一日を終え、街の賑わいから遠ざかり、静寂に包まれた我が家に帰る。
聞こえるものといえば、周囲の森を駆け抜ける風、それに乗って届く波の音。
穏やかな暮らしは、日々闘い続けている中で一時の休息だ。
どれだけ気を張り詰めていても、ここに戻れば誰に邪魔されず、存分に身を休める事が出来る。
――はずなのだが。
「…………」
シャワーで汗を流し、夕飯を終え、後は寝るばかり。
だというのに、勇利は自身のベッドを前にして、眉間に皺を寄せていた。
普段は自分で見苦しくない程度に整えるようにしている。
しかし今日は、まるで今まで人が寝ていたかのように、シーツも掛布も乱れていた。
(……あいつはどうして、余計な事ばかり言う。おかげでベッドが使いにくい)
ついため息が漏れたのは、勇利の匂いがして気持ちよかったなどと、
(他意が無いのは分かるが……いや、無いからこそ質が悪いか)
媚を売る女の扱いなら、まだ分かる。
キングとして名を馳せれば馳せるほど、獲物を狙う
香水と化粧の匂いをふんぷんとさせ、むやみに露出の高い服で迫ってくるのなら、つまみ出してしまえばそれで済む。
(だが、あいつはそうじゃない)
彼女をジムに引き入れた後に対面したゆき子は、あの子はあなたを神様だと思ってるんですって、と伝えてきた。
なるほど。言われてみればそうだと、自分に対する態度も理解できる。
彼女はまるで敬虔な信者のようだ。キング・オブ・キングスという神には間違いなど一つもない、完璧な存在なのだと言わんばかりに純粋な信心を彼に寄せている。
(……馬鹿げてる)
いつまで突っ立っていても仕方ない。掛布をめくって、ベッドに乗る。
身を横たえるのに少し躊躇ったのは、まさかあいつの匂いが残っていないだろうな、と危惧したからだ。
軽くかいでみても、特にいつもと異なる香りはしない……あの女が言った、自分の匂いもよく分からないが。
(少し、距離を縮め過ぎたのかもしれないな)
部屋の明かりを消して寝る準備をしながら、思う。
普段の勇利であれば、夜中に自宅へ招くような事も、自分のベッドを貸すような事もしない。
悪党に襲われ、涙を流して怯える女が相手だったにしても、ジムの寮へ避難させるなり、金を渡してホテルに泊まらせるなりすれば、それで済んだ話だ。
それなのにわざわざ、静謐で心が落ち着くこの空間に、あんな騒がしい奴を招き入れてしまったのは、自分でも思っていた以上に気を許してしまったからか。
(このままいけば、ますますあいつを調子づかせる。この辺りが潮時だな)
襲撃事件のかたはついている。
自分がやるべき事はもう何もない。
であれば以前と同じように、誰ともなれ合わず、メガロボクスにのみ打ち込めばいい。
(明日から、あいつとは距離を置く)
そうと決め、目を閉じて寝返りを打つ。ほどなくして、緩やかに眠りが訪れ――
――深く沈んでいた意識がゆっくりと浮上し、瞼の裏にも光を感じる。
頬を撫でる優しい風に誘われるように目を開くと、頭上の窓は開け放たれ、白いカーテンがふわりと踊るように揺れていた。
差し込む陽光に瞬いていると、鳥の鳴き声が飛び込んできて、目覚めをさらに促す。
(……もう朝か)
ほんの少し前に目を閉じた気がするのに、よほど熟睡したのか。
体の隅々まで充足感を覚えるほど、目覚めが良い。
降り注ぐ光の暖かさが手足の先々まで満ち満ちて、起き上がるのがもったいないような心地よさを感じる。
(まだ、起きなくともいいか)
珍しくそんな事を思いながら、肌触りのいい掛布の下で体を動かし、寝返る。
するとそこに、女がいた。
(キトゥン)
深い眠りの中にいるのか、女は目を閉じたまま、心地よさそうに寝息を立てている。
勇利に寄り添う彼女は、手足を体に引き寄せて小さく丸まっていて、それこそ猫が眠っているかのようだ。
無防備で、何の警戒心もないその姿に微笑を誘われる。
勇利は静かに手を伸ばして、目元にかかった前髪をそっと払った。
そのまま頬を優しく包み込むと、眠りから引き起こされた女は、瞼をゆるりと上げた。
目が覚めたばかりだからか、その瞳はぼんやりと焦点を結ばず、何度か瞬きを繰り返す。
そしてようやくこちらをその目にとらえると、
――おはよう……勇利。
ふわりと柔らかく、溶けそうなほど優しい笑顔で、彼の名を呼び……
「――!!」
ガバッ、と跳ね起きた途端、視界は真っ暗闇に包まれた。
それまで光に満ちた場所にいたせいで一瞬混乱しかけたが、彼に寄り添っていた犬がびくっと頭を上げたのと目があって、
(……ゆ、めか。今のは)
現実を取り戻す。
つい周囲を見渡すが、もちろん彼と犬以外の何物も、この場所には存在しない。
「…………」
しばらく、そのまま硬直する。妙に弾んだ息が整うまでどのくらい経っただろう。
時計を確認してみると、まだ真夜中だ。
起きる時間ではない。明日の為にも、もう一度寝直さなければ。
頭の中では冷静に考え、理性的な行動を促す自分がいる。
しかし一方で、今の夢の残滓をどうにも振り払えず、困惑する自分も、意識せざるを得なかった。
「……どうかしてる。あんな、子どもみたいなやつに」
思わず言葉を漏らし、困惑を形にしたことで、なおさら混迷が深まる。
勇利は雑念を蹴散らすように頭を振ると、ベッドから降りてキッチンへ向かった。
水の一杯も飲まなければ、どうにも頭が冷えそうにない。