それは夢の中で(血界戦線スティーブン←チェイン)
何でそんな事をしたのかと言われれば、酔った勢いとしか言いようがない。
「チェ、チェイン……おい、飲みすぎじゃないか?」
おおいに戸惑った顔で、スティーブンがこちらを見上げる。チェインは据わった目で、ソファに沈み込んだ彼の肩を掴んだ。
「酔ってません。全然酔ってません」
「いや、そんなふらふらして、どう見ても酔ってるだろ。危ないから降りてくれないか」
「嫌です」
強固な意思を伝えるべく、スティーブンの腰の上に乗せた尻を一度上げて、どしっと下ろしたら、ぐはっと呻かれた。
失礼な、そこまで重たくない、はず。スタバのトールとは言わないけど。
むせながら、スティーブンは勘弁してくれよ、と苦笑いを漏らした。
「いくらなんでも悪戯がすぎるな。これがザップなら、君は今頃、口にするのもはばかられるようなひどい目にあってる」
落ち着き払った調子で、スティーブンは腹筋の力で上体を起こした。チェインの腕をとって、
「だからどきなさい、チェイン。水を持ってくるから」
「ひどい目って、何ですか」
「!」
ぐい、と顔を覗き込んで迫ると、へらへら笑っていたスティーブンの表情が変わる。
横になったせいで乱れた前髪がかかる瞳の中に、こわばった顔の自分が映った。 半眼だし、真っ赤だし、どうしようもなくみっともないけど、今更引き返せない。
「教えて下さい、ひどい目って何ですか」
「……チェイン、悪ふざけは大概に」
「ふざけてなんかいません!」
酒で火照った体がこれだけ密着してる状態なのに、まだ逃げる気なのかと腹が立ってきた。緩めたネクタイを掴み、ぎゅっと引っ張って声を荒げる。
「私は、あなたになら、何されてもいいです」
「何を馬鹿な、」
動きをとどめようと、腕をつかむ彼の手に力が入る。そのまま後ろに押し返される前に、チェインはぱっと顔を寄せて、スティーブンの唇に自分のそれを押し付けた。
(おさけのにおい)
最初に感じたのは、彼が直前まで口をつけていたブランデーの香りだった。けれども触れた唇はすぐ、息を飲む気配と同時に、横に固く引き結ばれてしまう。
(いやがられてる)
押しても引いても、唯一の武器の胸をぎゅっと押し付けても、スティーブンはびくともしない。まるで壁か何かにキスしているかのような手ごたえのなさに意気地をくじかれて、チェインは慌てて身を引いた。
「…………」
果たしてスティーブンは、すっかり酔いが醒めたような真顔になっている。
「ご、ごめんなさい、スティーブンさ……」
怒らせた、どうしよう怒らせた。今からお酒のせいで悪ふざけしすぎましたと謝れば許してもらえるだろうか、パニックに陥った頭で何とか謝罪の言葉を口にしようとした時、
その口自体を塞がれた。
「!!!!?」
頭が真っ白になる。何が起きたのか分からない。腕をぐいと引っ張られて、スティーブンの顔が目の前に近づいたかと思ったら、噛みつくような勢いでキスされた。
(な、なんで!?)
さっきまであれほど拒んでいたのに、なぜいきなりこうなるのかと、驚いて声をあげようとする。が、口を開けた途端、ぐいと舌が突っ込まれたので、背筋に震えがかけ上った。
「んんっ……ん、っ!」
逃げようとしたチェインの後頭部を、スティーブンの手が掴んで握りしめた。万力のようにぎしりと抑え込まれて、顔を背ける余地が一ミリもない。
しかもいつの間にか腰にスティーブンの両足が絡みついて、身動き一つ叶わない。この痩身のどこにこんな力が、と驚くほどの強さで拘束され、チェインは総毛だった。
(いや、やめて)
悲鳴じみた制止の声をあげようとしても、舌をすくいあげられる。口の中が音を立ててかき乱され、歯の裏側をぬめる舌先でなぞられ、ぞわりと腰のあたりが震えた。
「んく、ふぁっ……」
息苦しさに耐え兼ねて呻くと、スティーブンは一瞬唇を離した。けれどすぐ角度を変えてチェインの唇のラインをなぞり、下唇を軽く食んだ後、よりいっそう深く重ね合わせてくる。
(や、だ……頭が、ぼうっとする)
驚いて抵抗しようとしたのもつかの間、スティーブンを押しのけようとしていた手の力が抜けた。というより、体中の力が吸い取られるように消えていく。
スティーブンのキスは荒々しく、それでいて時折ふっと息をつく間をおいて、チェインがそれで油断した隙をつくように更に奥深くへ侵入してきた。
「あ……ふ」
「っ……」
キスをされているだけで、枷と化したスティーブンの手足はぴくりとも動いていないのに、体中を愛撫されているような錯覚に陥る。吐いた息がスティーブンのそれと重なり、自分と同じように彼も高ぶっているのだろうか、期待とも不安ともつかない茫漠とした意識で、チェインはぼんやりと目を開けた。そして、体を強張らせる。
すぐ間近にあるスティーブンの目は、何の感情もなかった。
唇は、舌は、チェインの口中をかき乱してどうしようもなく煽っているのに、すっかり蕩けた女の顔になってしまったチェインをその瞳に映しながら、完全な無表情を保っていた。
「す、てぃー」
さぁ、と血の気が引くのと同時に、まじりあった唾液の糸を引いて、スティーブンの唇が離れた。回らない舌で名を呼ぼうとしたチェインを、しかしスティーブンは冷ややかな眼差しのまま手放した。濡れた口元を手でぬぐいながら彼女を押しのけて立ち、高みから見下ろして、
「……さようなら、チェイン。また明日」
全くの平坦な声で別れを告げた。その言葉は悪意も何もなくただ無感情で、まるで道端の石ころに言い捨てたかのようだ。
(まっ)
待って、と言いかけた声が縫い留められる。全身が氷の槍で貫かれたように冷たくなり、動けなくなる。
ソファの上で凍り付いたチェインに背を向け、スティーブンは振り向きもせず去っていく。いつも見つめていたその背中を茫然と見送ったチェインは悟った。
スティーブンが引いていた一線を越えた自分は、もう二度と彼のそばにいられないのだと。
スティーブンにとって自分は有能な部下ではなく、盛りのついた厄介な雌犬でしかないのだと。
(待って、いかないで)
凍った舌は動かず、スティーブンは彼女の前からいなくなってしまう。手を伸ばした先が全て闇に覆われ、何も見えなくなる。
チェインは息を吐いた。吸った。吐く、吸う、けれどやがて息の仕方が分からなくなり、手足指先から闇の中に溶けていく自分を自覚した。
違う、私は、こんな事を望んでは、
否定する意思もまた消えていく。存在価値を無くした人狼は自らの存在を否定し、誰にも、スティーブンにも分からないようにその全てを希釈していき――
「……いやぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
喉からほとばしる絶叫と共にチェインは跳ね起きた。唐突な動きにベッドがスプリングを軋ませて跳ね、端っこに載っていた雑誌の山が崩れて床に落ちる。
「!! !? ?!」
反射的に自分の体を抱きしめてその質量を確かめ、せわしなく周囲を見渡し、そこが汚部屋――いつもの自分の部屋だと、間をおいてからようやく気付く。
(スティーブンさんは、私は、えっ……あっ、夢? 今の夢?!)
頭から足先までばたばたと触って確認した後、チェインはようやく寝ぼけている事に気づいて、がくんと肩を落とした。
あまりにもリアルな夢だったので現実とごっちゃになったけれど、何のことはない、ただの夢だ。
落ち着いて思い返してみれば、昨日は確かにスティーブンと二人きりで飲む機会に恵まれたけれど、精一杯セーブして悪酔いしない程度に抑えて、気分よく酔っぱらった彼とは普通に笑って別れたはずだ。
「ああ……びっくりした……」
思わず上半身を折って、大きくため息を漏らす。そりゃそうだ、いくら酔いが回ったとしてもチェインはスティーブンを押し倒してまたがる度胸なんてないし、彼もまたあんな、あんなキスをするわけが……
「…………」
むっくり頭を上げて、チェインはそうっと自分の唇に触れた。自然、顔が熱くなる。
(するわけないんだけど……何か、すごかった)
チェインもこれまで男性経験はそこそこあるから、全く耐性がない訳ではないのだが、それにしてもスティーブンのキスは……ちょっとすごかった。キスだけであんなに体が熱くなることがあるなんて、想像したことがない。
(っていうかキスした事ないんだから、あれ私の想像って事よね……やだ、私欲求不満?)
そう思うとますます頬が熱くなってくる。しかし同時に、
『……さようなら、チェイン。また明日』
チェインを見つめる無表情の目と、無慈悲な別れの言葉を思い出して、頭から冷や水をかけられた。思わずぶるぶるっと体を震わせて、チェインは自分を抱きしめて、あーもうっ! と叫んだ。
「絶対! 絶対しない! 絶対絶対、告白なんてしない!」
公私混同しない仕事第一の男に、夢の中でさえ振られてしまうくらいなら、影でひっそり思ってるだけの方がどう考えても幸せだ。
これまでも告白したいなんて思ったりしなかったけれど、チェインは拳を握りしめてその日、誓いを新たにした。
これまで通り、自分はライブラの仕事をきちんとしよう。スティーブンには欠片も好意を示さないようにしよう、と。
――余談。
「じゃあチェイン、この倉庫の調査を頼んだ。何かあれば電話をくれ」
「はい、では」
差し出した写真と資料がぱっと掻っ攫われ、黒スーツの人狼はあっという間に消え失せる。
もう一言二言、声をかけようとしたスティーブンは意表をつかれて、目をぱちくりさせてしまった。ふーっ、とため息をつきながら席へ戻ろうとしたら、
「……どうした、スティーブン。何か気がかりでも?」
その様子に目ざとく気づいたクラウスが、ディスプレイ越しに視線を投げてきた。いや、とスティーブンは頭をかく。
「気のせいかもしれないが……このところ、チェインに避けられている気がするんだ。姿を見る機会がずいぶん減ったような」
「それあれじゃないっすか、この間スカーフェイスさんが雌犬泣かしたからじゃないすか」
スティーブンのぼやきに、ソファに座ったザップがニヤニヤ笑いながら乗っかってくる。
「スティーブンさんが泣かした? チェインさんを?」
首を傾げるレオに、
「おおよ、俺ぁばっちり見てたんだぜ。あの女、店の奥の席でスカーフェイスさんと二人っきりになった途端、女みたいにぽろぽろ泣き出してよ。
ありゃあよっぽど心抉る事言われたんだろうなと思って、俺はすかさずケータイのカメラをほぎゃああああああっ!!!?」
ばきばきばき!
得意げに語りながら携帯電話を取り出したザップの腕が、肘から手首まで氷柱と化す。
床に足を踏み出し、その先からザップの腕まで一直線に氷原を作り出したスティーブンは、人も食わない笑顔で歩み寄り、氷から生えた手から端末を奪い取った。
「ザップ、悪いがこれは没収だ。新しい携帯はお前の給料から差っ引いておくからな」
「は……はひ……てかスカーフェイスさん、これ、まじ、腕や”は”い”……」
「……ほんっとゲスいなぁこの人は……」
炎と氷ではさぞかし相性が悪い事だろうと横目に見つつ、レオはマグカップのコーヒーをすすった。
くだんのチェインが戻ってきたら、スティーブンが気にしていた事を伝えてあげようかと思いながら。
夢落ちは偉大だなと思う次第ですw
チェインはあの肝の据わり方や容姿からして、男性と付き合った経験はありそうだなーと思います。でも本気の恋はスティーブンだったんじゃないかという妄想。