デイ・アフター・デイ

 早朝、扉を開けてジムの中へ入る。
 ロードワークにも早い時間、誰もいないだろうと思ったのだが、見当が外れた。
 しゅっ、しゅっとこすれる音を聞きとがめて、そちらへ視線を向ける。女が一人、床にモップ掛けをしているのが眼に入った。
「……ずいぶん早いな。一番乗りか」
 丸まった背中に声をかけると、相手はびくっとして振り返った。そのつぶらな目を瞬かせてから、表情を和らげる。
「勇利。あんたか、びっくりした。こんな時間に誰か来るなんて思わなかったよ」
「それはこっちの台詞だ」
 言いながら近づいて見下ろし、勇利は眉根を寄せた。
 おはよう、と屈託ない挨拶をしてくる女の鼻の頭、そこに貼ってあるテープが、半分はがれて垂れ下がっている。
「とれかけてるぞ」
 自分の鼻を指して指摘すると、女は今初めて気づいたのか、手で触れる。
「えっ、あれっ。さっき貼り直したばっかりなのに」
「薬の塗りすぎじゃないか」
「あぁ、そうか。何も貼らない方がいいかな……でも顔洗いにくいし」
 ぶつぶつ言いながらテープをはがすと、その下から赤い線を引いたような傷が現れる。勇利は咄嗟に、
(傷のつくような事をしたのか)
 と言いかけ、やめる。
 そんな事を言えば、女扱いするなと噛みつかれるだろう。代わりに、
「――スパーリングをしたのか」
「ああ、そうなんだよ! まだ早いって言われたし、ボコボコにされたけど、すっげぇ楽しかった!」
 途端、ぱっと女の顔が輝く。
 よく見れば鼻の傷以外にも痣が出来ていて、話すたびにイテ、と呟きが漏れるが、本人はたいそうご満悦だ。
 スウェットのポケットから、テープを取り出しながら、
「これまでずっと、女にボクシングなんてやれるかって、何にもさせてもらえなかったからさ。
 入ったばかりの時はともかく、最近は皆ちゃんと相手してくれて嬉しいよ」
「そうか。まだ雑用の方が多いだろう」
 ジムに入ったばかりの新人は、基礎トレーニングと雑用が時間の大半を占める。厳しいしごきと退屈な仕事にうんざりして、辞めていく者も多い。
 だが、彼女はそうでもないようだ。モップを腕に抱え、
「まぁね。でもちゃんと体力づくりさせてもらえるし、皆がやってるところを見るだけでも勉強になる。
 ここにいさせてもらうだけでも楽しいよ、掃除だの洗濯だのは別に苦にならないな」
 心底嬉しそうに笑っている。
 掛け値なしの本気で楽しんでいるらしいのを見て取って、勇利もわずかに頬を緩めた。
 常に感情を素直に発露する彼女を見ていると、何か胸がすっとする。
「そうか。……そのままだとずれるぞ」
 話の最中、傷が覆い隠せないような位置にテープを近づけていたので、止める。
 あれ、と頭をかいた女が「鏡見ないと……面倒だな、やっぱ放っておくか」とブツブツ言っているのを聞きとがめて、
「貸せ。貼ってやる」
 しょうがない奴だと取り上げて、ちょうどいい長さに切った。
 そして相手の顔に手を寄せると、
「わっ……と、あんた、手でかいな」
 テープを持った指が眼の近くをかすめたのか、女が反射的に瞼を下ろした。
 そのまま目を閉じ、素直に顔を突き出している様を見て、
「…………」
 何となく、たじろぐ。
 出会ってからまだ間もないのに、この女はあけっぴろげにすぎないか。
(あまり、無防備にされてもな)
 互いをよく知りもしないのに、身に覚えのない全幅の信頼を寄せられても、困惑するばかりだ。
(もう少し、他の人間に対してと同じように、警戒心を持つべきだろう)
「……できたぞ」
 とはいえ、そう言ったところで通じる気がしないので、心中でだけ呟いて、テープを貼る。
 目を開けた女はその具合を確かめて、「サンキュー! 勇利」気安い礼を告げると、鼻歌を歌いながら掃除に戻った。
 その小柄な背中を見やって、勇利は軽く首をかいた。
 彼女といると何か、調子が狂う気がする。