何だか今日はあまり機嫌がよくないな。そう感じたので、日課になっている寝る前のマッサージをしながら、
「勇利、何かあった? ずっと考え込んでるけど」
シャルは思い切って聞いてみた。
「ん」
声をかけられた勇利は、集中が切れたように目を瞬かせる。それから、
「ああ。……リュウが、ジョーとスパーリングをしたいと言い出した」
さらりとそんな事を言い出したので、は!? と声を上げてしまった。勢いで、ふくらはぎを揉んでいた手に力が入ってしまい、
「痛っ」
勇利がわずかに顔をしかめた。あっごめん、と緩めながら、
「ジョーってなに、あいつ帰ってきたの!?」
「らしい。俺もサンタから聞いただけで、会ってはいない」
「なん……え? ジョー帰ってきて? リュウがスパーしたいって?」
話の中身についていけない。
今度はこっちが目を瞬かせたら、勇利はふうとため息をついて、枕に頭を預けた。横で丸くなっている犬を撫でて、
「五年前の試合がいまだに引っかかっているらしい。マックとやる前にどうしても、あいつとやるのだと譲らない。
俺はこだわるなと言ったんだが」
「ああ……まぁ、そうだろうね」
反対の足を取り上げながら、リュウに賛同したら、勇利が眉を上げる。
だって、とつい声が沈んだ。
「あの時のジョーはどう考えても、最高の状態じゃなかったから。
最後、勝ちに縋って泣くみたいな姿見ちゃったら、いくら試合に勝っても、リュウがすっきりしないのはそうだろうなって」
「どんなコンディションであれ、試合においては勝者か敗者かしかいない。
それ以上の事を考える必要は無い」
きっぱり言い放たれて、シャルはつい苦笑した。足首をもって先をくるくる回しながら応える。
「それでも、すぐまた試合が出来てたなら、こんなに引きずらなかっただろうけど、ジョーいなくなっちゃったし……。
リュウはずっと気にしてたから、本人が戻ってきたのなら、清算したいって思うのは普通だよ」
「……あいつは、お前に相談してたのか?」
ふとトーンが落ちたので顔を見たら、勇利が何とも言えない表情をしていた。視線が合うと目をそらし、
「リュウは俺に、そういう話をしないな」
ぽつりとつぶやいたのは、指導者としての自信を損なわれたから、だろうか。
(あんまり人の事言えないけど……勇利、不器用だなぁ)
選手としては天才でも、人付き合いが下手な人なのは、長い付き合いでもう分かっていた。
だからマッサージはおしまい、と足元から枕のほうへ移動し、犬との間に勇利を挟んで横になる。
そして体に腕を回してしがみついた。胸に顔を寄せ、とくとくとなる心臓の音を聞きながら続ける。
「しょうがないよ、リュウにとって勇利は憧れの人だもん。
教えてもらう事が絶対で、意見するなんてとんでもないって思いこんじゃってるところ、あるんじゃないかな」
「意見があるなら、言わなければ分からない」
「言っても勇利はねつける事あるし、さっきみたいに」
「……」
「勇利の言ってる事、正しいと思うよ。引きずらないで前を見た方がいいと思う。
でも、リュウは勇利と違うから。
スパーリングやりたいっていうなら、やらせてあげていいんじゃないかな。それであの子の気持ちの整理がつくのなら」
「……」
無言のまま、髪を撫でられる。毛づくろいのようで気持ちいい。目を閉じて、
「勇利もまだ五年前の事こだわってるから。だから、そんなに頑ななんじゃない?」
そう呟いたら、ぴたりと手が止まった。答えは無く、息遣いと心音だけが耳に届く。
どんな顔をしているかは見ないでも分かる気がしたから、勇利、と小さく名を呼んだ。
「……ジョーが戻ってきて、良かったね」
静かに囁く。
緩やかな動きで胸が上下した後、間を置いて、ぱちりとスタンドの電気が消された。
暗闇に横たわり、穏やかな眠りの中にゆっくり落ちていく中、
――ああ。そうだな。
密やかに答えが返ってくる。その声音には五年ぶりの、心からの安堵がこもっているように思えた。