それを奇跡と呼ばずして

 征服王イスカンダルがカルデアに現れて、数日。
 かつて聖杯戦争で主従の誓いを結んだ相手とまさかの再会を果たし、ロード・エルメロイ二世は終始落ち着かない気分だった。
(自分がサーヴァントになるのも想定外だったが、まさかライダー達と再会する羽目になるとは……人生、何が起こるか分からんな)
 カルデアの廊下を歩きながら、思わずため息がついて出る。
 自らが経験した聖杯戦争を再体験する事になった時も相当動揺したが、いざ征服王とかつての己にまみえた時は胸がとどろくような思いがしたし、その余韻は、今も海鳴りのように響き続けて止むことを知らない。
 何しろ、あのイスカンダルがここにいる――彼にとって、唯一無二の王。
 忠臣の誓いを立てた、たった一人の英雄が、彼と同じ場所に立ち、生きている。これが奇跡でなくて、何というのだろうか。
(私にとってはカルデアこそ、聖杯のようなものだな。泡沫の夢とはいえ……悪くはない夢だ)
 そんな事をしみじみと感じ入りながら角を曲がった時、
「……では有事の際は、マスターが特異点にレイシフトした後、必要に応じてサーヴァントを召喚するのだな」
「はい、そうです。まず特異点でベースキャンプを作って……」
 女性二人の話し声がしたので、つい足を止めた。
 何気なく視線を向けて、軽く息を飲む。
(あいつは……シャムスじゃないか)
 管制室前の廊下で立ち話をしているのは、カルデアのサーヴァントたちを率いるマスターともう一人。イスカンダルの従者を務める女――アルムス・シャムスだった。つい、壁の影に隠れて様子を窺ってしまう。
(どうもあいつとは、顔を合わせにくいな)
 イスカンダルの前に立つのもためらわれるが、シャムスとはそれどころではない。
 普段は出来るだけ避けているし、仕方なく話をするとなれば、どうしても目を合わせられず、そわそわと落ち着きのない態度になってしまう。
(柄にもない事をしてしまったせいだ。どうせ向こうはさほども気にしていないだろうに)
 彼女を見るたびに思い出してしまうのは、遠い過去……第四次聖杯戦争においての最後の戦、冬木大橋での別れだ。
 自ら進んで、微笑みさえ浮かべて、王と共に死地へ向かう女従者の背中。それが遠ざかっていくのが悲しくて、悔しくて、羨ましくて、
『シャムス!』
 初めてその名を口にして呼び止めて、振り返った彼女の目を見つめて、
『ボクは、オマエが――好きだ』
 そんな事を言った――口走ってしまった。
(ぐっ……やめろ、リフレインするんじゃない!!)
 思い出すたびに顔が熱くなって消え入りたくなる。
 特異点の冬木で過去の自分に出会った時も、度し難い苛立ちと羞恥に襲われたものだが、それはまだましな方だ。
 力の無かった自分を恥じ、王の臣下として恥じぬように努力を重ね、魔術師としては三流であっても何とか格好だけはつけられるようになった。
 ロード・エルメロイ二世として、十分でないにしろ、相応の実力は身に着け自信もついた故、第四次聖杯戦争の再現で最初こそ動揺しつつも、冷静に策略を練って対応できた。
 だが、ことシャムスに関しては――何とも気恥ずかしく、できれば一生胸の奥に鍵をかけてしまっておきたいくらい、思い出したくない。
(良い歳をして今更、何を恥ずかしがる必要があるのかと思うが……過去と向き合うというのは、相当に精神の修練を積んでいなければ耐えがたいものだな)
 とにかくこの羞恥を何とか抑え込まねば、今後の作戦行動に差支えが出る。何とかしなければ――そう思いつつ再び、マスターと話し込むシャムスをチラ見する。
 カルデアの中はいかなる因縁があろうと戦闘が禁止されているので、鎧甲冑で全身を固める必要がないからだろう。常は鎧をまとい、羽根飾りの兜をかぶっている女従者は、今は胸鎧をつけただけの簡素な装備をしており、その背中にはトレードマークの赤い髪が綺麗に編み込まれて長くぶら下がっている。
 真剣な表情でマスターから施設や聖杯探索についての説明を受けているのは、従者として周辺事情を詳しく把握しておきたい為か。
(……フッ、相変わらず熱心な事だな。あの様子ではどうせ、ライダー以外の男など目に入るはずもないし、こちらが避けていれば、気が付くはずも……んっ!?)
 盗み見していて気づかれては困ると身を引きかけたが、不意に目についたものに気が付き、ぎょっとした。した途端、
「っ、このバカ!!」
 思わず罵声を漏らして角から飛び出し、
「!? なっ」
「うわっ!?」
 羽織っていた上着を、シャムスの頭から突然かぶせたので、本人とマスターが同時に驚きの声を上げた。
「ろ、ロード・エルメロイ? いきなり出てきて何してるんですか」
 彼の奇行に目を丸くしてマスターが問いかけてくる。そして上着をかぶせられたシャムスは、押さえつけようとする彼の手をあっさり振りほどき(相変わらずの馬鹿力だ!)、
「貴様、何をする無礼な!」
 柳眉を逆立ててこちらを睨み付けてきた。その目を真っ向から見てしまい、
「うっ……いや、その」
 一瞬目を泳がせてしまったエルメロイは、しかしここで引き下がるわけにもいかないと、後ろに下がりかけた足を踏ん張った。ぽかんとするマスターに何でもないと手を振りながら、
(……このバカ! そんな恰好で外を出歩くんじゃない!!)
 小声でシャムスに叱責した。当然、相手は更に声を荒立てる。
「何を言っている? 人の目に触れて困るような姿格好など、我が君の威光にかけてするはずがなかろう、言いがかりを……」
 バカ違う、ともう一度罵る。何でこういう事に全然気づかないんだこいつは、とエルメロイは頭を抱えた。シャムスにだけ聞こえるように更に声を絞り、
(……後ろの首筋に、き ……キスマークがついてる)
 顔に血の気がのぼる音を聞きながら、指摘した。途端、
「……え。…………あ」
 もがいていたシャムスが動きをとめ、更にぽうっと赤面して黙り込んだ。それは過日、戦の合間の日常風景でよく目にした――恋する乙女の表情に他ならない。
「……全く、お前たちは本当に、何にも変わっていないな」
 ずきりと甘い胸の痛みが蘇ったのを感じて、彼はバッとシャムスを解放した。そして、何が起きたのか訳が分からないでいるマスターを残して、その場からさっさと退散する。
 逃げ出すように早足でだいぶ先まで行ってから、
(あ。……上着を忘れた)
 シャムスにかぶせたままだった事に気づいた。
 が、人の時ならいざ知らず、今は英霊の身、その気になればいくらでも復元できるし――それに、
(あいつに触れたものをそのまま着るというのは、どうにも落ち着かん)
 上着の下で感じたシャムスの体が、記憶よりずっと小さく華奢に感じた事を思い出し、何ともそわそわした気持ちになるから、わざわざ取り返しに行く気になれない。
(いかん。マスターの言う通り、私はライダー達に対して冷静ではいられないようだ)
 こうなったら徹底的に彼らを避けて、顔を合わせないようにしよう。時間が経てばもう少し冷静に対処できるようになるかもしれない。
 そう思いながら自室へ向かう――その数十分後に、当の本人たちが押し掛けてくる事になるとは、策士の頭脳をもってしても想像できないままに。