ようやく脚絆を手に入れ、晴れて外出した先――それが目を楽しませる景色もない、鄙びた川辺というのは、著しくイスカンダルの機嫌を損ねていた。
「全く、坊主めはつまらぬ用事で余を煩わせよって」
何をするのか知らないが、マスターはこの近辺の地図と大量の試験管を押しつけ、川の水を汲んでこいと命じてきたのだ。
そのような些事、鼠を探せと言いつけてきた時のようにはねつけてもよかったのだが、イスカンダルはこの労働の対価を、今身につけている脚絆として先払いされている。これで約定を違えては、征服王の名が廃るではないか。
「……我が君。ですからこの場は、私にお任せ下さいと申し上げましたのに」
口を尖らせて不満の色を露わにするイスカンダルを、シャムスが気遣った。鎧姿からワンピースへと着替えた従者は、裾が土に触れぬよう神経を使いながら、マスターが地図に示した箇所の水を、川から試験管にすくい取っている。
「何を言うか。そなたを一人働かせて、余が遊び歩くわけにはいかんだろう」
いいながらイスカンダルは改めてシャムスを眺め、
(うむ、よぅ似合ってる。余の見立ては間違っておらんかったな)
満足げに腕を組み、一人首肯する。
真っ白なワンピースはシャムスの肌の色とあいまって、日の光の下ではまぶしいほどだ。王の勧めに従ってほどいた深紅の髪は、緩やかな弧を描きながら滝のようにその背中に流れ落ち、白に鮮やかな色を添える。隅々まで引き締まりつつ、出るとこ出てる体も何もかも生前愛でたまま、今はその細い手足も相まっていっそう可憐に映る。実に、目の保養だ。
「惜しい事をしたのう」
「は、何でしょうか、我が君」
水汲みが終わり、次の地点へ向かいながら呟くと、シャムスが間髪入れず尋ねてくる。イスカンダルは一歩後ろを歩く従者を惚れ惚れと見下ろし、
「いやな。余らの時代では、そなたにドレスや宝石の類を贈れぬままだったのが惜しいと思ってな」
それはシャムスを従者に取り立てて後、遠征につぐ遠征で、身を休める間も無かった故である。
「今にして思えば、余はもっとそなたを着飾らせるべきであった。これほど愛らしい乙女に贈り物をしなかったとは、何という大馬鹿者であったか、悔いておるところよ」
「そんな、我が君……シャムスは、そのお言葉で十分うれしゅうございます」
途端、シャムスの頬が、まるで花のほころぶようにぱぁぁ、と紅潮する。
王の従者として常に凛とした態度を心がけているシャムスがこうして乙女の顔を見せるのは、自分に対してだけである。それがまた、イスカンダルの男心をくすぐるのだ。
(全く、本当に可愛らしいのう。とても一人で行動させられぬわ)
もしシャムスが願い出た通り、単独で街に出ていたら、この愛らしさに目をつけた有象無象が、よってたかって口説きにかかるに違いない。若干親ばかの視点も含みつつ、イスカンダルは本気でそう思う。事実、ワンピース姿のシャムスを見たマスターの少年は、彼女に見とれるあまり、惚けて絶句していたではないか。
(あれでは坊主もシャムスに惚れてしまいそうだわい)
女に免疫のなさそうな彼に、シャムスはいかにも鮮烈な印象を与える。シャムス自身は全く気づいていないようだが、少年へ不必要に近づきすぎることがあり、その都度マスターが慌てふためくものだから、脇で見ているイスカンダルとしては苦笑せざるを得ない。
(しかし、それもまた面白いかもしれんな。恋の一つや二つ、あの坊主には良い経験になるだろうて)
幼い、つたない、小さい、しかしイスカンダルはマスターの少年を嫌ってはいなかった。
戦場にあって恐怖のあまり涙と鼻水でべちょべちょになりながら、それでも矜持を支えに必死で立つその姿は、情けなくも微笑ましい。
彼がシャムスに惚れ、恋の鞘当てをイスカンダルと演じる……とまでは期待できなかろうが、恋は卑屈なあの少年をまた一つ成長させることだろう。
もしそれが叶うなら、イスカンダルにとっても喜ばしい事ではある。征服王たる自分のマスターであるならば、いつまでも稚い子供のままであっては困るのだから。
「……残りはあと二カ所になります、我が君」
思索に耽るイスカンダルの後ろで、シャムスは生真面目に地図を確認している。ようやくこの雑事が片づくと聞いて、イスカンダルはぃよし、と破顔一笑した。
「ならばとっとと終わらせて、ちょいとそこらを散策しようではないか、シャムス。ここまでの道のりで、面白そうな店が山ほどあったからな」
マスターが頑として財布を渡さなかったので軍資金は無いが、店先を覗くだけでも十分楽しめるはずだ。聖杯から与えられた知識をこの目で確かめられると思えば、まるで戦場に出向くときのように胸が高鳴る。機嫌を直してずんずん川縁を進む王に、
「は、どこまでもお供仕りまする、我が君」
たたた、と早足になって追いすがるシャムス。その堅苦しい言葉と今の華やかな見た目がどうにもそぐわず、イスカンダルはむぅ、と口を曲げた。
「シャムスよ、一つ頼みがあるのだが」
ぴたと足を止めて振り返り、試験管の入った鞄を持つ手を腰にあてる。何事かと身構える相手に王は上体をかがめ、
「今この時だけでも、その堅苦しい言葉遣いをやめにせんか。どうせここにいるのは余とそなただけなのだ。畏まる必要もあるまい」
「は……いえ、ですが私はどこにあろうと、我が君の従者でありますれば……」
「だがなぁ、シャムス。今のそなたには、そのしゃちほこばった口調で臣下の礼を取られるより、素直に甘えられる方が、余もよほど嬉しいのだぞ」
「は、はぁ……」
予想外の提案にぴんと来ないのか、シャムスは困惑して眉根を寄せる。
生前もシャムスは無闇に甘えたりはしなかった。それは生まれによる遠慮もあろう、もとよりの気質もあろう、だがきっと、戦場をともに駆けるばかりで、年相応の少女らしい事が出来なかったのが主な原因に違いない。
(こうして今生に現界したからには、生前出来ずにいたことをしたい)
シャムスに、例えばこうして女性らしい服装に身を包むといった、女としての喜びを与えたい。戦以外の人生の楽しみを、教えてやりたい。それがイスカンダルの親心であり、男心でもあった。
「それにだ、余はこれからそなたとデートをしようというのだぞ。恋人に向かって、そう堅苦しく振る舞うものでもあるまい?」
もう一押しと、とっておきの誘い掛けを口にすると、案の定シャムスはまたもや赤面し、
「わ、私が、我が君の、恋人……デート……」
口ごもった。恥じらいを隠すように口元に当てた手を、イスカンダルは自然に取った。
「あっ……」
手の甲に恭しく口づけを落とし、その手越しにシャムスを見つめて悪戯っぽく笑う。
「どうする、シャムス? そなたがその言葉遣いを改めなければ、デートは無しにするぞ。まぁデートが嫌ならば、それも仕方なしだが」
「っ、嫌だなんて、そんな事……!」
もはや全身をわななかせるほど動揺しながら、シャムスは耳まで赤くなった顔を落ち着かなく俯かせ、
「あの……我が君……その、努力致します……」
かろうじてそう囁く。王をあがめて止まない娘にすれば、それが精一杯の返事だったのだろう。その動揺ぶりがいかにもおもしろくて、
「ふはは、ならば善く努めるのだぞ、シャムス。さぁ、こんなやくたいもない雑事はさっさと片づけようではないか!」
王は笑い声をあげながらシャムスの手を引き、歩き出す。己の手の中で震える柔らかく暖かい感触が今、この上なく愛しくてたまらなかった。