「――出入り禁止と聞いた。ジムに入ったその日に、何をしてる」
狭いワンルーム、ふてくされてベッドで横になっていたら、めったにない来客が無遠慮に入り込んできた。
背を向けているので、相手がどんな顔をしているかは見えない。
だがきっと彼はいつものように、落ち着き払った表情をしているのだろう。
振り返る気にはなれなかった。
何も、とそっけなく言い返してシーツに顔をうずめると、身じろぎの気配が伝わってくる。
「あちらはお前にいきなり殴られた、と抗議している。
何も弁明しないのか」
「…………殴ったのは嘘じゃない。好きにすればいい」
「投げやりだな。……残念だ」
「!」
ため息交じりの言葉にどきりとして、思わず身を起こした。
小さなテーブルをはさんで向こう側に座った男――キング・オブ・キングス、勇利と視線が合う。
彼は切れ長の目でこちらを見つめた後、肩をすくめた。
「俺にボクシングをやらせてくれ、と必死にすがりついてきたから、情けで入れてやったんだが。
初日で音を上げるとは思わなかった」
「音を上げたわけじゃない!」
カッとなって噛みつく。その勢いに動じる事なく、勇利はかすかに頭を傾けて、
「それなら、なぜだ。どうしてあいつらを殴った」
淡々と尋ねてきた。
「っ…………」
言いよどむ。言いたくない。だが、ここで言わなければ、自分の信念が疑われる。
ベッドにあぐらをかいて、視線を落としたまま、しょうがなく口を開いた。
「……あいつらが……って、言ったから」
「何だ」
「っ、お前がジムに入れたのは、勇利と寝たからだろうって言ったからだ!」
その言葉を繰り返した途端、あの時と同じように、腹の底が熱くなる。
ついでに顔まで熱を帯びたのは、よりによって本人に言う羽目になったからだろう。
腹立たしいのと恥ずかしいのとで顔を伏せたまま、足の上で拳を握っていたら、再びため息が聞こえた。
「それでカッとなって殴った、か。
……俺がよそ者を引っ張ってきて、ジムに入所させるのは、お前が初めてだ。
それでちょっかいを出されるかもしれない、と言っておいただろう。そのくらい、我慢できなかったのか」
「あんたが寝た女を囲い込んでる、なんて言われたら、我慢できるか」
ぶすっとして吐き捨てる。と、間を挟んだ後、
「……俺が女を囲ってると言われたから、殴ったのか?」
固い声で問われた。
その調子に違和感があって視線を上げると、勇利は目を軽く瞠り、驚いたような顔をしている。
あまり感情を見せない人なのに、何でそんな顔をと訝しみながら、
「そんなの当然だろう。
女がメガロボクスをやりたいと言ってるのに、笑わないでマジで話を聞いて、しかもジムにまで入れてくれたのはあんただけだ。
……あんたは恩人だ。一応、感謝してる、んだよ。
だから、自分のせいであんたが悪く言われるなんて、我慢ならない」
話している内に何となく気恥ずかしくなって、後半はぼそぼそと付け足すように呟く。
こんな風に自分の正直な気持ちを吐露するのは、苦手だ。
いつだって怒鳴られ怒鳴り返し、殴られ殴り返すような環境で生きてきたから、話し合いなんて向いてない。
だから初めてボクシングを見た時、自分がやりたい事はこれだと思った。
ギアをつければ、誰に虐げられることなく、自分の力で生きていける。
メガロボクスをやればそれが叶うのだと、生まれて初めての希望を抱いた。
だがそんな夢は、語るたびに馬鹿にされ、否定された。
女がボクシングなんて出来るわけがない。
女が体や顔に傷をつけるなんてありえない。
女が男に敵うはずがない。
誰もかれもが、彼女の願いを、ただの夢物語だと笑った。
(初めてだったんだ。……笑わずに聞いてくれたのは、あんただけだった)
いつも画面の向こうに見ていた、キング・オブ・キングス。
すらりと背の高い、鍛え抜かれた鋼の体をした、神のような男。
憧れ、崇拝にすら近い気持ちを抱いていた彼が、目の前に偶然現れた時。
自分の中でくすぶっていた火が、一気に燃え上がったような錯覚を覚え、
――メガロニアに出たいんだ!
気づいた時にはそう叫んで、しがみついていた。
初めはただの物乞いと払いのけたキングは、それでもしつこく追いすがると足を止め、一言二言拒絶を口にし、やがてこちらの話に耳を傾けてくれた。
――本気でやりたいのなら、あがけ。誰もお前を助けはしない。
そう言いながら、しまいには、ジムに口利きしてやると折れてくれた。
「メガロニアに出たい。その為に鍛えたい。でも、あんたを悪く言う奴は嫌いだ。そんな連中と一緒に居たくない。
……それじゃ、駄目か」
「…………」
沈黙が落ちる。
多分、彼は呆れているんだろう。何て短気な奴だ、早まったことをした、と。
結局、自分はどこにいってもこうなのだ。
夢を叶えるどころか、恩人の顔に泥を塗って恥をかかせ、報いる事さえ出来ない。
役立たずだ、情けなくてヘドがでる。
勇利に謝って、正式に辞めさせてもらうべきだ。嫌だけど、そうすべきだ。
畜生、と歯噛みして、しぶしぶ口を開こうとしたら、
「……お前の言い分は分かった。ジムの連中には、俺から言っておく」
長い沈黙を破って、低い声が響いた。え、と顔を向ければ、勇利は視線を背けて、
「だが、こういうのは一度限りにしておけ。次は庇いきれない」
「勇利?」
「明日からまた来い。本気でやりたいのなら、本気であがけ」
呼び留めようとするのも間に合わず、彼はさっさと出て行ってしまった。
(……続けて、いいのか)
信じられない。けれど勇利が言うのなら、他の連中も従わざるを得ないだろう。
(キングに迷惑なんて、かけたくないのに)
彼の好意に甘えるのは心苦しい。人の親切に慣れていないから、居心地も悪い。
だが夢を諦めずに済むのだと思うと、どうしても嬉しさがこみあげてくる。
「……ありがとう」
言いそびれた礼は、明日また言いに行こう。
そう思いながら、ありえない幸福を噛みしめて、拳を強く握った。
希望はまだ、途絶えていない。