ワルツの相手は私だけ(血界戦線クラウス)
四十二番街内に位置する、とある高級ホテルのレストランにて。
オレンジ色の柔らかい照明が灯る中、バンドが奏でる曲に合わせて、色とりどりのドレスに身を包んだ男女が、軽やかなステップでボールルームダンスを楽しんでいる。
ヨーロッパの社交界のような広いホールの周りに配置されたテーブルには、経済界の大物や政治家、投資家のそうそうたる面子が談笑し、芸術品のように豪華絢爛なコース料理に舌鼓を打っていた。
会話の内容はどうあれ、表向きは穏やかに語り合う彼らの表情は実に和やか――なのだが。
「失礼いたします。ワインのご注文は……ひぇっ!?」
ウェイターがあるテーブルに歩み寄り、喉の奥で悲鳴を上げる。
客に失礼のないよう、よく教育されたプロフェッショナルの彼をして、思わず素の声をあげさせたのは、そのテーブルに座した赤い髪の巨漢が、鬼のような形相でホールをぎぬろと睨み付けていたからだった。
「ああ、1986年の赤を頼む。
……クラウス、クラーウス! 頼むから、ちょっと落ち着いてくれないか」
そのそばから注文をした、顔に傷のある男――スティーブンが苦笑交じりに注意を促した。
ぽんと肩を叩かれ、鬼面の男、クラウスがギチッと歯ぎしりの音を立てる。
「しかし、スティーブン……。いくら接待のためとはいえ、あれはやりすぎではないのか。
ロッテが嫌がっているように見える」
「まあまあ、あれくらいは彼女も承知しているはずだから。
そうでなければ、わざわざダンスが出来るようなレストランを、接待の場に選んだりしないだろう?」
そういうスティーブンもまたホールに目を向ける。
踊りの輪に見知った顔……だが、普段の作業着姿と違い、全身ドレスアップしたシャルロットの姿が見えた。
群衆の中でもひときわ目を引く装いの彼女は、白いドレスの裾をひるがえしながら、今日の接待の相手、ゴードン・F・ジェラルディオとダンスを踊っている。
のだが、先ほどから、その背に回された腕が不穏に彼女の体の線をなぞったり、不必要に顔を近づけたりしていて、人目も気にせずじゃれついているような有様だ。
(女タラシの二代目とは聞いてたが、全く下品なことで)
今日の接待は、ライブラのスポンサーとして名乗りを上げてきたゴードンとの場を、シャルロットが設けてくれたのだが、彼はライブラよりも目当てがあるらしい。
最初に挨拶をした際も、てっきり彼女と二人きりのディナーと思っていた、などと冗談めかして言ってきたのだから、あからさまにもほどがある。
(シャルロットの事だ、ああいう手合いをうまくあしらう術は、とうに身に着けているだろう)
現に今も、ゴードンのいやらしさ満載に動く腕を、さりげなく本来の位置にホールドさせ直したり、顔が近づいてくるとステップを踏んで態勢を変えたりと、相手に不快感を与えないぎりぎりのラインでかわし続けている。
だから、スティーブンはさほど心配していない。
しかし、クラウスがあの愚行を見逃せるわけがない。
最初の暴言は聞き流せたようだが、二代目がダンスホールへ彼女を誘き出した後はこの通り、そばにいるのがちょっと怖いくらいの鬼気迫る様子で、ハラハラとシャルロットを見守っているのだ。
「気持ちは分からなくもないが……彼女が助けを求めない限り、自重してくれよ、クラウス。
今のライブラにとって、スポンサーがどれだけ重要か、君も理解しているだろう?」
その点を指摘すると、クラウスはぐぬぬ、と呻いた。
紐育が異界に沈んでから二年。
世界は変わることなく、異形が我が物顔で街を闊歩し、今日も明日も明後日も、飽きる事なくトラブルを巻き起こし続けている。
一度壊滅状態に陥ったライブラを立て直して、ようやく軌道に乗ってきた二年目は、しかしまだまだ人手も装備も設備も、足りないものばかりだった。
日々スポンサー集めに奔走しているスティーブンにとって、プラントハンターの広い人脈を持つシャルロットの紹介は非常にありがたい。
あのゴードンという男も久しぶりの大口スポンサーになってくれそうで、今日の接待はどうあっても失敗するわけにはいかなかった。
「それはよくわかっている。わかっているのだがっ……!」
ようやくダンスを終えて戻ってくる二人を凝視するクラウスの分厚い肩が、ごん、と重たく蠢く。
馴れ馴れしくシャルロットの腰に手を回し、意気揚々と戻ってきたゴードンが、
「やぁやぁ、実に楽しい時間だっ……ヒィエッ!!」
声をひっくり返して悲鳴を上げた。
それも当然、隣に座るスティーブンさえ冷や汗をかくほど、殺気だった気配がクラウスの全身から湧き出しているのだ。
ゴゴゴゴゴと地鳴りが起きていると錯覚させような鬼気迫る気配と、スクウェアのフレームの向こうで、むきだしの刃のごとき眼光がゴードンに向けられているのだから、これで怯えない方がどうかしている。
「く、クラウス、クラウス落ち着けって!」
このままでは硬直しているゴードンが立ったまま失神するか失禁しかねない、そうなれば何もかもおじゃんだ!
怖い怖すぎるとおぞけをふるいつつ、スティーブンは小声で必死に囁いた時、
「……クラウス? ご気分がすぐれないのですか。お顔の色が悪いようですが」
戸惑ったシャルロットの声が空気を変えた。
完全に固まっているゴードンの腕から抜け出したシャルロットが、クラウスの様子にやや怯えた表情を見せながらも、落ち着いた様子でこちらを窺っている。
それを目にして、スティーブンは即断した。よし、火種をこの場から除外しよう!
「く、クラウス! 君もシャルロットと一曲踊ってきたらどうだい! ワルツならお手のものだろう!?」
「!」
その提案が予想外だったのか、クラウスが一瞬で鬼気を収め、目を丸くしてスティーブンに顔を向けた。
「……そ、それは踊れるが、しかし……良いのだろうか」
客人を放っておいてダンスに興じるなど失礼ではないか。こんなときにも紳士的な振る舞いを忘れない、彼のノーブルな気質が、今は非常に邪魔くさい。
いいからいいから、とスティーブンはクラウスを追い立て、かわりに凍り付いたゴードンを席に押し込んだ。
「こっちは私に任せてくれ。ライブラについて、もっとよくご説明して差し上げないと。
ほら、ミスタ・ジェラルディオ、ワインも来たし、まずは一杯どうぞ!」
「あ、あ、ああ……そう、そうだな。
私の事は気にせず、行ってくれたまえ、ミスタ・ラインヘルツ。どうぞ、どうぞ」
ようやく硬直から脱したゴードンは、ひきつった笑みを浮かべた。
二人から勧められ、クラウスは困惑した様子でシャルロットと顔を見合わせたが、
「……では、少しの間失礼いたします、ミスター」
シャルロットが淑やかなしぐさで挨拶をし、クラウスに手を預けて再びダンスホールへと戻っていった。
その姿を見送って、スティーブンは思わずふーっと息をつきそうになり、スポンサーの手前、慌てて飲み込む。
(……毎回これじゃ、命がいくつあっても足りやしない。今度はもっと、相手と場所を選ぶ事にしよう)
「クラウス、本当にお加減はよろしいのですか?」
美しく青きドナウが流れる中、お手本のように綺麗なステップで踊りながら、シャルロットはパートナーの偉丈夫を見上げた。
ハイヒールを履いているおかげで普段より近いクラウスの顔は、先ほどの険相は消えているものの、眉間のしわが残ったままだ。具合でも悪くなったのかと心配で問いかけたのだが、
「……いや、どこも何ともない。気にしないでくれ」
クラウスもまた、流麗なしぐさでシャルロットをリードしながら答えた。
「本当ですか?」
先ほどの様子は尋常ではなかったのに、とシャルロットは眉根を寄せる。他に何か原因があるのではと更に聞こうとするも、相手に遮られた。
「私の事よりロッテ、君は大丈夫か。無理をしてはいないだろうか」
「無理? ……ああ、そうですね。久しぶりにこういった場に出たので、少々気を張ってるかもしれませんね。
先ほどから、ドレスの裾を踏まないかハラハラしてます」
社交の場は相応に馴染みがあるが、普段は汚れてもいいつなぎの作業服を着て、泥まみれになって植物のハントにいそしんでいるのだ。
歩きにくい高いヒールにアクセサリーをじゃらじゃらつけて、シミひとつつけられない、上品なドレス姿は肩がこって仕方ない。なかば冗談めいて言ったのだが、クラウスはそうではなく、と首を振った。
「そういった事ではなく……先ほど、ジェラルディオ氏と踊っている間、その……不必要に触られていたように見えたのだが」
「……ああ」
クラウスが言いたい事を察して、シャルロットは苦笑して肩をすくめた。
「ゴードンさんは基本的に良い方ですが、少し手癖が悪いところがありますね。でもあのくらいでしたら大丈夫ですよ、慣れています」
「……慣れている?」
「きゃっ」
ぎし、と男側の動きが一瞬遅れたのでステップが崩れ、シャルロットはぐらっと揺らいでしまった。クラウスがすまない、と慌ててホールドしなおすが、その表情がまた険しく曇っている。
「ロッテ、今度ああいう事があったなら、私に言ってほしい」
「クラウス?」
目を瞬くと、クラウスは高い背を折ってこちらの顔を覗き込み、真摯に言い募った。
「君がライブラの為に尽力してくれている事、感謝の念に堪えない。
だが、君自身を犠牲にしてまで、組織の利を優先したいとは、私もスティーブンも考えてはいないのだ」
そのまっすぐな眼差しを受けて、シャルロットは目を細めた。
(でもクラウス、ぎりぎりの線を渡らなければ、ライブラを支える事は出来ないわ)
それは決してこの人には言えない言葉だ。
超常秘密結社ライブラは大崩落から以後、クラウスという最強のリーダーを得て、ようやく息を吹き返しつつある。
日々起こる未曽有の危機は何一つ見逃せるものはなく、ライブラはあらゆる方面から引く手あまただ。
しかし一方で組織を恨み憎む敵も多く、実際の戦闘任務にもまして、交渉や人脈を駆使して危機を乗り越える事も少なくない。それらもまた、しくじれば組織を崩壊させかねない、重大事だ。
(そして、まっすぐなあなたは、だまし合いの交渉術が苦手だから)
だから、自分やスティーブンがその役目を負う必要があるのだ。決して彼に言えないような、後ろ暗い事でも。
(でも本当に、何も苦ではないんですよ、クラウス)
地に根差した大木のようにゆるぎなく、それでいて、とても不器用なこの好漢を、シャルロットは初めてであった時から信頼している。
この人の為ならどんな事でもしようと、してあげたいと、そう願い続けている。
だから顔を上げて、彼の不安を払しょくするために、にっこりと笑いかけた。
「大丈夫ですよ、クラウス。あなたが心配するような事はしていません」
「…………そう、だろうか」
虚を突かれた様子で目を瞬くクラウス。躊躇うように視線が揺れ、遠慮がちな声が漏れたかと思うと、
「ジェラルディオ氏が不埒な行いをするのも、君が、……この場にいる誰よりも美しいレディだからだ。どうか気を付けてほしい。
君をこうして腕の中に閉じ込めておきたいと考える男は、決して彼一人ではないだろう」
「……え」
いきなり爆弾発言を投げつけてきたので、今度はシャルロットの方がぎしっと硬直した。
な、と口を開けたが、カーッと顔が火照って二の句を告げられなくなってしまう。
(く、くら、クラウス! そういう、恥ずかしい台詞を、さらっと言わないでください!)
「……そういえば確認したいのだが、あの二人、付き合っているのかね」
ヴィンテージワインを酌み交わして商談を進めていたら、ダンスホールに目を向けたゴードンがふと尋ねてきた。
つられて視線を同じ方向へ動かすと、巨漢と白いドレスのレディはなぜかど真ん中で立ち尽くしていて、妙に悪目立ちしていた。
「さぁ、どうでしょうね。特にそういった話は聞いていません」
互いの気持ちはどうあれ交際の事実はないので、スティーブンはスポンサー候補の気持ちもおもんかぱって、あいまいに応えた。
しかし何があったのか知らないが、離れていても分かるほどシャルロットを赤面させているクラウスの姿を見れば、勘繰りたくなるのも無理はない。
(ここで拗ねて、やっぱりやめたなんて言い出さないだろうな、この二代目は)
やっぱりクラウスは、交渉の場に連れてこない方がいいのかもしれない。少なくともシャルロット目当ての男相手の時は。
そんな事を悔いるスティーブンだったがしかし、
「そういう事なら、彼女とはビジネスだけの付き合いとさせてもらおうか。
さすがにミスタ・ラインヘルツを敵に回すほど、命知らずではないのでね。
……ところで、スティーブン。ああ、スティーブンと呼んでも?
君もなかなかいい面構えをしているな。よかったら今夜、ライブラについてもっと詳しく話を聞かせてもらえないかな。私のロイヤルスイーツで、ワインでも飲みながら」
いつの間にか、自分の手にゴードンの手が重ねられている事に気づき、ひき、と顔を歪ませた。
「……ハハハハハ、その話はクラウスたちが戻ってきてからにしましょう、ミスター。なんといってもライブラのリーダーは彼で、私はしがない番頭ですからね」
なんてこった、こいつ本気で節操がないぞ。女にしか手を出さない分、ザップのほうがまだましだ。
乾いた笑いを返しながらそっと自分の手を回収して、スティーブンは心の底から思う――ラブコメしてる場合じゃないぞ、早く戻ってこいクラウス! 今すぐ! 光速で!
アメリカなんで、セクシャル系は結構自由なんじゃないかと…w
後ろ暗い交渉と書いてはいますが、身を売るような事はしてない前提です。ぎりぎりで逃げてる。