インシデント・ペイン

「キャット。キャット、おい、キャーット!」
「……なんすか、トレーナー。そんな大声出さなくても聞こえてるよ」
「馬鹿野郎、聞こえてるんなら返事しろ! てめぇの名前も忘れたのか」
「何か用すか」
「何か用、じゃねぇよ。なめた口利きやがって、年上にはもう少し敬意を払えよ」
「だから払ってるじゃないすか。話し方気を付けてるでしょ」
「それのどこが気を付けてんだ、クソガキが。
 ったく……今日はもう上がっていいぞ」
「はいはい。言われなくても、上がるつもりっすよ」
「ああいえばこういう……ん?
 お前、今日はバイクじゃないのか。メット持ってねぇが」
「言ってませんでしたっけ。バイクはこないだ、タンクにでかい穴開けられて、ガソリン空っぽにされたって」
「何だそりゃ。未認可地区スラムじゃあるまいし、質悪い奴もいたもんだな」
「ほんとだよ……。自分で直せるレベルじゃなかったんで、いまは店に預け中。だから今日は、走って帰ります」
「ああ? 大丈夫かお前、バス……は、もう出てないか。
 タクシー呼ぶか?」
「そんな金ないっす。家までそんな遠くないし、ロードワークも兼ねるよ」
「そうか……なら、気を付けて帰れよ。明後日は試合があるんだ、無理すんな」
「はいはい、そんじゃお疲れっした」

 はっ、はっ、はっ、はっ。
 規則正しく呼吸し、それに合わせて足を踏み出す。
 普段はバイクで通り過ぎるだけの街を走ってみると、景色が違って見える。
 夜遅い時間だからか、明るい日中は人の多い通りも、一人二人とすれ違う程度。
 時々思い出したように、ライトをつけた車が通りすぎていくだけで、閑散としている。
(たまには夜走るのもいいな。今日は天気もいいし)
 そんな事を思いながら、息を弾ませて走り続ける。
 家まで五キロ程度。着く頃には日付が変わりそうだ。
 風呂に入ってすぐ寝よう、明日も早い。
(次の試合で勝てば九十台に上がれる。気合入れてかかんないとな)
 メガロボクスのランキングは百に上がったところで、急に壁が厚くなった。
 女だとなめてかかってくる連中が、この辺りから居なくなるせいもあるのだろう。
 ヒット&アウェイを警戒してガードを固くする奴、連打に次ぐ連打でスタミナ切れを狙って来る奴、こちらのガードをパワーで押し切ってKO狙いする奴。
 試合の数を重ねるごとに、自分が相手に研究され、警戒されている事を実感し、己の力不足に歯噛みしたくなる。
(けど、気持ちいい。プロのメガロボクサーが、こっちを敵として相手してくれてる)
 ちょっと前まで、リングに上がるどころか、グローブに触れもしなかったチビ女を、殴り合いで戦い続けてきた男たちがライバルと認識している。
 その事実が、自分には心地いいのだ。
(ただの女でも、こうして男と渡り合えるんだから、メガロボクスは最高だ)
 このチャンスを与えてくれた勇利と白都には、感謝してもしきれない。
 名前を呼ばれるのが嫌で、さっきはつい反抗的な態度をとってしまったが、日々鍛えてくれるトレーナーにも、もちろん有難いと思ってる。
(明日、ちゃんと謝っとくか)
 そう思いながら頬を緩めた時、目に光が刺さって、瞬きをした。
 右手に伸びる道路の向こうから、車が走ってくる。
 眼を射るそのライトから視線をずらすと、こちらに向かって歩いてくる人影が見えた。
 フードを目深にかぶったその姿は、逆光のシルエットで、男としか分からない。
特に何という事もない、普通の通行人だ。
 車が横を通り抜けていく数秒後に、その男ともすれ違う。いや、すれ違おうとした時、
「……うっ!?」
 突然、シューッと空気が抜けるような音と共に、視界が闇に閉ざされた。

っ!!」
 肩が固いものにぶつかって痛みが走る。地面に投げ出されたのは分かったが、何が起きたのかは理解できない。
 見回して確かめようにも、目が激痛に塞がれて何も見えず、涙がボロボロと零れ落ちるばかりだ。
(さっきの、スプレーか!?)
 催涙スプレーの類をかけられたのだろうと察して、体を起こそうとしたが、
「押さえろ押さえろ、怪我させられるぞ!」
 荒んだ男の声がした途端、両手両足を乱暴に掴まれて、地面に縫い付けられる。
 おまけに誰かが馬乗りになったようで、腹の上にずしっと重みを感じた。
「何だてめぇら、離せ! 金が欲しいならバッグに入ってる、好きに持って行けよ!!」
 どうやら複数人に襲われているらしい。とっさに叫ぶが、
「低ランクボクサーのファイトマネーなんざいるかよ、どうせ雀の涙だろ。それよか、もっと美味い話があってよ」
「っ!」
 ひた、と喉に冷たい感触が吸い付く。
 ナイフだ。
 それに気づいて体を硬直させると、浅く刃を当てながら、上に乗った男が続ける。
「なぁ野良猫、あんた今度の試合、キャンセルしろよ。
 どうせ勝てるわきゃねぇ、怪我するだけ無駄ってもんだろ?」
「! ……てめぇら、次の奴の関係者か」
「さぁな、どうだろうな?」
 からかう口調で言いながら、男はナイフを弄んでいるらしい。うっすら熱を帯びた痛みが増していく。
「俺たちが何であれ、お前はちょっと目立ちすぎたな。
 女がリングにしゃしゃり出てくりゃ、面白く思わない連中が出てくるのも当然だろ?」
 ではやはり、メガロボクサーがならず者をけしかけてきたのだ。
「こ、のっ……ふざ、けんなっ! 誰が棄権なんかするか!! 真っ向勝負も出来ねぇチキン野郎が!!」
 カッと体が熱くなって、拘束を払いのけようと渾身の力をこめる。
 しかしただでさえ小柄な自分では、複数の男に上から押さえつけられて抗うのは難しい。
 無駄なあがきを嘲笑い、男は仕方ねぇなぁとナイフを離した。
「せっかくの申し出もお断りなら、どんな目にあっても自業自得、だよな。
 お前もその覚悟で、男の世界に乗り込んできたんだろ?」
「て、めぇっ……!」
 辛うじて目を開けたが、視界は涙でかすみ、ゆらゆら揺れる影の群れしか見えない。右手にいる影が身を乗り出し、
「おい、腕折るんだろ。両方ともやっとくか?」
(なっ!!)
 そんな事を言い出したので、血の気が引く。
 いま腕を折られたら、試合には出られない。
(やめろ、そんなの嫌だ。やっとここまで来たのに、こんな事でつまづいてられるか)
 ――だが、ここは大人しくすべきだ。
 すっと冷静な考えが頭をよぎった。
 これ以上騒げばきっと、再起不能の大怪我をさせられる。
 逆に無抵抗でいれば、怪我をさせられて直近の試合は出られなくなるが、それ以上の暴力は免れられるだろう。
(逆らわない方が、身の為だ)
 悪漢は弱者から金を奪って、力でねじ伏せれば満足する。
 今までどうしても敵わない時は、そうやってやり過ごしてきた。今度だってそうすればマシなはずだ。
 そう思って、四肢から力を抜きかけたが、
「……そいつの前に、お楽しみがあるだろ?」
 笑いを含んだ男の声が聞こえた瞬間、鎖骨から腹にかけて熱が走り、布の裂ける音が響いた。
(――!!)
 何が起きたか理解するより前に、素肌が外気に触れた感覚で、全身が粟立つ。
「お前どうせ、もう色んな奴に足おっ開げてんだろ? 俺たちにもおすそ分けしてくれよ、野良猫さんよ」
 下卑た笑いが雨のように降り注いで、屈辱感にカッと頭が熱くなった。
 萎えかけた腕に力がこもり、爪が食い込むほど拳を握りしめる。
「んな事するか、クソが! 離せゲスやろ、ぐっ!!」
 吠えた途端、頬を張られた。
 衝撃と共に、口の中で血の味が広がる。飲みこめば吐く。とっさに血を吐き出す内に、男の手がシャツの残りを掴んで、さらに引き裂き、
「可愛い面して口の減らねぇガキだな。何なら、俺ら全員相手して何ラウンド持つか試し――」
 そのざらついた指先が、胸を覆う下着を掴んだ時、
「……失せろ、ゴミ共」
 腹の底に響くような低い怒声が、唐突に滑り込んできた。と思った次の瞬間、
「ぐえっ!!」
 ぐしゃりと骨の砕ける音と共に、のしかかっていた重しがふっと消え、頭上の方で転がる振動が伝わってくる。続いていくつも悲鳴と打撃音がして、手足の重みも消えた。
(誰か……助けに来てくれた……?)
 よろけながら何とか起き上がると、二つに裂けたシャツの合間から滑り込んでくる夜気に、体が震えた。パーカーの前をかきあわせ、
(今のうちに……逃げないと……)
 そう思っても、体は凍り付いたように動かない。
 何とか事態を把握しようと目を瞬くが、ぼやける視界には影が動いているようにしか見えなかった。
 それどころか、ますます痛みが増してくるので、耐えかねて手でこすっている内に、
「ひ、ひぇえぇぇっ、お助け……!」
 ばたばたと荒い足音がいくつもして、あっという間に遠ざかっていった。
 一人だけ残った気配は、警戒するようにしばらく立ち尽くした後、こちらへ歩み寄ってくる。
「っ……」
 その影が先ほどの男たちよりも大きく映り、びくっとして思わず後ずさったが、
「……おい、大丈夫か」
 屈んだ影が発した声に、はっとした。
 聞きなれた低音のそれは、先ほど聞こえた時よりも柔らかく、労わりを帯びている。
 途端、張り詰めた意識が緩み、気の抜けた声が漏れ出た。
「……ゆ……ゆう、り?」
「ああ。……立てるか、子猫キトゥン?」

 車の背もたれに寄り掛かると、体全体が吸い付くような柔らかさに包まれる。
 ざらざらした地面に押し付けられて痛む背中には、たいそう心地よくて、ついため息が出た。
「……ありがとうな、勇利。あんたが通りかからなかったら、どうなってたか分かんないよ」
 とりあえずこれをと渡された濡れタオルで、目を覆いながら礼を言う。運転席に座ったらしい勇利が、静かに答えた。
「……この辺りは治安がいいとはいえ、夜中に一人で出歩くのは感心しない。いつものバイクはどうした」
「バイクはいま修理中で……あ、あー。そっか、もしかしたらあれも、あいつらの仕業かも」
 ふと思いついて呟く。
「知り合いか。チンピラにしか見えなかったが」
「知りゃしないって。
 多分、次の対戦相手の嫌がらせだ。怪我させて、試合に出られなくしようとしてたからさ。
 大方、こっちが一人になるところを狙ってたんだろ」
「…………」
 少し沈黙が落ちた後、それが本当なら、と声が聞こえた。
「今日は家に戻るな」
「え? 何で?」
「前もって計画を立てて襲撃するつもりだったのなら、自宅も押さえられてる可能性が高い。
 帰ったところを襲われるかもしれない」
「う……そうか……」
 来ると分かっていれば、もう二度と不覚は取らない。
 そう思ったものの、身動きできない状態でのしかかってきた男の熱が不意に蘇ってきて、体がすくむ。
(一晩に二回もあんな目に遭うのは……さすがに勘弁だな)
 ぶわ、と鳥肌の浮かんだ腕をさすりながら、
「……つっても、ホテル泊まれるほど金持ってないし……ジムに戻ったら、泊まらせてくれるかな……」
「…………」
 ぶつぶつ言っていたら、ふう、と大きなため息が聞こえた。不意にエンジン音が響き、車が動き出す気配がする。
「それなら、俺の家に行くぞ」
「……へっ?」
 予想外の台詞にきょとんとし、意味を理解して「は!?」と驚愕した。
 思わずタオルを取って目を開くと、ぼんやりかすむ視界の中、勇利はアクセルを踏み込んだようだ。
 ぐん、と前へ進むのを感じながら、慌てて声を発する。
「ちょ、ちょっと待てよ勇利! 何でそうなるんだ!?」
「このままお前を適当なところに放り出すのは、目覚めが悪い」
「でもそんな、な、なにもあんたの家でなくとも、どっか適当なモーテルに行ってくれれば、それで十分だって」
「それで一人になったところを、また襲われるのか。次は命があるかも分からないぞ」
「それは、いや、でも」
「良いから、今は目を冷やしておけ。あと二十分ほどで着く」
 問答無用というように、勇利がこちらの手を掴んで、タオルを目に押し付けてくる。
 その強さに断固たる決意を感じて、反論しようとした口を閉じざるを得ない。
(ええ……勇利の、キングの家に行くってマジか……?)
 頭はまだ混乱状態だったが――

 ――マジだった。

「そこは段差があるから気を付けろ。玄関はこっちだ」
 走る事、二十分。
 勇利の予告通りの時間で、車はその自宅に到着したらしい。
 未だタオルで目を覆っているので、周囲の様子は分からない。
 耳に聞こえるのは、木々のざわめきと夜の静けさだけ。街の喧噪は遠ざかって久しい。
(潮の匂い……海が近い、のか?)
 手を取った勇利に案内されるまま、歩みを進める。
 固い石の感触を靴の裏に感じた時、ぱっと周囲が明るくなり、鍵を開ける音が響いた。
「入るぞ」
「う、うん……」
 促されて、おっかなびっくり敷居をまたぐ。
(全然見えないけど、もしかして勇利ん家、すっごい豪邸じゃないか……?)
 扉の開閉、二人分の靴音の響き方からして、周囲が相当広い空間になっているのは感じられる。
 そりゃ、キングが自分の家のような狭いところに住んでるわけなかろうが、それにしても予想以上にリッチな雰囲気だ。つい腰が引けていると、
 ワン! ワンワン!
「わひぃっ!!」
 突然、足に大きなものがすり寄ってきたので、変な悲鳴をあげてしまった。
「なっ何、何だよこれ勇利!!」
 もふもふとした感触に飛びあがり、唯一の手がかりの腕にすがりつく。
 勇利が待て、と制止をかけると、もう一度吠えたそれは動きを止めたようだ。
「ただの犬だ。初対面の人間にはあまり近づかないんだが」
「犬って、あんた犬飼ってるのかよ、先に言ってくれよ!」
「苦手なのか」
「……ガキの頃、でかいに追っかけられたから、嫌いなんだよ」
「…………ふっ」
 びくびくしながら言うと、含み笑いが聞こえたので、「笑いごとじゃない!!」思わず声を荒げてしまう。
 すると、今度ははっきり吹き出した勇利に、くいっと手を引かれた。
「こっちだ。まずはその目を洗え」

 洗面所でしつこいほど水をかけて、ふわふわしたタオルで拭うと、ようやく目が見えるようになってきた。
(まだ痛いけど……何とかいける、かな)
 白目部分は真っ赤に充血していて、流し続けた涙のせいで目元は重たいが、視界はだいぶすっきりした。これなら大丈夫そうだ。
(にしても……マジでデカいぜ、この家……)
 痛痒い目をこすりながら洗面所を出て、いくつもある扉の内、一つだけ開いている方へ向かいながら、息を吐く。
 天井は見上げると首が痛くなるほど高いし、塵一つ落ちてない綺麗な廊下は、自分の部屋と同じくらい奥行きがある。
 そろ、と扉から中を窺うと、ホームパーティーが出来そうなリビングが眼前に広がっていた。
 馬鹿みたいにでかいテレビ、石造りのテーブルや高そうなソファ等々が、さも当たり前のように配置されている。
(うわぁ……金持ちの家だ……)
 どう考えても、自分には場違いだ。
 しかも真ん中に犬がいる。
 灰色がかった毛並みの大型犬は大人しく座っているが、何か期待するようにこちらをじっと見つめている。
(何だよ。なにも持っちゃいないぞ)
 きっと眼を鋭くしてにらみつけたが、やばい。これ以上部屋に入れない。と思っていたら、
「こっちに来い。一杯飲んで落ち着け」
 こん、と音を立てて、勇利がテーブルにカップを置いた。
 そのままソファに腰を下ろすと、犬が彼の方へ歩み寄って、慣れた様子で足元に伏せる。
「あ、あぁ。……勇利、そいつが動かないように、見ててくれよ」
 それでようやく入る気になり、慎重な足取りで踏み入れた。
 犬を注視しながら恐る恐る近づき、距離を取って、対面の一人がけのソファに座り込む。
「……いただきます」
 両手で持ったカップの中身は、ホットミルクのようだった。
 そろっと口に運べば、濃厚な味と共に砂糖の甘みが舌に触れ、喉をするりと通りすぎた。
 その温かさが全身のこわばりを緩めるのを感じて、今更ながら緊張しっぱなしだったのだと自覚する。
(ホットミルクなんて、子ども扱いされてるみたいで癪だけど)
「……ありがとう、勇利。うまいよ」
 ぼそっと礼を言うと、自身カップを傾けながら、勇利がうなずいた。
 鼻をかすめた香りからして、彼が飲んでいるのはコーヒーらしい。それをテーブルに置くと、長い足を組んで問いかけてくる。
「それで、目の具合はどうだ」
「ん。まだ痛いけど、見えるようにはなったよ」
「そうか。念のため明日、眼科に行け。何をかけられたか知らないが、後遺症がないとも限らない」
「……うん。そうする」
 そうか、そういう事もあるか。医者は好きじゃないが、試合を控えてるのだから気を付けなければ。
 そう思いながらこくこくミルクを飲んでいると、それから、と目の前に布の塊が投げ出される。
「?」
「サイズは合わないだろうが……とりあえず、いまはそれを着ておけ」
 とんとん、と勇利が自身の胸元を指したのは、
(着替え、って事か?)
 確かに、引き裂かれた服を着たままでいるのは気持ち悪い。
 しかし、パーカーの前をきっちり閉めて隠しているのに、よく気が付くものだ。
「あ、……ありがとう」
 感謝と気まずさで小さく呟く。
 勇利は応えるように唇の端を上げると、カップを手に腰を上げた。奥にある扉を親指で示し、
「今日はあの部屋で寝ろ。風呂に入りたいなら、さっき使った洗面所の隣にある」
 そう言いながら上着を羽織り、出ていく気配を見せる。
「えっ、あんたはどうするんだ」
 まさか勇利の寝床を奪ってしまうのでは、と危惧したが、相手は軽く肩をすくめ、
「白都のボクサーにちょっかいかけた連中を、あのまま放っておくわけにもいかない。
 念のためジムに連絡して、調べておく」
「え、でも」
「さっそく一人にして悪いが、ここはセキュリティ完備だ。こいつもいるから、心配するな」
 任せろ、と言わんばかりに犬が一声。
「それに、お前がここにいるとは、連中も思わないだろう」
「そ、そうじゃなくて……待った、そんなのは明日、自分で……ちょ、勇利!」
 そのまま、呼び止める声もきかずに、さっさと出て行ってしまった。
 散歩と勘違いしたのか、犬が尻尾を振りながら追っていく。
 そのすぐ後に、玄関の開け閉めと車のエンジン音が聞こえてきたところからすると、本当にこれからジムへ報告にいくのだろう。
(……行動早すぎだろ。勇利だって明日、予定あるだろうに)
 ぽつんと一人だけ残されて、茫然とする。
 追いかけた方がいいかと思いながら、それも本末転倒のような気がして、ソファから動けなかった。
(……勇利、凄いな。助けてくれただけじゃなくて、色んな事に気づいて)
 結局他にどうしようもないので、所在なくミルクをちびちび飲みながら、思う。
 その気遣いが有難いやら、申し訳ないやら、馴染のない豪邸に取り残される居心地の悪さに、尻が落ち着かないやら。
(とりあえず……部屋、借りようかな)
 寝るなら、自分が横になっても全然スペースの余るこのソファでも十分なのだが、キングが指定した部屋を使わずに背くのは、抵抗があった。
(なんか、よく分かんない事になったな……安全なのは、助かるけど、さ)
 そわそわとした気持ちのまま、着替えを手に取る。
 先ほど通りすがりに勇利がカップを置いた流し場へ、自分のを置いてから、指定の部屋へ向かった。
 扉を開けて覗き込むと、暗闇の中、キングサイズのベッドが、威圧感たっぷりに部屋の中央に鎮座ましましている。
(……キングだからキングサイズ……なんてな)
 単にあの長身の収まる大きさが、これなのだろうが。くだらない事を思いながら、中へ入った。
 おっかなびっくり、ためらいながらベッドに這い上がったが、自分には大きすぎて溺れそうなサイズだ。
 水中を泳ぐように苦労しながら、やっとの事で枕元にたどりつき、ふーっとため息をつく。
(……これ着ておけって言ってたけど)
 そこで貰った着替えを広げてみると、長袖のTシャツだった。無地のシンプルな代物だが、いかんせん、
「でかっ! ……いやまぁそりゃ、そうだよな」
 勇利サイズの服なら大きくて当然だ、自分とは体格が違いすぎる。
 とりあえずパーカーとシャツを脱ぎ、袖を通してみた……が、肘の辺りからだらん、と垂れ下がる羽目になり、裾もスウェットの太もも半ばまで覆い隠す始末。
(こうしてみると、ほんと巨人だな、勇利)
 普段から話してる時、見上げて首が痛くなるから、歴然とした身長差を感じていたが、ぶかぶか過ぎて、子どもが大人の服を着ているような有様だ。
 このままではさすがに動きにくいので、袖を肘当たりまで何重にもまくる。
 たっぷり余る裾を右腰あたりで縛って、ようやくまともな着心地になった。
「……うん、これならいいかな」
 結び目を確かめてから、掛布をめくって、敷布の間に潜り込む。
 肌に触れる滑らかな感触からして、このベッドで使われてる何もかもが、自分の寝具とは全く桁違いの質と値段なのだろうなと感じられて、少し萎縮する。が、
(ん、でも……何か、いい匂いする)
 枕に頭を預け、胸いっぱいに空気を吸い込むと、得も言われぬ芳香が満ちて、何とも幸福な気持ちになる。
 何の匂いだろう、とクンクンしていたら、不意に足元がふかっと沈み、
「!? うわっ! 何でお前来てるんだ!?」
 驚いて顔を上げた視界にいきなり犬が映ったので、悲鳴をあげて飛び起きてしまった。
 そのまま端に逃げようとしたが、
「わふっ」
 犬は小さく声を漏らすと、こちらに身を寄せるように横たわって、目を閉じて寝る態勢に入ってしまった。
「えぇ……マジか……どいてくれよ……」
 昔吠えられたトラウマを思い出し、怖気づいてしまう。
 しかし、犬は全く動く気配もなく、やがて心地よさそうな寝息を立て始めた。
 もしかしたら、いつも勇利と一緒に寝ているのかもしれない。そのくらい堂々とした寝姿だ。
(マジか……急に噛みついてこないだろうな……)
 狼みたいな顔をした大型犬で、怖い。
 しかし眠っている姿は大きなぬいぐるみのようで、無害にも見える。
「…………噛むなよ」
 一応念押しして元の位置に戻り、毛皮の感触にびくびくしながら目を閉じる。
 そしてもう一度、匂いを確かめるようにくん、と鼻をひくつかせると、先ほどの香りと一緒に、太陽の匂いがふわりと広がるのを感じた。
(……これはこいつの匂いか)
 日中に日向ぼっこでもしたのか、犬の体からはあたたかい陽光の名残が立ち上っていた。
 その心地よさに思わず自分からすり寄って、深呼吸する。
(ああ、なんか……すげー気持ちいい……)
 ほんの少し前まで、襲われた記憶や犬に怯えていたのが嘘のように、気持ちがほぐれていく。
 さっき飲んだ、ホットミルクの温もりも眠気を誘ったのかもしれない。
 それから一、二と数を数える間もなく、意識が不意にすとんと消えた。

 くん、と再び匂いを感じて目をさます。
「ん……ん……?」
 見慣れない、光沢を放つ掛布が視界に入って、一瞬混乱する。
ホテルにでも泊まったか、いやそんな金ないしと思いながら身を起こすと、そこはモノトーンで統一された広い寝室だった。
(ここ……あ、あー……そっか、昨日、勇利ん家に、泊めてもらって……)
 ぼーっとする頭を左右に振って、事の顛末を思い出す。
カーテン越しの窓からは、明るい光が注ぎ込んでいた。すでに朝を迎えているようだ。
(犬……いない。勇利は?)
 昨日はあっという間に寝落ちしたから、仮に勇利が帰宅していても、全く気付かなかっただろう。
 遅くならないとは言っていたけれど、とベッドから下りるも、
「ん……いい匂い」
 目覚めを促したそれ――肉を火にかけた香ばしい匂いに鼻を鳴らし、誘われるようにふらふらと引き寄せられた。
ドアを開ければ、朝の晴れやかな陽光に覆われたリビングは、眩しいほどにキラキラして見える。
(うっ、痛い)
 昨日スプレーをかけられた目はまだ強烈な光に耐えられないのか、ずきりと痛みが走る。
 思わず手で覆って立ち尽くしていると、
「――鼻が利くな、キトゥン。ちょうど朝飯が出来たところだ」
 笑いを含んだ声が耳を打つ。
「勇利?」
「ああ、おはよう」
「おは……よう」
 ぱちぱちと瞬くと、フライパンを手にした勇利が見えて、思わず目を丸くする。
(嘘だろ、キングが料理してる)
 昨日見た限りじゃ、台所は新品同然、誰も使っていないように見えたのに。
 しかも、およそ生活感を感じさせないキング・オブ・キングスが、慣れた手つきでベーコンエッグを皿に盛って、配膳している。
「何をしている、座れ。冷めるぞ」
「え、う、うん……」
 事態についていけないまま、ダイニングテーブルの指定位置に腰を下ろし、目の前のコップにオレンジジュースが注がれるのを思わず凝視する。
 ……キングが家事を自分でするなんて、想像もしなかった。
「あんたなら、メイドか何か雇ってそうだと思ったのに」
 思わずぽろりとこぼしたら、犬の餌を床に置いた勇利は眉を上げた。
「俺がこんな事をするとは思わなかった、という顔だな」
「だって……あんた、金持ちっぽいし。人を雇う金なんていくらでもあるだろ」
「銀の匙をくわえて生まれたわけじゃないからな。
 時間がない時は別として、自分でやれる事はするさ」
「……そうなんだ」
 勇利の意外な一面に動揺しつつ、促されるままフォークを手に取る。
 カリカリに焼いたベーコンは肉厚。白と黄色のコントラストも見事な、ぷっくりした目玉焼きは味も濃厚で、どう考えても素材からして一級品で、文句なく美味い。
 最初は遠慮していたのに、思わず本気になってかぶりついていると、
「――昨日の連中については、始末をつけておいた」
 ナイフとフォークで優雅に切り分けながら、勇利が口を開いた。ぴくっと視線を上げたこちらに頷き、
「今後は一切、手を出してこないだろう。家に帰っても大丈夫だ」
「そ、そうなのか? あんた何したんだ」
 昨日助けられた時に聞こえた、明らかに重傷を負わせた音を思い出す。
 始末ってまさかとどめを刺したんじゃ、と青ざめたが、
「俺じゃない、白都が手を打った。
 連中の落とした財布に、ご丁寧にIDカードが入ってたんでな。
 そこから芋づる式に仲間を引きずり出して、首謀者にたどりついて、それが予想通り、お前の次の対戦相手だった。
 奴は半年の出場停止、しばらくは白都の監視下に置かれる」
 半年。
 メガロニアの開催が近づく中、ランク九十位台の選手がそれだけ出場停止になれば、死刑宣告も同然だ。
「本来なら、選手登録を抹消になってもおかしくはない。
だがそうなれば、世間に対して理由の説明が必要になる。
 ……お前の了解なしに、そこまでやるのはどうかと思ってな。一旦、そこまでにしてもらった」
「…………」
 確かに、何の説明もなく登録抹消となれば、世間は何があったのかといぶかしむだろう。
 かといって事の次第を明らかにすれば――自分が襲われた事件を、語らなければならなくなる。
(実際未遂だったとはいえ……世間の連中はきっと面白おかしく騒ぎ立てる)
 女がメガロボクスにしゃしゃり出るのが悪い。
 夜遅くに出歩いたんだから自業自得だ。
 どうせめちゃくちゃに犯されたのだろう、何なら自分から誘ったに違いない――
 馬乗りになって中傷を浴びせかけてきたあの男の言葉は、世間に対する自分への悪印象そのものだ。
「……悪口なんて慣れてる。公表しても、よかったのに」
 言葉とは裏腹に、目がずきりと痛み、視界がわずかに濁る。急に喉の渇きを覚え、慌ててジュースを口に運ぶと、
「そんなものに慣れる必要はない。
 ――お前はボクサーだ。リングで闘う事だけに集中すればいい。
 余計な雑音に耳を貸すな。お前を知らない奴らの言葉には、何の意味もない」
 静かに、断ずるように勇利が言った。
 感情を抑えたその声は、しかしかえってその底に沈む、ふつふつとした怒りを伝えてくるようだ。
(……勇利が、怒ってる?)
 誰に。自分にか。
 いや、違う――多分、無責任な野次を飛ばし、自分を踏みつけにしようとする連中に、だ。
(何で、あんたが怒ってくれるんだ)
 問いかけようとして、言葉が出なくて、思わずフォークを握る手に力がこもる。
 ――理不尽な暴力には慣れている。いつもの事だ。
 けれど本当は、慣れてなどいない。
 それは何度も自分を打ちのめし、地面にたたきつけ、嘲り笑ってずたずたに引き裂いてきた。
 慣れる、訳がない。
 本当はいつだって、もういやだ、傷つきたくない、やめてくれ、助けてくれ、と叫び続けていた。
 どうせ誰にも届かないのだと諦めながら、それでも心底では、救いの手が差し伸べられる事を、期待していた。
 自分の為に怒ってくれる誰かを、ずっと、求めていた――多分、今の勇利のような人を。
(……やばい、泣きそうだ)
 目の奥が熱くなって、眼のふちに涙が溢れそうになる。急に泣き出したら、きっと変に思われるだろう。
 ばれないように慌てて拭いながら、
「……あ、ありがとう、勇利。凄く……凄く、助かる」
 鼻をすすりながら、かろうじて礼を口にすると、勇利はふっと肩の力を抜いた。
 雰囲気を変えるように、ところで、と言い出す。
「昨日はよく眠れたか。結局あいつと寝ていたようだが」
 餌を食べ終わった犬は、日当りのいい場所へ移動して、ごろんと横になっている。
 気ままな姿につい笑みを誘われながら、
「うん。ぐっすりだ。あんたのベッドだからかな。あいつと、あんたの匂いがして、凄く気持ちよかったよ」
 素直に感想を述べたら、
 ギジッ。
 妙なきしみ音が響いた。
 何の音かと犬から正面に視線を戻すと、ナイフを持った手を額に当て、勇利がなぜか俯いていた。
「勇利? どうした?」
「……お前……、いや、……」
 眉間に寄ったしわをぐりっと押した後、顔を上げた彼の表情は、何とも苦渋に満ちている。
「……キトゥン、今のはよそで言うな」
「! そんなの当たり前だろ、ばれたらあんたのファンにぶっ殺されるじゃんか!」
 さすがに最近は勇利の人気ぶりと、グルーピーの怖さを理解している。
 昨日今日の事を口外すれば、それこそカミソリレターがわんさと届くだろう。
 何を言わずもがなの事を、と声を高めたが、
「そういう話ではなくて、だな…………、いや、もう、良い。お前はとにかく、黙っていれば、それでいい」
 勇利は憂い顔で、聞いた事もないような特大のため息をついたのだった。