ライダーの女従者は、その名をシャムスと言う。
王によって現界した後、シャムスはその役目を忠実に果たしていた。常にライダーのそばにつき従い、その望みが口にされるより先回りして叶えるほどに甲斐甲斐しく、身の回りの世話をしている。
とはいっても、ライダーはウェイバーの部屋に我が物顔で居座り、テレビにかじりついているだけなので、実際はすることもそれほど無いのだが。
(だったらボクの言うことを聞きゃいいのにっ)
だらだらと怠けるサーヴァントに痺れを切らしたウェイバーは、使い魔にするために鼠が必要だからとって来い、とライダーへ命じたのだが、
『なぜ余がそのような雑事をせねばならんのだ。それは貴様の仕事であろう』
言下に拒否された。それならその従者を使わせろといえば、
『私に命を下せるのは我が君だけだ。私が貴様に従わなければならない道理は無い』
冷え冷えとした拒絶を投げつけられる始末。結局ウェイバーは一人で鼠を探しに外をうろつく羽目になってしまった。
「ボクはマスターだぞ……サーヴァントの癖に、そいつの従者の癖に、生意気なんだよ!」
未遠川から下水道に入り込んでようやく鼠を捕獲したウェイバーは、うっかり転んで全身濡れてしまい、がたがた震えながら帰途についていた。鼠捕りの中から響く耳障りな鳴き声もまた、気をめいらせるものだ。ウェイバーは深々とため息を漏らし、
(こんなはずじゃなかったのに)
このところ口癖にまでなってしまった言葉を胸中で繰り返す。
ウェイバーはこれまで、自身を認めてくれる人間に出会ったことはなく、ましてや主従関係をもって仕える存在などありはしなかった。
聖杯戦争をもってようやく晴れ舞台に恵まれ、自分の意のままに動くサーヴァントさえ手に入れられると知った時は心躍る思いだったというのに、現実はサーヴァントどころか、その従者にまで侮られる始末だ。
(……失敗だった……かな)
よろよろ歩きながら、ウェイバーは泣きそうな気分でそう思った。イギリスからはるばる日本までやってきたというのに、やることなすこと、何もかも上手くいかない。これはもう、聖杯戦争に参加したこと自体が誤りだったせいではなかろうか。
(時計塔に戻ろうか)
あの場所は決して居心地の良い場所ではなかったが、少なくともウェイバーがなすべき事、ウェイバーだからこそできる事があった。今戻れば負け犬、盗人と口汚く罵られるのは必然だろうが、それでも現状を思えば、そちらのほうがまだましなような気がする……
「貴様、何をしているのだ」
暗い思考の螺旋に落ちていく最中、不意に凛とした声がその落下をさえぎった。はっと顔を上げると、兜を被った甲冑姿のシャムスが青い光を纏いながらウェイバーの前で実体化し、呆れ顔になった。
「いったいその姿は何だ。この寒空の下、どこで水浴びをしてきた」
「う……うるさいな! オマエには関係ないだろ!」
居丈高な物言いが癇に障る。カッと頬を赤らめ、ウェイバーは足を速めた。こんな姿を見られるなんて、失態もいいところだ。この女のことだ、どうせライダーにマスターの無様な姿を報告して、笑いものにするに違いない。
「オマエこそ、こんなところで何してるんだよ。……もしかして、あいつもうろついてるんじゃないだろうな」
サーヴァントがマスターの知らぬところを好き勝手に出歩いているなんて、考えたくも無い。ぞっとして早口に問いかけると、後ろから追いついてきたシャムスがむっとして声を低める。
「まさかとは思うが貴様、あいつとは、我が君を指しての言葉ではあるまいな。その不遜な態度をいつになったら改めるつもりだ」
「あーもう煩い! ライダーは外に出てないだろうなって聞いてるんだよ!」
これほど話がかみ合わないのは、よほど相性が悪いのだろう。苛立って声を荒げるウェイバーに、シャムスは上から見下し、
「我が君はこの地における軍書をご所望だ。貴様、今すぐ調達してこい」
「は……はぁ!?」
理不尽な命令に声がひっくり返る。できるわけないだろ、とウェイバーは思わず地団駄を踏んだ。
「今風邪ひきそうなのに、この上サーヴァントの使いっ走りなんてするかよ! 欲しいものがあるなら自分でとりにいけ!」
「ほう。無闇に実体化して衆目に姿を晒すな、と願ったのは貴様であろうに、それを反故にしてよしとするか。なれば躊躇うことはないな」
小ばかにする口調で言い、その場でくるりと背を向けた。
「図書館は確か、この道を北に行けばよかったな」
「え……あ……」
そのままカシャンカシャンと音を立てて歩いていくシャムスを見て、ウェイバーはようやくその異常事態に気づいた。慌てて追いすがり、声を限りに叫ぶ。
「ば、バカッ、そんな格好で街中歩くな! 分かったよ、ボクが行く!!」
結局ウェイバーは渋るシャムスを引きずって、いったん家に戻った。
全身びしょぬれのままではどこにも行けないし、鎧姿のシャムスを差し向けるわけにもいかない。
シャムスは何としても主命を果たすと意気込んでいたが、下手に目立って敵に気づかれたらどうする、何の準備もしない内に戦闘になれば、征服王の不利に働くばかりだ……と何とか説き伏せた。
その合間に何度もくしゃみをしてしまったので、説得に時間がかかってしまい、帰宅した頃には歯の根も合わなくなっていたが。
(こ、このままじゃ本当に風邪をひくっ)
頭痛と寒気にぶるぶる震えるウェイバーは、取り急ぎ風呂に入ることにした。イギリスと日本では入浴の仕方が異なるため、最初はなぜ無駄に広いのかと思っていた。が、浴槽の外で体を洗い、肩まで湯につかると芯まで暖かくなるのだと知ってから、ウェイバーはひそかに風呂に入るのが楽しみになっている。
「お爺さん、お婆さん……」
まだ夜には早いが風呂に入ってもいいか聞こうとしてリビングを覗くと、そこには誰もいない。机の上にメモがあったので、手に取ってみる。
『ウェイバーちゃんへ おじいさんと一緒に公民館へ行ってきます。五時には戻ります』
「何だ、留守か」
五時ならまだ二時間ほど間がある。気楽な気分になったウェイバーは自室から着替えを取ってきて、さっそく風呂場に向かった。が、
「……おい、何でついてくるんだよ」
ドアを開ける前に振り返ると、なにやら楽しそうな表情のライダーが後ろにいる。もちろん、シャムスも。
「湯浴みをするのか、坊主」
「そうだよ。何か文句あるのかよ」
わざわざシャムスを使いに出すくらいだ、余計なことをしていないでさっさと本をかき集めて来い……とでも言うつもりかと思ったが、ライダーの答えは斜め上だった。
「文句は無い。だが坊主、余も入るぞ」
「……は、はぁ?」
これで何度目だろう、またもや声が裏返る。このサーヴァントはまた一体、何を言い出すのだ。ウェイバーは濡れた髪を振り乱して、バカッと叫んだ。
「オマエは風呂になんか入る必要ないだろ、霊体なんだから!」
「しかし風呂など、英霊になってからこの方入ってはおらぬ。久しぶりに熱い湯で身を清めたいのだ」
「だからぁっ、そんなの我慢……」
ドッ!
不意に重たい音がして、すぐそばの壁が揺れる。びくっとして目線を下げたウェイバーは、鞘に納めた剣がライダーの背後から伸び、壁に柄頭をめりこませているのを見て取った。ひく、と口元を引きつらせて目で追った先には、お馴染みとなった冷たい眼差しでウェイバーを射すくめるシャムスがいる。
「……王が湯浴みをご所望されているのだ。貴様は黙って控えていろ」
「うっ……ううっ……」
いい加減、このパターンから脱却したい。大体、今一刻も早く風呂に入らなければならないのは、全身冷え切ったウェイバーの方なのだ。好奇心旺盛なろくでもないサーヴァントと暴力的な従者に、順番を譲るなんて、理不尽極まりないではないか。
「ええいっ、煩い!」
硬直を振り払い、ウェイバーはすばやく風呂場に入って扉をばしんと閉めた。「あっ、貴様!」シャムスが扉越しに声を荒げ、ドンドンと叩いてくるのに、やけくそで怒鳴りつける。
「ボクの後なら良いから、ちょっとくらい待て、このバカァッ!!」
「……いいか、五時になったらおばあちゃん達が帰ってくるんだ。それまでには絶対出ろよ。あと、中にあるものを壊すんじゃないぞ。終わったらきれいに掃除するんだ。……分かったな」
落ち着かない気分ではあったが暖かい湯船に浸かり、ほかほかに温まった後。ようやくすっきりした気分で風呂を出たウェイバーは、風呂の使い方を説明しながら、念を押した。
「うむ、うむ、分かっておる。案ずるな、満足すればすぐ出る」
「うわ!」
子供がおもちゃで遊ぶようにシャワーをいじっていたライダーがコックを開けた為、噴出したお湯がウェイバーの顔を直撃する。
「おおっと、すまんな坊主。しかしこれは便利だのう、ここをひねれば湯が出るとは」
「……絶対、何一つ、壊すんじゃないぞ」
こめかみを引きつらせ、顔を拭いながら風呂場を出るウェイバー。脱衣所から廊下へ出ようとしたところで、
「我が君。湯浴みの準備が整いましてございます」
「え?」
鎧を脱ぎ、服一枚になったシャムスが入れ替わりに入ってきた。ワンピース状のそれは腰を紐でくくるだけの簡素な作りで、袖が無いため、ほっそりとした手足が外気に晒されている。鎧を脱いだ分、はっきり体の線が分かるため、目の前をふっくらとした胸元が通り過ぎていくのに、ウェイバーはぽかんと口を開いた。ついで、
「えっ……え、ちょっと待て! 待て待て待て!」
あわくってシャムスの背中に声をかける。何だ、と振り返る従者に、おそるおそる問いかけた。
「も……もしかして、オマエも……ライダーと一緒に、入るのか?」
「当然だろう」
あっさり、きっぱり。何の疑問の余地も無いというように言い切られて、ウェイバーの顎が落ちた。ついでズアッと音を立てて、頬に血が上って熱くなる。
「だ、だ、だめだそんなの、だーーーめーーーーだ!」
「何だ坊主、なぜ止める。早く入れといったのは、貴様だろう」
風呂場からぬっと顔を出し、ライダーが怪訝そうに言う。
「そう騒いでおっては、隣近所のものがやってくるのではないか」
「な、なにを常識人っぽい事いってるんだよ! オマエ達が一緒に風呂なんて、そんな、そんな……」
そんなえっちな事させるものか! 赤面しながらぱくぱく口を開き閉じするウェイバーの前で、ライダーとシャムスは顔を見合わせ、それから何がおかしい、と同時に言う。
「王の湯浴みであるぞ、従者たる私が入らずしてどうする」
「もしや坊主。貴様、一緒に入りたいのか?」
ち、ち、違う! という力いっぱいの否定をしたかったが、言葉にならない。ウェイバーは目眩に襲われ、壁によりかかった。
(そ、そりゃあ王様ならお風呂の時、女の人に体洗ってもらったりするんだろうけど……け、けど!)
そういう光景は昔の王宮生活を描いた壁画の写真か何かで見た事がある。高貴な人々は身の回りのことをすべて召使にやらせるものなのだろう。イスカンダルは王なのだからそういう環境は普通だったのだろうし、従者として仕えていたシャムスであれば、それもまた当然のことなのだろうが、しかし、しかし、
「って、うわー! 何で脱いでるんだ!」
「まったく、騒々しいのう。湯浴みであれば衣類はいらぬではないか」
葛藤している間に、ライダーはぽんぽん脱いで、素っ裸になっていた。ボディービルダーも真っ青になりそうな分厚い胸板と肩、すみずみまで鍛え抜かれたその裸身は、まるで神話に出てくる神々の化身のように逞しく、そして、美しくさえある。筋肉だるまを平素嫌っているウェイバーでさえ、一瞬状況を忘れて見とれるほどだったが、
「では、久方ぶりの湯を存分に楽しもうではないか、わはは」
「はっ、我が君。天井が低うございます、どうぞお気をつけくださいませ」
その隙に主従は風呂場へ入り、ばしんと扉を閉じてしまった。
「あっ……あ、あぁぁぁぁ……」
われに返ったときは、もう遅い。力が抜けてへたりこんだウェイバーの前で、征服王は楽しげに入浴を始めたのだった。
(あと一時間……五十九分、四十五秒……)
ウェイバーは時計と睨めっこしながら、脱衣所でじりじりしていた。
マッケンジー夫妻が帰宅する予定時間まで、一時間を切った。彼のサーヴァントと従者は風呂場に入ったきり、いまだ出てくる気配がない。ざばーざばーと豪快に湯の流れる音がするので、きちんと体を洗っているようだが、合間に聞こえるライダーの楽しげな鼻歌が耳に届くたびに、ウェイバーはぎりぎりと歯軋りしたくなる。
(のんきに楽しんでいるなよっ、バカッ)
こっちはいつ夫妻が帰ってくるか、ひやひやしているというのに。
(あぁもう、何でボクがこんなこと心配しなきゃいけないんだ)
他のマスターもこんな風に、サーヴァントに振り回されているのだろうか。一瞬そう思ったが、始まりの御三家と名高い遠坂やアインツベルン、間桐などのマスター達であれば、そんな訳は無いだろう。結局己の才覚不足が、こんな情けない事態を引き起こしているのだ。
またもや沈鬱な気分になり、ウェイバーはハァァァァ、と肺の空気を思い切り吐き出した。
と、その時。
「……うむ、もう良いぞ、シャムス。では次は余が洗ってやろう」
風呂場からライダーの太い声が響いてきた。えっ、とシャムスが驚く。
「まさかそのような、恐れ多いことでございます、我が君」
「なに、そう堅苦しくなるな。そなたも久方ぶりの湯浴みであろう、せっかくだから垢を落としてゆけ」
「ですが……」
「シャムスよ、王の命が聞けぬというのか?」
しばし、沈黙。ややあってため息とともに、
「……では、背中だけ……お願いいたします」
ためらいがちな答え。しゅるりと衣擦れの音が聞こえるにいたって、ウェイバーはびくんと立ち上がった。すりガラスの向こうはライダーの大きな体が見受けられるだけだが、今の会話からすると、シャムスは間違いなく、服を脱いでいる。おそらくはライダーに向けて、あの顔と同じように白い背中を晒しているに違いない……
(! ! !)
うっかり想像してしまい、ウェイバーはカッと全身熱くなるのを感じた。
(ま、ま、まずいんじゃないかこれ!)
動転して意味もなく手を上下させてうろたえるウェイバーをよそに、中の会話はさらに続く。
「どうだ、シャムス。力が強すぎはせぬか」
「は……心地ようございます」
「そうか、そうか。思い出すのう、昔はこうしてそなたの湯浴みを手伝ってやったものだ」
「左様で。私は湯浴みなどした事がありませんでしたから、初めは大層お手を煩わせてしまいました」
「はは、そうであったな。ま、出会った時はまるで犬ころのように汚かったからのう。さもありなん」
「あのころのことはご容赦ください、恥ずかしゅうございます。……では我が君、そのあたりで……」
「ん? 何だ、まだ洗い足りぬぞ」
「いえ、十分でございます。私は……っ」
そこでシャムスが悲鳴じみた声を細く漏らした。がたがたん、と音が響き、
「わ、我が君、何をなさっておいでですっ」
今まで聞いたことのないような焦り声が聞こえてくる。しかしライダーは楽しげな様子で、
「言うたであろう、まだ洗い足りぬと。そなたは余の体を隅々まで洗ったのだ、その返礼をせねばな」
「いえ、私は本当に……あっ」
「うむうむ、そなたの肌は変わらず瑞瑞しい。まるで吸い付くような手触りだ」
「わ、我が君、お待ち下さい、こ、このような場所でお戯れを、せめて、あの、んっ……」
……その後どうなったのか……は、ウェイバーは知らない。浴室から漂ってくるえもいわれぬ雰囲気に脳が許容量を超えたため、
(う、うわあああああああっ!!!)
声なき絶叫を上げて飛び出し、階段を駆け上がった。そして勢いあまって自室の扉にものすごい音を立てて激突し、
(こ……こんなの……アリかよ……)
薄れ行く意識の中で、本当に、心底、自分がサーヴァントを選び間違えた事を悔いたが故である。