――もし聖杯を手に入れたら、あなたは/君は/何を願うのか。
いつものヘルスチェックの後、ドクターの温かいお茶とおまんじゅうをごちそうになる穏やかな時間。
グランドオーダーで張り詰めた意識がゆるゆると解かれていく。
その心地よさに身をゆだねながら、あれやこれやと語っている中で、ふと浮かんだ言葉を口にした。
「ドクターは聖杯を手に入れたら、何をお願いする?」
「えっ? な、何だって?」
唐突な問いに驚いたのか、ロマニが目を丸くした。
一体何事かと驚いた表情で見つめられて、いや別に大した事では、と肩をすぼめてしまう。
「この間ギルガメッシュと話してたら、以前冬木で聖杯戦争があった話してくれたの。
万能の願望器たる聖杯を有象無象が寄ってたかって見苦しく奪い合っていたわ、あれは我の所有物だというのにな、って」
「うん立香ちゃん、あんまりサーヴァントに毒されないでね。
特にギルガメッシュの言葉遣いや声音まで真似しなくていいから」
心配顔で諭されて、ダメかぁとお茶を飲む。結構似てると思ったのに。
「そんな感じで、皆に聖杯を手に入れたらどうするって話聞いてみたら色々で。
宝だから欲しい、受肉したい、元カノとの仲を取り持ってもらいたい、全然欲しくない、手に入れたら考えるとか……」
腕を組んで、ふぅむ、と首を傾げる。
「本当に皆それぞれ願いが違ってて、それは当たり前なんだけど。ちょっと不思議な気もして。
マシュやダ・ヴィンチちゃんにも聞いてみたので、ロマニはどうかなって」
「はぁ……聖杯ね……」
するとロマニも腕を組み、顎を上げて天井へ視線を向けた。しばらくうーん、と悩んだ後、
「……いやぁ、ボクは特に無いな」
へらっと笑う。そうなの? と私は問い返してしまった。
「ドクターの事だからてっきり、マギ☆マリに会いたいとか、こたつで気持ちよく寝たいとか、おいしいお菓子食べたいとか願うのかと思ったのに」
「いやいや、万能の願望器に願うような内容じゃないでしょう、それは。自分で頑張れば叶えられるし」
「そうかな。仕事優先してばかりで、何も叶えられてないのでは」
「うっ……それはでも、仕方ない。
今のところ何とかなってるけど、人理焼却の危機は未だ去らず、だ。
僕はもちろん、君たちだって、カルデアのスタッフだって、皆プライベートを犠牲にして働くのは当然だろう?」
そうだろうか、とおまんじゅうの最後のひとかけを口に運びながら思う。
だってドクター自身は休みもなく働いているけれど、スタッフの皆には、きちんと休憩やご飯を食べるように指示して、健康管理やメンタルヘルスも請け負っている。
ロマニ・アーキマンはカルデアの最高責任者として、多くの責任を担っているのだから、ある程度は、確かに当然なのだとしても――もう少し、休んでもいいのでは、と思う。
「でも、ドクター」
それを口にしようとしたら、
「じゃあ、君は? 聖杯を手に入れたら何を望むんだい、立香君」
逆に問い返されてしまった。えっ、と目を瞬いたら、ドクターがへにゃ、と笑う。
「ボクはこの体たらくだから、真っ当な願いなんて持ち合わせていないけど。君は夢と希望に満ち溢れた若者なんだから、願いなんていくらでもあるだろ? 聖杯に託すほどの願望、というと大げさだけど、何か望みはないのかい」
「…………」
問われて、首を傾げた。人理が焼却している現状で夢も希望もあったものではないと思うのだが、ドクターの言いたい事は何となく分かる。自分はまだ十代で、不慮の事故や病気に見舞われない限りは人生始まったばかり。
若者の特権は夢を抱く事、なんてダ・ヴィンチちゃんが言っていたっけ。それが夢見がちで実現不可でも構わない、夢は自由だと。
だが――
「……ない、かな」
静かにたゆたう茶を見つめながら、ぽつりと呟く。
「え」
「うん、ない。望みなんて、何もない。……ああ、ない訳じゃないかな? 人理を救うなんて事出来るのか分からないから、救いたいですって望んでみたいけど。それきっと、聖杯じゃ叶わないよね」
万能の願望器と言ったところで、真にそれを実現できる聖杯を手にしたものは、サーヴァント達に聞いた限りではいないように思える。
何かしらの代償、犠牲を経て得られた聖杯は持ち主の望みを様々な形で叶えるようだが、今自分たちが直面している人理焼却という大事件を全て解決するのには、きっと相応の代償が必要になる。それでは、きっと叶えられないのと同義だ。
「そうだね、全部終わった後に、マシュやロマニやスタッフに、英霊の皆が、パーティー開けるといいな。そういうのは、願いたいかも」
「……ずいぶん、ささやかだね」
ふと視線を上げると、ロマニが神妙な顔でこちらを見ていたから、ちょっと驚いた。そんなに変な事を言っただろうかと思いながら、
「ささやか、かな。だっていつもいつも大変な事ばかりで、今度は誰か死ぬかもしれないって思うくらい大変だから。そういうの全部潜り抜けて皆生き残るのって、すごく難しいように思える、から。
……だから、聖杯にお願いしたいな。
どうか、皆生き残れますように。世界が元に戻った後、皆が生きていますようにって……」
しん、と沈黙が落ちた。ロマニが笑みすら浮かべず、じっとこっちを見ているから、視線を逸らせなくなる。
(…………駄目かな。こんな願い)
後ろ向きにすぎるだろうか。でも、これ以外に望みなんてない。
明日死ぬかもしれない、そんな日常を送る羽目になって、いつも怯えているから、この程度の事しか考えられない。
(マスターのくせに情けない、って怒られるかな)
カルデアの要として、前線で戦わなければならない身で、こんな弱音を吐くなんて許されないだろう。だから普段は口にしないのだが、ドクターの前だと、どうしても弱音が零れ落ちる。
(ごめんね、頼りないマスターで)
沈黙が長引きすぎて居たたまれない。耐えきれなくなってそう言おうとした時、
「……それなら」
ドクターの方が先に口を開いた。また頬を緩ませて笑い、
「それならボクは、世界平和をお願いしようかな」
なんて言い出したから、目を丸くしてしまった。ついで、吹き出す。
「どうしてドクターが世界平和を聖杯に願うの。何か嘘っぽいなぁ」
「あっひどいな、ボクは本気だぞぅ!」
ぷんすこと頬を膨らませつつ、最後のまんじゅうの欠片を口に放り込んで続ける。
「人理を取り戻しても、その世界が平和とは限らない。むしろボク達の世界は問題だらけで、生きていくのは大変だ。
君が人理焼却を免れて、皆が生き残る事を願うなら、ボクは生き残った世界が平和である事を願うよ。生きているだけじゃ、足りないからね」
言われて、そうか、と思う。目の前の問題をクリアするのに気を取られて、先の事なんてまるで考えていなかった。
ぼんやりしていてもさすがドクターは大人だ。その先をきちんと見据えている。いいね、と笑った。
「私とドクターのお願いが二つとも叶えば、皆幸せだね。そんな未来、あるといいな」
「――そうだね。あるといいね」
便宜上聖杯、と名付けられたそれは、ただの魔力リソースだ。
手を伸ばしても触れられるわけではなく、力の塊として仮の形を与えられただけ。万能の願望器なんて、お世辞にもいえない。
(……本当の聖杯であればいいのに)
たゆたうそれを見つめながら、ロマニは思う。
もしこれが本当に聖杯だったのなら。
(それなら、ボクは願うだろう。……君が、マシュが、笑って生きている未来を)
自分の願いはない。敢えて言うなら人理焼却を免れること、それだけが今自分が人間としてここにある存在理由だ。しかし胸にわだかまるこの想いは、まるで人間のようだ、と思う。
(おかしいな。ただ未来を恐れてきただけのボクが、他の誰かの幸福を願うなんて)
自嘲の笑みを浮かべる。だがそれは紛れもなく自分の中に息づいている。
(……何も望みはない、なんて。あの子には言ってもらいたくない)
空虚な表情でそう告げた少女の姿が目に焼き付いている。その表情は、かつてのマシュを思い起こさせて、いっそう胸が痛む。
あんなに幼いのに。あんなに、普通の人間なのに。
マシュも、立夏も。もっと、願っていいのだ。
生きたい。未来が欲しい。普通に笑って、楽しんで、明るく生きていける明日が欲しいと、もっと貪欲に願っていいのだ。
(――それが人というものだ。そうだろう?)
自分にはまだ、人間が分かっていない。人間のふりをしているだけのまがい物だ。だが、この願いだけは嘘ではないと確信し、ロマニは胸に拳を当てた。
万能の願望器たる聖杯は存在しない。
それならば願いは己で叶えなければならない。
そのためにどれだけの犠牲を払うか考えれば、自然と体が震え、怯えに竦んでしまうが――いずれきっとこの恐れを、正面から見据えなければならない時が来るのだろう。
(……立夏、ちゃん)
胸に当てた手を強く握りしめ、口の中で彼女の名を呼ぶ。子どもが大人にすがるようにハグをねだる彼女の細く頼りない体の感触や熱は、もう忘れられそうになかった。