ウェイバー・ベルベットは勝利を信じていた。
離れていても颶風となって吹き付けてくる殺気。遠くに眺めた時ですら怖気を震った、切り刻むような空気に対峙し、己の死を間近に感じながらも、彼は信じていた。
ウェイバーのサーヴァント、ライダーこと英霊イスカンダルは、必ず勝利をつかみ取るのだと。
彼はそのように信じていたし、ライダーもまた、心底から確信していただろう。
かの英霊はいつでも自信に満ちあふれ、己の敗北など微塵も考えない。これまではその尊大さが気に入らなかったが、しかし今は違う。
ウェイバーは王の愛馬に同乗し、矮躯を支える王の巨躯を背に感じ、奮い立った。この大きな大きな男は必ず勝利をもぎ取り、己が宿願を果たすに違いないと信じて疑わなかった。
だが――どれほど固く思い願えど、叶わぬ夢がある。
冬木大橋。全長六六五メートル、闇夜を散らすように煌々と明かりを照らす大舞台で、英雄王と征服王は最後の対決に臨んだ。
「敵は万夫不当の英雄王――相手にとって不足なし! いざ益荒男たちよ、原初の英霊に我らが覇道を示そうぞ!」
今再び現出する、見渡す限りの砂漠の地。王の雄叫びに、時の彼方から馳せ参じた軍勢が鬨を合わせ、足を踏みならして歓喜する。
『AAALaLaLaLaLaie!!』
ウェイバーも喉から喝采を迸らせ、王の側で騎馬を駆るシャムスも吠える。数多の声が重なり合い、空さえ揺るがしていく。荒ぶる軍勢は彼らの王を先頭に大地を駆け、最強の敵へとその牙をむき出した。だが、
「兵どもよ、弁えていたか? 夢とは、やがては須く醒めて消えるが道理だと」
大地をどよもして迫り来る王の軍勢の前に、たった一騎で立ちはだかり、英雄王は嘯く。その言葉はライダー達の耳に届かなかったが、
「さあ目覚めろ『エア』よ。お前に相応しき舞台が整った。いざ仰げ――『天地乖離す開闢の星』を!」
その手にした円柱型の剣が振るわれた時――不意に世界が揺らぎ、蒼天は無惨に引き裂かれ、虚無が大地を飲み込み、逃れようのない死を軍勢の前に現す。
「はぁッ!」
もはや制動叶わぬ勢いで虚無に駆け進んだブケファラスは、最上の乗り手と呼吸を合わせ、渾身の力で大地を蹴る。轟と風を鳴らして巨体が空を舞い、永遠とも思われるような瞬間の後、地響きを立てて向かい側に着地する。だが、
「シャムス!」
すぐさま馬首を巡らせてライダーが叫び、ウェイバーはヒッと息を飲む。王に随伴していたシャムスもまた、馬と共に虚無の割れ目を跳んだが、今一歩届かず、虚空で落下し始めてしまう。
「……っ許せ!」
落ちると見て取ったシャムスは、とっさに馬の背を蹴り、残りの距離を跳躍した。そうして何とかライダー達のもとへ着地したものの、振り返った三人は揃って、背後の惨状に言葉を失う。
目の前が見えなくなるほどの砂嵐が巻き起こり、勇猛を誇った戦士達は為すすべもなく闇の中に吸い込まれ、次々と消えていく。全てを引きずり込もうとする引力にあらがうブケファラスが、全身の筋肉を張りつめて、その場に懸命に踏みとどまった。押さえつけるライダーの手が、痛いほど肩に食い込むのを感じながら、ウェイバーも暴風に抗して必死にしがみつき――やがて、不意に音が止んだ。
「あ……」
気づいた時、ウェイバーは再び大橋の上にいた。王の軍勢がその大多数を欠いた為に、固有結界が崩壊してしまったのだ。
橋の両端で向かい合う距離は先と変わらない。しかしそこには明白で、かつ決定的な違いがあった。
その手に乖離剣を携え、傲然と立つ黄金のサーヴァントは傷一つ負わず、一方でライダーは――とうとう、最強の切り札を失ってしまった。
(負けた)
アーチャーとの力量差は、あまりにも圧倒的だった。ライダーにはもはや打つ手一つない。
(必ず勝つと、信じていたのに)
信じて、願って、それでも太刀打ち出来ない現実がある。
その事をまたもや思い知らされ、ウェイバーは世界が崩れ落ちるような絶望に襲われた。
「ライダー……」
血の気が引く思いで見上げた先で、ライダーはひどく生真面目な顔をしていた。さしもの征服王も敗北に色を失ったか、と思われた時。ライダーはウェイバーを見下ろし、厳かな声で告げる。
「そういえば、ひとつ訊いておかねばならないことがあったのだ。
――ウェイバー・ベルベットよ。臣として余に仕える気はあるか」
一瞬呆気に取られた後。
(征服王の臣下……この、ボクが?)
ウェイバーは抑えようもなく総身を震わせ、目から滂沱と涙が流した。
それこそ、彼の望むもの。いつかそうありたいと願いながら、どうせ叶わぬ夢なのだと自分で諦めをつけていた思い。それが今、現実のものとなった幸福を、なんと言葉にすればいいのだろう。
腹の底から突き上がってくる感情に、どうしようもなく揺さぶられながら、ウェイバーは魂を込めて、宣誓する。
「――あなたこそ、ボクの王だ。あなたに仕える。あなたに尽くす。どうかボクを導いてほしい。同じ夢を見させてほしい」
「うむ、良かろう」
王の微笑を賜り、歓喜のあまりほとんど恍惚とし……次の瞬間、ウェイバーはひょいとつまみ上げられ、地面に下ろされていた。
「え?」
背中の支えを失い戸惑う少年に、王は晴れやかに言う。
――王自ら示す夢を見極め、後の世にまで語り継ぐのが、臣たるウェイバーの務めなのだ、と。
「生きろ、ウェイバー。すべてを見届け、そして生き永らえて語るのだ。貴様の王の在り方を、このイスカンダルの疾走を」
「っ……」
それは臣下に下される、最初で最後の勅命だ。王の命を下された誇りと絶望で、身が引き裂かれそうな思いになる。
これで終わりだ。王はあの絶大なる敵に最後まで立ち向かおうとしている。宝具を全て失い、手にした剣だけを武器に……いや。
「シャムス」
「――はっ」
王の呼びかけに、涼やかな声が応える。
虚無に飲み込まれる前に霊体化し、今再び王の前に参上した、一人の従者。前に進み出たブケファラスの元へ、シャムスは一歩、また一歩近づいていく。
もはや打つ手はない。黄金のサーヴァントに立ち向かうは死だ。それでもその足取りに迷いはない。
鎧を纏い、羽根飾りの兜を被り、結った赤い髪を揺らしながら進んでいく、あまりにも潔いその背中。それはライダーに残った最後の宝具――否、『宝』だ。
(待ってくれ)
ウェイバーの頬を伝って涙がこぼれ落ち、喉に熱い塊がこみ上げてくる。
(ボクも連れて行ってくれ)
そう叫びたかった。だが同じ主の臣下でありながら、彼と彼女に下された王命は、真逆だ。
ウェイバーへの命は、生きろと。
シャムスへの命は、死をも共に分かち合おうと。
(止められない)
それがどんな命であれ、征服王の臣下たるもの、何があろうと遵守しなければならない。
だから、ウェイバーには彼女を引き留められない。これが本当に最後だ。
だから――
「シャムス!」
初めて、名を呼んだ。
その呼びかけにふと足を止め、シャムスが振り返る。その顔を見た途端、ウェイバーは打ちのめされた。
シャムスは今、本当に、例えようもなく美しい。
躊躇いのないまっすぐな眼差し。微かに笑みを浮かべた唇。白い頬は紅潮し、歓喜に満ちあふれている。
勝利への誓いに根ざして消費された、三つの令呪が与える魔力。それは絶対的な死を目の前にしても陰ることなく、むしろ迸らんばかり、すみずみまで充足しているのは、シャムスが、王に付き従う喜びに満たされているからだ。
どこまでも、永久に共にいたい。主も従者も、願いを同じくしている。
ならば、その先に待つのが死であろうと、何を嘆くことがあろうか――言葉にするよりもなお雄弁に、その瞳が、表情が、その思いを物語っている。
(ボクは、オマエが、羨ましい)
征服王と共に駆ける栄誉を授かったシャムスが、心底羨ましい。願わくば、自分も共にありたい。
けれどそれが出来ない事は、理解している。
故にウェイバーは涙を拭い、シャムスを見つめ返し、震える声で言った。
「ボクは、オマエが――好きだ」
「――」
兜の眉庇の下で、シャムスが目を瞠る。
まさかこんな事を言われるなんて、考えもしなかったのだろう。ウェイバーだってそうだ。今の今までそんな事気づきもしなかったのに、もやもやした思いを形にした途端、それはすとんと胸に落ちてきた。
アルムス・シャムス。
イスカンダル王の従者で、恋人で、娘。
いつも偉そうな態度で、女のくせに腹が立つほど背が高くて、短気で、いつでも王が第一で、それ以外目に入らなくて、王の為なら自分自身の事さえ投げ捨ててしまうような大馬鹿者で――だけど。
コイツは、いつもボクを気にかけてくれた。
ありがとうと、感謝してくれた。
キャスターの工房で醜態を晒したボクの手を握って、励ましてくれた。
悪夢に悩まされるボクに歌を歌ってくれた。
ボクに、後を頼むと――言ってくれた。
この二週間に起きた様々な出来事がめまぐるしく頭をよぎる。一つ一つを思い出すたびに胸がしめつけられ、息が出来なくなる。
(行かないでくれ)
そう言えたら、どんなに良いだろう。みっともなくても縋りついて、側にいてほしいと叫べたら……。
いや、もしそんな事をしても、アイツはバカを言えと、ばっさり切り捨てるだろう。
こんな時に何を見当はずれな事を言っている、私には王しか見えない、貴様のようなちんちくりんなどモノの数にも入らぬわ等々、罵倒されるに違いない。
「っ……」
恥ずかしさで消え入りたくなり、ウェイバーは拳を握りしめてうつむいた。ライダーもシャムスも、黙ってこちらを見ている様子なのが、余計に辛い。彼の失言など、聞かなかった振りをしてほしいのに。
(いいから、行けよ。好きなだけ、駆けていってしまえ)
どうせ自分は置いていかれるのだ。やけっぱちな気持ちで、そう叫び出しそうになった時。
鎧を鳴らして、シャムスがウェイバーに歩み寄った。そして影が目の前まで近づいてきた時、思いがけず、柔らかな感触が額にそっと触れる。
(え……)
驚いて硬直する。身を屈めたシャムスが、ウェイバーの額にキスをしている――その事実を認識した時には、もう唇は離れ、
「ありがとう」
息がかかるほど間近で、シャムスが、優しく暖かい微笑みを浮かべてそう囁いていた。
「お前が我が君のマスターで、本当に良かった。……ありがとう、ウェイバー」
「シャム、ス」
初めて己の名を紡ぐ声に、信じられないほど透き通った綺麗な笑顔に、胸の鼓動が高鳴る。ぼうっと見とれる少年に、シャムスは唇の端をあげてもう一度笑い、
「――ではな」
一言だけ別れの挨拶を残し、さっと身を翻した。
後はもう、一度も振り返らず――従者は、王のもとへと戻っていく。
(今度こそ、行ってしまう)
永遠の別離を思い、またもや目が熱くなって眦に涙が滲む。それをぐいと拭い、ウェイバーは彼らを見つめた。
その一挙手一投足を全て、この目に焼き付ける為に。
ウェイバーの眼差しを背に受けながら、シャムスは王の側へと歩み寄った。征服王が馬上から差し出す大きな掌に、自分の手を重ね、微笑む。
(あなたが愛しい。あなたと共にありたい。どこまでも駆けていきたい)
胸に満ちる思いは止めどもなくあふれ出し、恐怖も絶望も悲しみも、全て洗い流していく。
もはや勝負は決した。
偉大なる征服王をして完全に寄せ付けぬとあっては、あの傲岸不遜な英霊の自信は、過信でなかったということだ。これより英雄王へ立ち向かうは、死出の旅路となろう。無謀な突進だ。あるいは背を向けて逃げ出せば、ブケファラスの足であれば今少し長らえるかもしれない。
だが――そんなことはあり得ない。
戦車を失い、あまたの英霊との絆を断たれ、もはや裸同然の有様ながら、しかしイスカンダルの王気は失われず、むしろ高ぶっている。
敵わぬ相手と理解しながら、それに立ち向かう事に喜びを感じ、なお猛る。あれを踏み越え、その先にあるものを奪い尽くそうとする、その貪欲なまでに純粋な心。
彼方にこそ栄えあり――それこそがイスカンダルを征服王たらしめる、確固たる在り様だ。
なれば従者が成すべきは、ただ一つしかない。
「我が君。共に、参りましょう」
微笑んだシャムスは、征服王の手を握る。同時にその足下が、青い光の粒にほどけた。
燐光は光の束に寄り集まり、涼やかな音を立ててイスカンダルを包み込む。
王のために力を返上するのは、これが二度目。以前は己が消えても構わないと自暴自棄な気持ちであったが、今は違う。
足が消え、胴が消え、王の手を握る指も微笑む顔も消え、やがて兜の羽根飾りに至るまで、人の形を完全に失い……それでも、シャムスはまだ己を保っていた。
「――うむ。どこまでも、参ろう」
祝福するように身を包む光を愛しげに見つめ、胸に手を当てて誓う王。その内に、シャムスはあった。
「さあ、いざ征こうぞ、ブケファラス!」
供を得た王がブケファラスの腹を蹴り、キュプリオトの剣を掲げて馳せる。
英雄王は倨傲に腕組みをしたまま、背後の空間から無数の宝具を取り出し、矢継ぎ早に繰り出してくる。
それは全て、数多の伝説の原型となった武器であり、一つとして尋常なものはなかった。膨大な魔力を放出しながら、宝具は容赦なく次々と、征服王に襲いかかってくる。
逃げ場もないほどの槍衾となって襲いかかってくるそれらに、イスカンダルは真っ向から挑んでいく。
剣で受け止め、ブケファラスの突進で弾き飛ばし、しかし抗しきれず、肩に槍が刺さり、戦斧に腕をえぐられ、大剣にマントを引きちぎられ、それでもなお前進する。
王の体は数え切れないほどの宝具になぶられ、滝のように血を流した。何十撃目かも分からない攻撃で、とうとうブケファラスがもんどりうって倒れ、主の後ろに果て消える。
それでも王は止まらない。
駆ける足は一歩を踏み出すのも大儀となり、刃が身をえぐる衝撃でなぎ倒されそうになる。ふらりとよろけた時、
(我が君)
内に宿った従者がその身を支えた。実体はない、だがその手は確かに征服王の背を支え、前へ前へと走らせる。
忠実な従者は最後まで彼と共にある。血に滑りそうになる足を支え、槍が刺さり思うように動かない腕にその手を添え、傾ぎそうになる体を包み込み、
(我が君)
満々と愛のこもった優しい声で、イスカンダルを励まし、慈しむ。
(シャムス、愛しい我が娘よ)
流れゆく血潮はまるで潮騒のようだ。オケアノスの波音を幻聴しながら、イスカンダルは微笑んだ。
生前叶わなかった願いの一つは、今ここで成った。
最後の最期まで、彼は愛娘と共に生きる事が出来たのだ。
それならば、総身を戒める天の鎖の忌々しさも、胸を貫くこの途方もない剣の痛みも、何するものぞ……
「――また幾度なりとも挑むが良いぞ。征服王」
とどめの一撃を与えた征服王の、最後の眼差しを受け止め、英雄王が厳かに言葉を賜わす。
「時空の果てまで、この世界は余さず我の庭だ。故に我が保証する。世界は決して、そなたを飽きさせることはない」
己が宿敵と認めた相手への偽らざる賛辞。
それを聞いた征服王は、死にまみれたまま、にぃと笑った。
「ホォ……そりゃあ、いい、な……」
ではこれでまた、新たな旅に出られる。
二度、三度、愛する娘とともに最果ての海を見つけるまで、何度でも。
――その時まで……今ひとたび、夢を見ようではないか、シャムス――
征服王の穏やかな呼びかけに、
――はい。私はいつまでも、おそばにおります……我が君――
シャムスの声が静かに応え――やがて王とその従者は、青と白の光となり、一つに解け合いながら跡形もなく消えていった。