「……最近、勇利に避けられてる気がするんだよな」
そんな事をふと呟いたのは、ギアのメンテナンスのため、研究所を訪れた時の事だった。
何度も通う内にすっかり顔なじみになった技術者は、背中に取り付けたギアをいじりながら、
「おお、何だ? お前さんとうとう、チャンプに追っ払われたか」
と笑いながら返してくる。笑い事じゃない、と思わず口が曲がった。
――とはいえ、思い当たる節がなくもない。
(この間ので色々迷惑かけたから、嫌になったのかもしれない)
あの時、勇利は自らチンピラを追い払い、こちらが委縮してしまうほど手厚く保護して、事後策まで打ってくれた。
その事にはしてもしきれないほど感謝しているが、勇利の方は余計な手間をかけさせられて、関わるのが面倒になったのかもしれない。
そんな事を考え込んでいると、技術者がバッテリーボックスのふたを閉めつつ、
「お前さんが金魚のフンみたいに追い回してたから、いい加減にしろって言われたのか?」
辛辣な物言いで聞いてきたので、つい肩が落ちる。
「……金魚のフンって……いや、言われてないけど」
「なら考えすぎだろうさ。
あいつは口数多い訳じゃないが、言うべき事ははっきり言う奴だろ」
「それは、そうだけどさ」
「ごちゃごちゃ抜かしてねぇで、そら。終わったぞ。ちょっと動いてみろ」
ぽん、と押されて、しぶしぶ椅子から立ち上がる。
言われるままファイティングポーズを取り、短い呼気と共にパンチを放つ。
ギアは鋭敏に反応して腕の動きを支え、拳が勢いよく空気を切り裂いた。数回試してみて、
「……うん、よさそうだ」
出来に満足して呟くと、技術者は腰に手を当てた。
「お前さん、最近ふらついてるんだろ?
一応その辺の調整もかけたが、ギアってのは所詮、人間の補助をする道具でしかない。
しっかり飯食って足腰鍛えなけりゃ、どんだけ良いギアつけても意味ねぇんだから、練習さぼるなよ」
「はいはい、十分承知しております。サンキュー、おじさん。これで次の試合もばっちりだよ」
(さて、これからどうするかな)
ギアを外し、ジムへ届けてもらうように手配して、部屋を出る。
白衣の研究員が行きかう廊下を歩きながら、考え考え、頭の後ろで手を組んだ。
(今日はもう帰るだけだし、どっかで飯食べていこうかな)
勇利が自分を避けているかもしれない。
ここ数日それでモヤモヤしているせいで、食堂の飯はいつも以上に味気ない。
まだ試合まで間があるから、一回だけ、カロリー的に豪勢な食事をしても大丈夫だろう。
久しぶりに未認可地区のバーガーショップにでも顔を出すか、と廊下の角に差し掛かった時、
「今夜、会食に?」
不意に聞き覚えのある声がして、ぴたっと足が止まった。
(勇利?)
反射的に壁の向こう側を覗き見ると、少し離れたところで立ち話をする男女――勇利と、女社員の姿があった。
「はい。急な話になりますが、あなたを交えてぜひにと。
社長からは、都合がつくようであれば来てほしいと伝言を預かっております」
「俺の方は問題ない。オーナーに行くと伝えてくれ」
「承知しました。
では、十七時にご自宅へ車でお迎えに上がりますので、よろしくお願いします」
「ああ、分かった」
承諾を得た社員は、廊下の先へ急ぎ足で去っていく。それを見送った彼が向き直った途端、
(わっ)
様子を見ていたこちらとばっちり目が合ってしまい、思わず声が出そうになった。
数秒ほど間を置いた後、勇利の方が先に口を開いた。
「……何をしてる」
「い、いや、何っていうか……別に何もしてないけど」
どもりながら言ってから、あっ違う、と手を振った。
「立ち聞きするつもりはなかったからな! 歩いてたらたまたま、あんたの声が聞こえたから、それ、で……」
つい立ち止まって聞いてしまったのだから、それは結局盗み聞きなのでは。
弁解しようとして結果、墓穴を掘った。しりすぼみに声が小さくなる。
勇利は無表情でこちらを見つめた後、くるりと背を向けて歩き始めた。
(……やっぱり、避けられてる気がする)
そう思ったら矢も楯もたまらず、ぱっと駆けだした。走って追いつくと、
「なあ、勇利、怒ってるのか?」
思い切って問いを投げつける。相手はそっけなく首を振った。
「聞かれて困るような話をしていたわけじゃない。気にするな」
「そうじゃなくて、あんた最近、こっちを避けてるだろ。何か気に障る事したかと思って」
途端、勇利の歩みが止まった。怪訝そうな表情でこちらを見下ろし、視線がぶつかると、
「…………」
何か迷うように目が揺れて、それる。
ほら避けてる、と指摘しようとしたら、
「……別にお前は何もしていないし、俺も避けてはいない」
あっさり否定された。あっさりすぎて、信じがたい。
「本当か? この間のであんたに凄く迷惑かけたから、うっとうしいと思ってるんじゃないか」
「あれに関して言えば、お前は被害者で、俺はすべき事をしただけだ。何とも思っていない」
「それなら良いけど、でも」
「……逆に聞くが、お前は俺の機嫌を損ねた心当たりがあるのか?」
問い返されて、ぐっと言葉に詰まる。
腕を組んでしばし考え込み、
「………………ない、と、思う。
でもそんなの、気づかないうちに何かしでかしてても、おかしくないだろ」
自分で頭がいいとは思わないし、気配りだって足りない。気づかない内に、無神経に振る舞って相手の怒りを買った経験は、いくらでもある。
すると、勇利は視線を上向けた。
何を見るでもなく、空中に視線をさまよわせると、ため息をついて、
「……最近、ギアの具合がいまいちでな」
ふと話の矛先を変える。
何かと思えば、彼は右腕を曲げ、肘のあたりをさすった。
「ラボで何度も調整が入って、俺もいささか調子が狂ってる。
お前が俺に違和感を覚えたのなら、そのせいだろう」
「そう……なのか?」
勇利のギアは、人体直結タイプだ。
自分が貸与されている着脱可能なギアとは異なり、いついかなる時も身に着けていなくてはいけない。
となれば、たとえ些細な異常でも、心身に影響が出るのはありそうな話だ。
「勇利、調子が悪いのか? 無理してるのか? 大丈夫か?」
にわかに心配になって矢継ぎ早に問いかけると、今度はきちんと視線が合った。
「ああ、問題ない。今日のメンテナンスで全快した。今はいつも通りだ」
「……なら良かった。コーチも、あんた時々無茶するからって心配してたよ。
チャンプだからって、あんまり自分を過信するなよな……なんて、言うまでもないだろうけど」
誰に向かって偉そうな口をきいてるんだ、自分は。
我に返って頭をかくと、
「……そうだな。せいぜい、気を付けるさ」
勇利の切れ長の目が一瞬細くなり、ふ、と含み笑いをした。
それを見て、我知らずほっと息が漏れる。
確かに、今のはいつもの勇利だ。
(ならやっぱり、避けられてるかもってのは、気のせいだったんだな)
ここしばらくの胸のつかえがとれて安心した。そのまま流れで、出口に向かって並んで歩きだす。
「お前は定期メンテか」
ゆっくり歩きながら聞いてきた勇利に、再び頭の後ろで手を組んで応える。
「いや、こっちもギアとうまく連携できなくて、調整かけてもらったんだ。
それも終わったから、上がって飯でも食べに行こうかと」
「そうか」
「あんたは、これからお偉いさんと食事? さっき何か話してたよな」
水を向けると、勇利は肩をすくめた。
「ああ、ボクシング協会の役員と会食だ」
「ふーん。チャンプともなると、そういうのも行かなきゃならないんだ」
「メガロニアの広報活動の一環だ。俺は、広告塔のようなものだからな」
「確かに、街のあっちこっちであんたの顔見るなぁ……。
キング・オブ・キングスはリングの外でも忙しいんだな」
トレーニングの合間を縫って、白都コンツェルンの仕事をこなす多忙さに同情してから、ふと思い出す。
なぁ、と勇利を見上げ、
「あんたが外出してる時、あいつはどうしてるんだ?」
「あいつ?」
「ほら、あの、犬の奴」
勇利の家にいた、毛がふさふさした犬を思い起こす。
あの広い家に一匹でいるのだろうか。
犬は苦手だが、それは何だかちょっと、可哀そうな気がしないでもない。
勇利も思い出したように、携帯電話を取り出した。
「急な予定や外泊の時は、ペットシッターに来てもらっている。今日も連絡が必要だな」
「ペットのシッターなんてあるのか……」
全然知らなかった。
しかし考えてみれば、あんな大きな犬を勇利が一人で面倒見ようとしても、難しい時はありそうだ。
ペットに詳しくないが、毎日散歩する必要があるだろうし、餌だってやらなきゃいけないだろうし。
それなら赤ん坊と同じく、犬の面倒をみるシッターサービスがあっても不思議はない。
「……なぁ、勇利」
そこでふと思いつき、耳に電話を当てた勇利の服の裾を、くいくいと引っ張る。目だけ動かしてこちらを見る彼に、
「もし、あんたに迷惑じゃなければさ。今日、あいつの面倒、みようか?」
そう提案してみた――せめて少しでも、恩返しをしたいと思ったので。
――断る理由をなぜ探さなかったのか、後悔する。
しかし後で悔やんだところで、もう遅い。
ビジネスディナーを終えて後、家に帰り着いて部屋の電気をつけた。
そして……事前に予想しないでもなかったが……居間のソファの上で、互いの体を枕に折り重なって熟睡している犬と
「……仕方のない奴だ」
ファストフード店の紙袋が、パンパンになってテーブルの下に落ちているところを見ると、夕食もここで済ませたらしい。
(お互い、ずいぶん懐いたものだな)
犬はこれと見定めた相手にはよく懐くのだが、子猫の方は。
この間は犬が嫌いだとビクビク怖がってすらいたのに、毛に埋もれて気持ちよさそうに眠っているのは、どうした事か。
(……餌やりと散歩を終えたら、帰っていいと言ったんだが)
静かにそちらへ歩を進め、ソファを見下ろす。
部屋の明かりがつき、そばに人が立っているというのに、二匹は目を醒ます気配がない。
遊び疲れでもしたのかと思いながら、勇利はその場に膝をついた。そして、じっと彼女を見つめる。
『あんた最近、こっちを避けてるだろ』
脳裏に浮かぶのは、子猫が思い切った様子で詰め寄ってきた時の事。
『……別にお前は何もしていないし、俺も避けてはいない』
その答えをも思い出し、自嘲の笑みが浮かぶ。
(俺は、嘘ばかり上手くなる)
ギアの不調は嘘ではないが、避けていたのは事実だ。
対戦相手の雇ったチンピラに襲われた事件以来、勇利は彼女と距離を取り、顔を合わせずに済むよう気を付けていた。
――自分でもどうかしている、と思う。
(あんな夢を見たくらいで、近寄りがたくなるなんてな)
出会った時から彼女は、自分に対してあけっぴろげに好意を伝えてきた。
それは異性に対する恋愛感情よりもっと幼く、何の迷いもなく真っすぐで、眩しいくらいに純粋だった。
憧れの存在に対する溢れんばかりの尊崇と、メガロボクスを渇望する情熱を否応なく見せつけられてしまえば、勇利としても、好感を持たない方が難しい。
実際、彼女と話している時は、どこか気分が和らいでいくのも感じていた。
(……こんなつもりでは、無かった)
だから今の状況に、困惑するしかない。
女として意識してはいなかった。
彼女を子猫と呼ぶのは、その幼さをからかっての事で、やんちゃな子どもの面倒を見ている保護者のような感覚だったと思う。
だが、あの夜。
自宅へ帰るために車を運転していた勇利は偶然、深夜の街路を走る彼女を見つけた。そしてその姿が目を離した一瞬の内に消えた時、胸騒ぎがした。
すぐに停車して探しにいった彼の前で、何人もの男が彼女を押さえつけ、今にも乱暴しようとしているのを目にした瞬間、
『……失せろ、ゴミ共』
頭に血が上る音――気づいた時には、連中の血で拳が赤く染まっていた。そして、
『……ゆ……ゆう、り?』
服をかきよせ、涙に濡れた目で覚束なげに、こちらの姿を追いながら囁いたあの声。
それは今もまだ、耳に残っている。
(……こんなつもりでは、無かったんだ)
あの時湧き上がった激情から、勇利はすぐ目を背けて、見ないふりをした。
それは今の自分にとって、必要な感情ではない。
チンピラを調べると言い置いて家を出たのは、いつになく弱々しい彼女と二人きりでいたら、何が起こるか分からなかったからだ。
――そしてその敗走の結果が、あの夢。
優しい静寂に満たされた朝、彼女が自分の隣で眠っているなんて、あまりにも直接的な願望に満ちた夢だった。
そんな夢を見た事が後ろめたいような、その先にある自分の感情を認めるのが恐ろしいような。
複雑な気持ちを抱えたまま朝を迎え、勇利は彼女を避けるようになった……何よりも、自分自身の為に。
(情けないにもほどがある。思春期でもあるまいし)
それに輪をかけて情けないと思うのは、今日の事だ。
久しぶりに真正面から話をした彼女が、こちらの体調を心配して詰め寄ってきた時、気づけば笑みを返して、優しい声を出している自分がいた。
(しばらく会わなかったから、かえって自覚してしまった)
彼女の顔を見られて、話せて、いつもと変わらぬ親愛を向けてくれているのを確認できて――それが、本当にどうしようもなく、心から嬉しいと思ってしまったのだ。
「……ん」
眠っていた犬が不意に身じろぎして、足の位置を置き換える。その動きで子猫の頭が動いて、かくんと少し落ちた。
顔がこちらを向いてぎくりとしたが、まだ眠りは深いようだ。髪が顔にかかっても、目を開ける気配はない。
肩や胸を緩やかに上下させて眠る彼女は、安心しきって寝息も深く、それこそ子猫のように無防備だ。それを目にした途端、ほとんど無意識に、手が伸びていた。
「…………」
安らかな吐息を妨げないように、そっと頬にかかった髪を払う。
その指がかすかに、柔らかな肌に触れた時、びりっと痺れが走ったような気がして、息を飲む。
そしてつい、考えてしまう。
――もしあの夢のように、この手で頬を包み込んだら。
――彼女は同じように、優しく微笑みかけてくれるだろうか。
(そうなれば俺は、あのチンピラどもと変わりなくなる)
突如冷たい声が頭の片隅をよぎり、夢想を食い破る。ハッとして勇利は身を引いた。
一方の手で自分の腕を掴み、ぐっと力を込める。
(……何を考えてるんだ、俺は)
まさか暴漢と同じく押し倒そうとは思わないが、今思い描いた事は間違いなく、彼女の意に沿わないだろう。それは彼自身の望みでもない。
妄想を振り払うように首を振った勇利は、
(それにしても起きないな、こいつは)
のんきに寝入っている女へ、不意に苛立ちを覚えた。再び伸ばした手で、今度は鼻をぎゅっとつまむ。
「ふがっ!」
「いつまで寝ているつもりだ。起きろ」
途端、詰まった声を上げて彼女が飛び起きた。手を離した勇利がじろっと睨みつけると、
「ゆ、勇利、びっくりした。帰ってたんだ。
……げっ、こんな時間」
時計を確認した子猫は申し訳なさそうに頭をかいた。同じように目を醒ました犬の胴体を撫でて、
「ごめん、こいつと遊んでたら、結構本気になっちゃってさ。ちょっと休むだけのつもりが」
「お前は子どもか。犬は嫌いじゃなかったのか」
勇利は意識的に距離を取って、向かいのソファに腰を下ろす。そうだけどさ、と女はファストフードのゴミ袋をがさがさとつぶしながら、
「こいつ懐っこいから、怖くないんだ。犬は嫌いだけど、こいつは好きだよ」
「……そうか」
自分の犬にとはいえ、子猫が軽々しく好きという単語を口にするので、顔に出さないまま動揺する。
犬にまで嫉妬してどうする、と腕時計を外していると、
「…………」
急に黙り込んだ子猫が、じーっと穴のあきそうなくらい、こちらを凝視してきた。
やたらキラキラした目で見つめられ、落ち着かなくなって体の向きを変える。
「……何だ。じろじろ見るな」
耐えかねて抗議を口にすると、彼女はぱっと顔を輝かせ、
「いや、あんたのスーツ姿、初めて見たと思って。
出がけの時はびっくりして何にも言えなかったけど、あんたスーツも似合うんだなぁ!
背が高くてスタイル良いからかな。モデルか映画スターみたいで凄くかっこいいよ。
いつものラフなのもすらっとしてて良いけど、フォーマルも最高だな」
「……っ」
芸能人のファンが本人に会ったかのように頬を紅潮させて、好き放題にほめそやしてくる。
それが遠慮なく突き刺さってきたので、思わず頭を抱えそうになった。
(人の気も知らずに、こいつは本当に……)
そのまま鼓動が跳ねるのを十ほど数えた後、
(……これはもう、諦めた方が、いいな)
勇利は深く息を吐き出し、しみじみ思った。
「どうした、勇利? 頭痛いのか?」
額を手で覆っているのを勘違いしたのか、子猫はこちらの様子を窺っている。
何の罪もないその顔を見返したら、自分があまりにも滑稽に思えて、つい笑いが漏れた。
「勇利?」
「いや、何でもない。そろそろ帰る頃合いだろう。送っていくか」
笑みを残したまま問いかけると、彼女は左右に手を振る。
「今日はバイクあるから大丈夫。
勇利こそ疲れてるんだから、今日はゆっくり休んでくれよ。
あ、もしまた留守番がいるなら、声かけてくれていいよ。こいつにも会いたいし」
「……ああ、分かった。気を付けろよ、キトゥン」
またなー、と犬の顔をわしわしと撫でる彼女を見つめながら、勇利は心中、ひそかに降参の白旗を上げる。
もういい加減、認めるしかない。
自分はこの女に、否応なく惹かれてしまっているのだ、と。