エピローグ

 ――じゅ――きょーじゅ、ちょっと起きてくださいってば、教授!」
「!」
 揺さぶられて覚醒し、かっと目を見開く。見開いた視界いっぱいに人の顔が映り、瞬間エルメロイ二世は総毛だった。
「うわっ!」
「ぐはっ!?」
 悲鳴と繰り出した拳で相手が吹っ飛ぶのは同時。寝起きに放った一撃は手加減出来ず、相手は勢いよくもんどり打ち、本棚に激突した。
「うわわわ、ちょ、いたっ!」
 しかも頭上に分厚い書物が雪崩落ち、体がほとんど埋もれてしまう。身動き叶わずじたばたしているのを見て、エルメロイはようやく我に返った。慌てて椅子から立ち上がり、
「なんだ――フラット、何をしている」
「なんだ、じゃないですよ教授……いきなりひどいっす……」
 のしかかる本をどかしてやると、涙目の弟子が恨めしげに唸った。殴られた頬が赤くなっている。
「人の寝込みを襲う君が悪い。起こすにしても、もう少し気持ちの良い起こし方をしろ」
「だって教授、全然起きてくれなかったから。もしかして何か盛られたのかなーって。降霊科の女子がそんな事しようとしてたし」
「……ファック、そういう企みごとを知ってるのなら全力で止めろ」
 むすっと不機嫌になったエルメロイは、フラットを助け起こし、崩れた本を片づけ始める。弟子はその横で手伝いながら、
「いや、止めましたよもちろん。でも恋する乙女って奴は、何するか分からないじゃないですか。こう、思いこんだら命がけ! みたいな。あのパワーには感心しますよねー」
 のんきな口調でそんな事を言うので、つい手が止まった。
 恋する女は思いこんだら命がけ。――なるほど、確かに。その好例を、つい先ほど夢に見たばかりである。
(あの勢いには逆らえないものがあるな)
 声に出さずに納得していたら、視線を感じた。フラットが何やらじーっとこちらを見つめている。
「……何だ。じろじろ見るな」
 意味ありげな視線にいらっとし、本を間に立てて視線を遮断すると、フラットはいやぁと気の抜けた声を出した。
「教授が笑ってるもんだから、珍しくて。もしかして、そういう女性(ひと)の事でも思い出してるのかなと」
「…………」
 この弟子は普段ぽやんとしているくせに、なぜいらないところで無駄に勘が良いのか。
 無意識にゆるんでいたらしい表情を引き締め、エルメロイはそんなことより、と話題転換を図った。
「無断で私の部屋に入り込んで、何の用だフラット」
「あー教授やっぱり忘れてる。ほら、俺のレポート見てくれる約束だったじゃないですか。やっと出来たんで、添削してもらおうと思って」
「あぁ……そうだったな。どれ、寄越してみろ」
 本を元通りにしたエルメロイ二世は、革張りの椅子に戻り、机上でレポートをぺらぺらめくり始めた。そして手にしたペンで次々と、容赦なく文面に赤をいれていく。そのたびに聞こえるフラットのため息を無視して、手早く最後のページまで見終えたエルメロイが、
「なんだこのレポートは、ぜんぜんなってないぞ。だらだら事象を書き連ねるな。論旨が不明確だ、結論へ一足飛びで過程がない。――駄目だ、やり直し」
 ばっさり切り捨てたので、フラットはあああ、と地面に沈んだ。
「うう……一週間もかけて作ったのに……」
「要点をまとめずに書き連ねるから崩壊するんだ。始めに全体の骨子を作ってからそれを肉付けしていけと、何度も言っているだろうが」
 はい、とうなだれる弟子は、よほどショックなのか、やや白くなっているようだ。
 ……まぁ、確かに今までのレポートよりは改善されてはいた。努力の成果は多少なりとも認めていいかもしれない。そう思ったエルメロイは、葉巻に火をつけながら、
「再提出は一ヶ月後でいい。私は少し旅に出る」
 せめて締め切りを延ばしてやる。え、とフラットが顔をあげた。
「旅って、そんなに長くどこにいくんですか」
「――」
 すう、と煙を吸い込み、ゆっくり吐き出す。その芳醇な味を堪能しながら、応えた。
「マケドニアだ。それと、日本にもいく」
「ええ、またですか!?」
 途端、フラットが素っ頓狂な声をあげた。
「マケドニアって、ついこの間行ったばかりじゃないですか」
「今年に入ってからまだ二度目だ。このところ徹夜仕事が続いたからな、長期休暇を取った」
「日本嫌いだって言ってるくせに……」
「嫌いだが、あの国には知り合いがいるのでな」
 今も交流のあるマッケンジー夫妻は、彼が訪ねていくと、いつも大歓迎してくれる。
 今度は何を土産に持って行こうか、と思いながらその顔を思い浮かべていると、またもやフラットがまじまじと凝視している。視線で問いかけると、
「いや、楽しそうだなって。教授、よっぽど旅行好きなんですね」
 しみじみそんな事を言う。それ程にやけているのだろうかと、顔に手を当てるエルメロイ。
 確かに、彼の地を旅する事は楽しい。日本のマッケンジー夫妻は、身よりのない彼には家族のようなものだし、マケドニアは――
「……まぁ、故郷、だからな」
 フラットにも届かないほど小さな声で呟く。
 マケドニアは、彼の王と従者の故郷だ。
 触れあった日々は、ほんのわずか。それでも強烈な色を残して消えていった彼らを、感じてみたい。そんな思いで彼は、これまで幾度となく、マケドニアへ足を運んでいる。石造りの家々が並ぶ町中を歩いていると、まるでそこいらから、巨漢と鎧兜の女が、ひょっこり出てきそうな気がするのだ。
(今なら、少しは胸を張って会えるだろうか)
 あの戦争から十年。
 魔術師としては相変わらず半端なままだが、あの時よりはましな大人になれたと思う。
 王の誉め言葉に恥じぬよう、彼女の感謝の言葉を励みに、今まで精一杯やってきた。それでもまだ彼らの域に達せず、きっと生涯追いつく事などできないが……少しは、彼らに誇れる人間になれたのではないだろうか。
「じゃあ教授が帰ってくるまでに完璧なレポート書きますよ! 今度こそ教授の度肝を抜くような奴を!」
「度肝は抜かんでいい、まともな論文を提出してくれ」
 ……まあ、教師として指導してきた数ある生徒の中でも、最古参の弟子は、よりにもよってこんな調子だが。

 騒々しくフラットが退出した後、ひとり部屋に残ったエルメロイは、鍵がかかった机の引き出しを開けた。その中から年月を経た古めかしい箱を取り出し、机の上に置く。
 恭しい手つきでふたを持ち上げれば、中に納められているのは、かつて征服王の肩を飾った赤いマントの切れ端。そして、東方遠征の後をたどった先で見いだした――ぼろぼろの羽根飾り。
(あなた達は今もなお、この世界のどこかを駆けているのだろうか)
 見るたびに胸にこみあげてくる、懐かしさと恋しさ。
 色あせる事のない暖かい気持ちに、知らず微笑みが浮かぶ。
 聖遺物にそっと触れながら、かつて征服王のマスターを務めた男は、時の彼方へ優しく語りかけた。

 ――王に忠誠を、従者に敬愛を。
 ――ボクもまた、永久にあなた達と共にある。