in the Rain.(血界戦線スティーブン&チェイン)

 ちょっと近くのニューススタンドで新聞を買ってこようと、財布だけ持って出たのが失敗だった。 「ああ……これは無理だなぁ」  霧と雨の幕に覆われた街並みを見渡して、スティーブンはため息を漏らした。  ヘルサレムズタイムズを手にしたところで、ぽつりと頬に水滴を感じた。  と思った次の瞬間、猛烈な勢いで雨が降り注ぎはじめ、ヘルサレムズ・ロットの雑然とした通りはハチの巣をつついたような大騒ぎになった。  慌てて近くの雑貨屋の軒先へ避難したはいいものの、雨は地面に激しく打ち付けて、やむ気配もない。 (別に濡れて帰ってもいいんだが……新聞が読めなくなるのは困るし、これじゃ前も見えないから危ないな)  もとより霧咽るヘルサレムズ・ロットは視界のきかない街ではある。  今はさらに雨と霧の相乗効果で、目の前も判然としなかった。  数十年に一度の怪奇が突然顔を出し、道路を走っていればチェーンソーに襲われるような街で視界不良は命取りだ。 (仕方ない。落ち着くまで少し待つか……あるいは強引に帰るか)  急ぎの仕事があるわけではないが、息抜きのつもりで外出しただけなので、書類はまだまだ残っている。  危険を承知で、せめて雨だけでもしのげるようにレインコートでも買うか。  そう思って後ろの雑貨店を振り返った時、かららんと鈴を鳴らしてドアが開いた。何気なく視線をやったスティーブンは、軽く驚く。 「チェイン。君も足止めかい」 「……あー。これは、見事に降ってますね」  ひょいと顔を出したのは、黒スーツの人狼だった。容赦なく降り注ぐ雨を見やり、きゅっと鼻の頭にしわを寄せる。 「念のため要るかなと思って買ったんですけど、正解だったみたい」 「ん?」  何の事かと声を漏らすと、チェインは雑貨店のシールが柄に張ってある傘を手の中で振ってみせた。なるほど、確かに正解だ。チェインはそれを広げながら、こちらを見上げた。 「スティーブンさん、よかったら使いますか? 事務所に戻るんですよね」 「ああ……入れてもらえるなら助かるな。何しろ手ぶらで出てきたものだから」  これはタイムリーだと相手の提案に乗っかる。と、チェインは「え?」と目を丸くした。 「え? 君もこれから帰るんじゃないのかい? それとも他に行く用事があるのかな」  一人合点してしまったかと問いかけるスティーブン。チェインはパチパチとつぶらな目を瞬かせた後、 「あ……い、いえ。事務所に、帰ります……よ」  なぜか言いよどみながら答える。その反応に、 (何か悪い事を言ったかな?)  首を傾げたスティーブンだが、まぁいいか、と深く考えずにチェインの手から傘を受け取った。飾り気のない黒の傘はボタンを押すと勢いよく開く。 「それじゃあ行こうか、チェイン」  身長の関係上、自分がもった方が良いだろうと判断して、傘を掲げたスティーブンはチェインに声をかける。肩をすぼめた人狼はなぜか少し困った顔で、はい、と小さく応えた。  傘に雨が当たって、ボタボタボタと激しく音を鳴らしている。  その重さに傘が揺れるのを手で押さえつつ、スティーブンはうーん、と唸ってしまった。 (傘の幅が大きいから、二人でも十分……なはずなんだが)  さっきから体の半分が冷たい。降り注ぐ雨は容赦なくスティーブンのスーツを濡らして色を染め変えようとしている。 「……スティーブンさん。傘傾けすぎです、濡れちゃってますよ」  しばらく歩いてからチェインもそれに気づいたのか、指摘してくる。が、それは半分君のせいでもあるんだが。 「チェイン、そう思うなら、あんまり離れないでくれるか。そう距離を取られると、せっかく傘があっても、二人とも濡れ鼠だ」  スティーブンが指摘し返したのは、隣、といい難いほどチェインが離れてしまっているからだ。傘がそれを追いかけていくものだから、自然スティーブンの体半分も傘の外に出てしまうわけだ。 「私の事は気にしないでください、大丈夫です」  そういってチェインはぐいと傘を押し返した。そりゃ駄目だ、とスティーブンも押し戻す。 「クラウスじゃないが、レディをずぶ濡れにしてしまうなんて、紳士のする事じゃないだろ?」  女性をほっといて自分だけ傘におさまるなんて出来るわけがない。抗弁したら、チェインはちょっと赤面して、小さく首を振った。 「……私なら希釈すれば、雨は通り抜けますから。濡れてないでしょう、ほら」  そういってチェインは自分自身を手振りで示してみせた。  言われてみれば、目の前が煙るほどの雨だというのに、確かにチェインは全く濡れていなかった。よくよく見れば、雨は彼女をすり抜けて、足元の地面を叩いている。 「へぇ、不可視の人狼は便利だな」  それなら確かに傘は必要ないな。納得したスティーブンは手元に傘を戻した。しかしいくら濡れないとはいえ、やはり雨の中、女性を歩かせるのはどんなものか、と思った次の瞬間、 (……ん? じゃあ何でチェインは傘を買ったんだ?)  その疑問が頭をよぎって、スティーブンは目を上げた。  ふちからひっきりなしに雫を垂らす傘は、雨の時だけ出てくるアンブレラスタンドの安物ではなく、作りのしっかりしたもののようだ。  真っ黒な布地は、チェインの色合いと同じなので不思議に思わなかったが、よくよく見ればこれは、男物の傘ではないか。 (あれ。もしかして)  そこで一つの可能性に気づく。  チェインは傘を必要としない。存在を希釈すれば水滴の一粒も触れる事がないのだから、突然の雨でも困りはしないだろう。  外出を終え、事務所に帰る途中、彼女は雑貨屋で立ち往生している自分に気づいたのではないだろうか。  さてどうしようかと思案しているスティーブンの横を、希釈したまますり抜けて店に入り、まるで自分のもののように傘を買って、出てきたのだとすれば。 「…………」  ぴた、と足が止まる。不意の動作に、数歩先へ歩いて行ったチェインが立ち止って、「スティーブンさん? どうしたんですか」と振り返る。  聞いてみようか。もしかしてこれは、わざわざ彼の為に買ってくれたのかと。  そう思ったが、それでは素知らぬ顔で傘を差しだしてきたチェインの心遣いを無にするような気がして、舌が重くなった。  なので代わりに、スティーブンは大きく足を踏み出して、チェインのすぐ傍に立った。その体を雨から守るように傘を傾けて、 「チェイン、隣にいてくれよ。さもないと俺が濡れて困るからさ」  ふっと笑って顔を覗き込んだ。するとチェインは白い肌にぱっと朱色を散らした。  で、でも、と何事か言い募ろうとするのを遮って、スティーブンは「いいからいいから」と歩調を合わせて歩き出す。  本日のヘルサレムズ・ロットはあいにくの雨模様。  おかげでスーツは半分びしょ濡れ、ぴかぴかの革靴も今や見る影なし。  だけどたまには雨の日も、いいもんだ。 晴天はないけど、雨はあるんじゃないかなと思ったので。 外国の人はあんまり傘持ち歩かないみたいですね。 チェインは傘だけ渡すつもりが、思いがけず相合傘になっちゃって、内心キャー!キャー!ってなってるw