With Flowers

雪柳ゆきやなぎ

 一際きつい傾斜を登り切ったところで、ふうと一息ついた。
 後ろを振り返ってみれば、視界に広がるのは木々に覆われた山肌、その向こうに荒野に囲まれた街の遠景。吹き抜ける風は、あの街の中で吸っていたものとは全く違う清涼さで、心地が良い。
(いまさら、ボーイスカウトの経験が役に立つとはな)
 子どもの頃を思い出し、少し笑う。
 街の生活しか知らなかったあの頃は、丘を一つ越えるだけで息が切れ、火を起こすのも時間がかかって、ひどく難儀した。
 それが今は、鍛えた体のおかげでこうやって苦もなく登れるし、このほど導入した暖炉に使う枯れ木だって、いくらでも抱えられるようになった。
(不思議なものだ。俺がこうして山の中で暮らしているなんて)
 自分が昔より成長したこと、そしてかつては想像したこともない環境の変化が、面白い。
 ラボのAIギア開発も無論楽しんでいたが、同時にままならない現状に苛立ち、周囲へ当たり散らして余裕がなかった。
 それが今はいつも気持ちがおおらかで、時間を気にせずゆったり過ごしたり、気ままに大工仕事に打ち込める――まあ、テクノロジーを完全に捨て去るには至らないが。
(そうそう人は変わらない。俺も元に戻っただけだ)
 昔、ボーイスカウトをしていた頃の自分は、今のようだった。
 そう思い出せば、長い回り道をしていたようにも感じられる。
 白都樹生として、己の地位に執着し、憎悪していたあの日々は何だったのだろう。もはや道を見失っている事に、早く気づけばよかった。そうすれば、もっと違う生き方が出来たかもしれないのに――
「!」
 そう考えて視線を巡らせた時、あたり一面緑が生い茂る中にちかっと白が見えた。
 何の気なしに目を向ければ、灌木の中から細い枝を伸ばし、円を描いて地面にこうべを垂れる白い花がある。
 指先ほどの大きさの花々は枝を覆わんばかりに群れを成し、小さな身を寄せ合って風に小さく揺れていた。
「――雪柳。だったか」
 花を特に好んだ事はないが、昔図鑑を読みふけっていて、本を片手に野花を観察した事がある。その時あの花を見つけて、
『この花、ゆき子みたいだ。ちいさくて、しろくて、かわいいから』
 自分のその言葉に、文字通り花のような笑顔を見せた少女も思い出して、樹生はふ、と笑ってしまった。
(俺は色々と忘れていたんだな。……本当に、色んなものを)
 これで最後と足元の枯れ木を拾い、思う。
 今はもう、焦る必要がない。
 だから、これまで見落としてきた大事なものを、少しずつ取り戻していこう。
 そう思いながら、樹生は元来た道をゆっくりと戻り始めたのだった。

さくら

 これで最後の一押し、と車輪を回す。
 ようやく坂を上り切ったと安堵したところで、どっと疲れが押し寄せてきた。
 はぁ、と息を吐き、背もたれに寄り掛かった。仰ぎ見た空は、晴れ渡っている。
 今日は暑くなくて助かった。
 もしいつものような気温だったら、額に汗がにじむ程度では済まなかっただろう。
 切れる息が落ち着くまでと、上を向いたまま目を閉じる。
(以前より、ずっと時間がかかっている。……当然だな)
 分かってはいた。ようやく退院して自宅に戻っても、以前と同じ生活が送れるわけではないと。
 病院にいる間に車椅子の扱いには多少慣れたつもりでも、バリアフリーではない家や周囲の環境になれば、苦労するのは当然だ。
 それに怖気づいて閉じこもっていても仕方がないと、毎朝のランニングコースを試しに回ってみたが――半分来るのに、すでに倍以上の時間がかかっている。
 この辺りは坂が多かったんだな、と今更気づいて、四苦八苦しながら登ったはいいものの、しばらく動きたくないほど疲れが酷い。
(力が無い。筋肉も落ちている。車椅子はあちこちに引っかかる。これほど苦労するものか)
 頭で分かっていても、実感とは違う。
 ギアをはぎ取り、死闘を潜り抜けた身で、生きているだけでも奇跡。それだけで素晴らしい事なのだと思っても、いざ日常に戻ってくると、失ったものを再認識する。
 以前は何も考えず、自然に出来た事が、今は出来ない。出来ても、ひどく苦労する。
 その事実が、時折重くのしかかってくる。
(……考えるな。出来ない事を数えるのではなく、出来る事を増やしていけばいい)
 昔もそうだった。
 メガロボクスを始めたばかりの頃、リングで打ち倒されるくやしさに歯噛みして己を厭うより、一分でも多く練習を積み重ねていく方が大事なのだと、そう教わった。
 大丈夫。あなたなら出来ますよ、と優しく語り掛けてくれた恩師の言葉が何年かぶりに耳に蘇り、目を開く。
 と、何かが視界の中でひらりと舞った。
「?」
 目で追うと、それは風に揺られながら宙をすべり、音もなく膝の上に舞い降りる。
(――花びら?)
 桃色の薄い花びら。それをつまんで視線を上げれば、道から少し離れたところに花に覆われた木が見えた。
 息が落ち着いてきたので、車輪を掴んでそちらへ向かう。
 アスファルトから芝生の上に移動するのに少し苦労しながら、その木の根元へ近づき、真下から見上げてみる。
 さほど大きな木ではない。
 だが見事な佇まいだ。
 どっしりと根を下ろした太い幹から方々に延びる枝はその先にいたるまで、今を盛りと花で埋め尽くし、風に揺られるたびに、その花びらを散らしている。
(こんなところに桜があったのか。知らなかった)
 自宅の周辺のコース、もう何年も同じ道をたどっていたのに、少しも気づかなかった。
 ……否、気づこうとしなかったのか。
 メガロボクス以外の事は何も眼中になかったから、見ようともしなかった。
 そう思った時、ふ、と肩の力が抜けた。
 ああ、そうだ。確かに今の自分は失ったものが多く、それを惜しくも思う。
 だがこうして、今まで見えていなかったものを、見つける事もできるじゃないか。
(……今度、ジミーさんのところへ行こう)
 今はまだ自分の生活を取り戻すのに必死で、余裕がない。だが落ち着いたら必ず、あの人に会いに行こう。
 そしてもし出来るのなら、また共に時間を過ごしたい。今目の前で咲き誇る、この桜の美しさを共に分かち合いたい――。
 そんな事を思いながら、勇利は穏やかな気持ちで、緩やかに散っていく花の風に目を細めたのだった。

曼珠沙華まんじゅしゃげ

 その花は、いつの間にかそこに咲いていた。
「あっ、こんなところに咲いてやがる。片付けねぇと」
 南部の声に振り返ると、彼はジムの壁際で、見慣れぬ花を前に頭をかいている。
「どうしたよ、おっさん」
「マンジュシャゲだよ。こいつどこでも根付いて、しかもなかなか除草できねぇんだ」
「そんなほそっこいのにか」
 南部の言う花は葉っぱもないほっそりとした茎の上に、幅の細い花びらが円状に寄り集まっていて、風に揺れていた。何とも頼りなげな様子で、さほど力を入れずとも、あっさり抜けそうに見える。
「畑から離れてるんだし、ほっときゃいいじゃねぇか」
「駄目だ。マンジュシャゲはほっとくと、あっという間に増えるからな。気づいた時にやっとかねぇと面倒だ。おまけにヒガンバナなんて名前ついてんだぞ。縁起でもねぇ」
「ヒガンバナ?」
「ああ、墓場に良く咲いてるからな。おまけにこの色、真っ赤で血みたいじゃねぇか。どうにも気味が悪いだろ」
 さっさとやっつけるか、と南部はスコップを取りに物置へと向かっていった。
 一人残ったジョーは、特にどうという事もなく、花へ視線を戻す。
(ヒガンバナ、ね)
 花の名前は知らない。興味もない。
 あまりにも知らなさ過ぎてサチオに怒られたが、知らなくても生きていけるから問題ない。
 だが何となく――この花の名前や佇まいが、引っかかった。
『おまけにこの色、真っ赤で血みたいじゃねぇか』
 南部の言葉が頭をよぎる。
 近づいてそっと手を伸ばし、触れてみた――当たり前だが、手が血で汚れるようなことはない。
 見た目通りの薄く細い花びらの感触が伝わってくるばかりで、あっという間に儚く消えてしまいそうだ。
「…………」
 不意に、何かが抜け落ちる。昔からある感覚。生きている自分をよそから観察しているような、生きている感覚がないような、抜け殻の客観視。
 花は何も言わず、一人で立って一人で咲いている。
 華奢で、風に揺れ人の手で簡単に摘み取られ、真っ赤な花びらを散らせる儚い存在……それでいて、誰の目にも留まらない隅に根付き、茎をのばし、また花を咲かせる、したたかな生き方。
「……おいジョー、どうした? 抜くならさっさとやってくれや」
「!」
 ぼうっとしている内に南部が戻ってきて、後ろからどやしつけてくる。何でもねぇよ、と答えてその場から下がると、変な奴と肩をすくませて、南部はスコップで土を掘り返し始めた。
 抵抗もなくあっさり引き倒され、地面に投げ出されたその花を、ジョーはじっと見つめる。
 胸の内に去来するこの思いが何なのかは、いまだに分からない。

向日葵ひまわり

 うなだれた花はすっかり枯れ果て、夏の盛りは過ぎたと身をもって示している。
 しおれた花びらに囲まれた中央の部分は黄色から黒へ変わり、今にも零れ落ちてしまいそうだ。
「アラガキ、何をしてるんだ?」
 それをつまんで集めていたら、ミヤギに声をかけられた。ああ、と肩越しに振り返って答える。
「種を集めてるんだ」
「種? なんだ、ひまわり畑でも作る気か」
「いや。炒って食べる」
 答えたら妙な顔をされたので、ああそういえばこういう習慣はないのか、と遅れて気づいた。作業をしながら、少し笑う。
「従軍先で、現地の友人によく分けてもらったんだ。あっちはひまわりの種をおやつ代わりにする」
「ああ、そういう事か。うまいのか?」
「うーん、そうだな……素朴な味だよ。炒って塩をかけるだけだからな。
 女たちは他にも色々入れて、ケーキのようなものを作ってたが、さすがにそっちは知らない」
「なるほど、ナッツみたいなものか」
 確かにそれに近い。頷いて、採取を続ける。
(たまに、無性に食べたくなるんだよな)
 格別に絶品というわけでもなく、人に勧めるものでもない。
 ただ時折、乾いた風が吹き抜けるあの戦場と共に、自分を古くからの友人のように受け入れ、食事を共にし、笑いあった人々を思い出して、胸が締め付けられる。
 今日はそんな夢を見た。
 そしてあの時のひまわりの種の味が恋しくなって、いてもたってもいられなくなった。
 気づいたら、近所で咲いていたひまわりからこうして、丁寧に種を集めている自分がいる。
(地獄のような戦場――だが、辛いばかりじゃなかった)
 そう考えるようになったのは、つい最近の事だ。
 苦しみの幕をかぶせ、心の底に奥底にしまい込んでいた過去を、懐かしく思い出していたら、ふっと影が視界の端をよぎる。
 目を向ければ、隣のひまわりに手を伸ばして、ミヤギもまた種を回収し始めていた。
「一人じゃ終わらんだろう。どうせ、皆も食べたがるだろうしな」
「……そうだな。じゃあ来年の分だけ、残しておいてくれ」
 そして今この時も、自分は人に助けられている。
 その事をあらためて噛みしめ、アラガキは小さな種を手で包み込んだ。

常緑樹じょうりょくじゅ

 久しぶりに訪れた公園は昼下がりなのもあって、親子連れや老人がのどかに日向ぼっこをしている。
 暗がりにこもりっぱなしだったので、久しぶりに太陽の下へはい出てみたが、やはり場違いだったようだ。とりあえず人のいない方へ向かい、奥のベンチに目を付ける。
 歩み寄って座面に触れてみれば、長い事誰も利用していないのか、だいぶ汚れていた。指三本分、拭った埃をこすり落とす。
 そして胸ポケットのハンカチを広げて敷き、腰を落ち着けた。懐から煙草を取りだして火をつける。
 吸う。口中に広がる馴染んだ味と香りが鼻へ抜けていくのを感じる。
 薄く開いた唇から吐いた煙がゆるゆると上っていくのを目で追えば、頭上に広がる緑葉に紛れて消え失せていく。
(……変わらねえな)
 その感慨は、そういえば以前もここで一服した事があった、と思い出したからだ。
 いつだったか覚えていないが、あの時も柄になく日の光を浴びる気になって公園に来たはいいが、居場所が見つからず、結局ここへ落ち着いた。
 そしてこうやって煙をくゆらせていた気がする……同じように、生い茂る木々を見上げて。
(俺もお前も、何年経っても代わり映えしねぇ)
 くわえ煙草を見せつけるように揺らし、自嘲を込めて語り掛ける。
 いつ見ても青々とした葉を茂らせる木々は、穏やかな時を過ごす平和な人々から彼を隔離し、素知らぬ顔で風に吹かれるまま。
 昔も今も明るい陽光の元でのびのびする事に慣れていない臆病者には、都合の良い隠れ場所というものだ。

花一華アネモネ

 人に贈る花束。そんなものを作る気になったのは、ずいぶん久しぶりだ。
『サチオ君。あなたのお父さんから研究を奪った者を特定したわ。――あなたが望むのなら、』
 そう告げたあの人はいつものように凛とした表情で、淡々と事実だけを言ってくれた。だから、
『何もしなくていいよ。……もういいんだ』
 その言葉を返した時、一瞬辛そうな顔をさせてしまったのが、申し訳なく思えた。
 机の上に並べた花を、一つずつ重ねていく。
 金がないから、豪華な花束は作れない。
 道端の花や草、なけなしのお小遣いをはたいた小粒の花、そんな花束はひどく貧相で、きっとあの人から見ればみすぼらしいだろう。
『おれはもう、大丈夫だから。ありがとう、ゆき子さん』
 一度は殺したいほど憎んだ人に、そう言えた自分にほっとした。
 そしてこの人をもう傷つけたくないと、そう思える自分に少し驚いた。
 生まれながらに全てに恵まれた人間。弱い者を踏みつけ、不幸など知らない顔をして頂点に立つ金持ち。
 そう思い込んでいたあの人が、本当は優しい人なのだと分かったから。
「……喜んでくれると、いいな」
 紙で包み、せめて可愛らしく見えるようにと赤いリボンを結んで、花束を抱える。あの人の笑顔を思い浮かべて、幸せな気持ちと、少し不安な気持ちも一緒に抱え込んで。

加密列カミツレ

 ふう、と大きなため息をついて、背もたれによりかかった。
 常日頃、多忙に慣れてはいるつもりだが、時折どっと疲れが押し寄せてくる事がある。
 気を抜くとこうだ、疲労で体が重いし、頭も痛い。
(後で薬を飲まなきゃ駄目ね)
 鎮痛剤に頼るのはよくない、きちんと休んで下さいとかかりつけの医者に注意されてはいるものの、そうも言ってられない。
 メガロニアプロジェクトを成功させたおかげで役員たちも大人しくなっているとはいえ、一時的なものだ。
 何かミスをすれば、それみたことか、女に社長など務まるはずがない、大人しく自分たちにまかせて引っ込んでいろと増長するに決まっているのだから。
(まだ気は抜けない。ギアの一般普及の足がかりをようやくつかんで、これからが正念場よ)
 まずは軍隊で実践を詰み、広範にデータを収集して、改良を重ねる。同時に後継機や派生パターンも考えなければ。ギアの可能性は無限大、これからあらゆる分野に進出して、人々の役に立てるように――
「ゆき子さん」
「!」
 ふ、と柔らかなりんごの香りが鼻をくすぐり、かちゃりと小さな音が思索を妨げた。
 目を向ければ、いつの間にやってきたのか、デスクの向こうに朝本が立っていた。ふわりと湯気が視界を遮ったので手元を見れば、お気に入りのティーカップが置かれている。
「朝本さん」
「少し根を詰めすぎですよ、ゆき子さん。カモミールティーをいれてきましたから、今日はそれを飲んで、もうお休みください」
 優しく諭す声は側近の部下としてではなく、昔ながらの母代わりのそれだ。
 こういう時は逆らっても、意味がない。何を言っても駄々をこねる子どものように扱われてしまうから、
「……わかったわ。ありがとう」
 それだけ答え、カップを持ち上げた。
 そっと口をつけると、温もりとハーブの香りが口中に広がり、張り詰めていた気持ちが緩くほどけていくのが分かる。
(おいしい)
 このお茶を特に美味と感じる時は、大抵疲れている時だ。確かに休むべきなのだろうと苦笑して、ゆき子は心づくしの茶をゆっくりと味わうことにしたのだった。

2020/4/6 放送2周年によせて。