃないってか。まぁ、今更優しくされても調子狂うよな)
 台車にボックスを積んでガラガラ運びながら、キャットは一人苦笑する。
 今朝起きた時は、ボクサーでなくなった身で、ジムに再び足を踏み入れるのが怖いと思っていたから、以前と変わりない調子でどやされたのは、かえって助かった。
(とりあえず、覚えなきゃならない事がありすぎて、あれこれ考える暇ないな)
 トレーナーとしてジムに戻ってはどうか、と会社から打診された時はためらった。
 どうしたものかとしばらく悩んだ結果、迷いながらも承諾したが、思いがけず暖かく出迎えられ、皆のトレーニング風景を目にしても、思っていたより胸は痛まなかった。
(未練がないわけじゃない……けど。
 またメガロボクスに関われるんだ。まずはそれを良しとしなきゃな)
 そう思った途端、
『これからも、それに関わる事したいんだよな……もっと正確に言うと、あんたに関わる事、かな』
「ぐっ」
 急に自分の台詞を思い出してしまい、思わず足がもつれた。
 がたがたん、とボックスが前に大きくずれたので、慌てて止めてもとに戻す。しかし、
(……ここに来たとあっちゃあ、いつ勇利と顔合わせる事になるか、わかんないよなぁ。そっちはどうすりゃいいんだ)
 重く、深いため息が出たのは、あの日の事を思い出してしまったからだ――

「好きだ」
 その台詞の意味を、キャットは初め、全く理解できなかった。
「…………………………………………ん?」
 長い沈黙の後に首を傾げたのは、前後の脈絡が全く合っていなかったからだ。
(ええと……何だ? 今、変な流れじゃなかったか?)
 確か自分は、退院した後の方針について語っていたはずが、勇利の返事はそれにかみ合ってない気がする。
「……えー、っと……勇利?」
  とりあえず声に疑問を乗せて呼びかけると、彼は虚を突かれたように、長いまつげを瞬かせた。
ふい、と横を向き、
「…………」
 口に手を当てて、黙り込む。ますます訳が分からない。
(何か、よくわかんないけど)
 ひとまず否定的なニュアンスではなさそうだと判断して、それなら、と言葉を継いだ。
「そんな風に言ってくれるなら嬉しいよ。もちろん自分も、勇利が好」
「シャーロット・ティシキャット」
 しかしそれも、突然のフルネーム呼びで遮られる。
 へ、と間の抜けた声を漏らしたこちらに視線を戻した勇利は、怖いほど真剣な表情だった。
 鋭利な光を帯びた目がじっと、穴が開きそうなほど強くこちらを見据え、
「……俺は、お前が好きだ」
 一言一言、言い聞かせるように、低く深い声音で告げる。
 聞き間違いの余地もないくらい、はっきりと。
「…………え……っと……?」
 その真剣さに押されて言葉を失い、徐々に混乱し始める自分に、勇利はさらに追い打ちをかけた。
「お前が俺をどう思ってるかは知っている。返事が欲しい訳じゃない。ただ」
 すっと立ち上がり、背を向ける。
 その広い背中を、ぽかんとしたまま振り仰いだら、
「……もう俺の前で、不用意な事を言うな。勘違いしそうになる」
 勇利はぼそりと呟き、そのまま足早に歩み去ってしまった。
「……………」
 一人取り残されたキャットは、しばしその場で固まっていた。
 頭の中でぐるぐると彼の言葉がめぐり、十周したくらいでその意味を理解し始め、そうしてようやく、
「……え……え、え、えぇぇぇぇぇぇぇぇーーーっ!?」
 中庭どころか、病院内にいる人々まで何事かと振り返るような絶叫を上げてしまった……。

 そして今も、台車の手すりにすがるような格好で、地面にしゃがみこんでしまっている。
(いやだって勇利が、何でどうしていつからそんな事に!?)
 反芻するたびに、パニック状態に陥る。
 激しい動悸で息が上がり、沸騰したように顔が熱くなって、火を噴きそうだ。
(勇利……だって勇利キングだぞ!! 何で自分なんか好きになるんだ!?)
 たまに口にする冗談……というには、あまりにも真に迫っていたから、きっと本気なのだろう。
 と、理性的には考えられるのだが、かといって感情的には全く理解できない。
 自分はといえば、男みたいな振る舞いで、見た目も色気が無くて女らしくないし、勇利に迷惑ばかりかけていたし。
 そういう対象として見られるなんて、考えもしなかった。
 ……一応、これまで生きてきた中で、自分にちょっかいをかけてくる物好きな男も、いるにはいた。
 だが、ああいう連中は、えり好みしないだけだ。
 胸と穴さえありゃ何でも良いクズどもと比べるまでもない。自分から行かずとも、向こうから言い寄ってくる女たちの中から、好きに選び放題の勇利が、よりによって何で、
「――おい、大丈夫か。気分が悪いのか?」
「!!!!」
 不意に呼びかけられ、びくっと肩が跳ねた。耳に刺さった男の声、ここは白都だ、もしかして、まさか。
「…………」
 顔を上げるのを一瞬ためらった後、おそるおそる、声の主を見て――は、と息が漏れた。
「あんた熱でもあるのか。顔が真っ赤じゃないか」
 そこにいたのは、通りすがりの研究員だった。
 見知らぬ相手に心底ほっとして、しゃきっと立ち上がった。
「い、いや、何でもない、です。どうも」
 返事もそこそこ、台車を押して逃げるように、その場から立ち去る。
 心臓が妙に跳ねるのは、まさか勇利と出くわしてしまったのでは、と不安になったからだ。
(びびった……勇利じゃなくて良かった)
 あの後、彼は見舞いに来なくなり、退院した後も顔を合わせていない。
 それが、今は少し救いだ。
(どう考えていいのか、さっぱり分からない内は、会うに会えないだろ)
 返事をしなくていいと勇利は言っていたが、かといってこのまま、いつ遭遇してしまうかとビクビクしている訳にもいかない。
(ちゃんと考えなきゃな……それでもし、勇利と二度と会えなくなるにしても)
 そんな未来を思い描くと、ずんと頭が重くなる。
 あー駄目だと勢いよく頭を振って、
「……今は仕事だ仕事、仕事に集中しろ!」
 自分に言い聞かせて、勢いよく廊下を突き進む。
「うわっ、危ない! 気を付けろ!!」
「ああ悪い!」
 台車にひかれそうになって慌てて飛びのく通行人の抗議を聞き流して先へ行き、やがてラボの入り口にたどりついた。
「カードはっと……」
 ポケットから社員カードを引っ張り出し、壁のリーダーに読み込ませる。
 すると空気の抜ける音と共に扉が開き、

 その向こうに勇利が立っていた。

 な。
 その姿を見た途端、思考が一切停止する。ぎしりと硬直したこちらを認めた勇利は、軽く目を瞠り、
「…………キ、」
 小さく口を動かして声を発しようとする。瞬間、
「わーーーーーーーーーー!!」
 機先を制するように、喉から悲鳴じみた大声が迸り出た。
「!?」
 ぎょっとしてたじろぐ勇利を置いて、後さき考えずその場から、脱兎の勢いで駆け出す。
 体中の血が全部頭に上ったかのようにカーッと熱くなって、ただただ心中叫ぶしかない。
(無理無理、こんなのマジで無理に決まってんだろっ!!!!)