――いつの頃からか。欠けた夢を、見る。
「おとうさんまって、あっ!」
後ろからついてくる足音が不意にとぎれ、どさっと倒れる気配がした。舌打ちして振り返れば、地面につっぷした小さな子ども……アーシャが目に入る。
「間抜けが。いちいち転ぶんじゃない」
毒づきながら歩み寄り、腕を掴んだ。ぐい、と引き起こせば、アーシャは「びっくりした! あ……ごめんなさい、おとうさん」口癖をこぼした後、こちらを見て表情を曇らせた。
(……いつもこうだ)
自分は父親で、アーシャは実子。
それは間違いないのに、娘はいつも自分に謝る。恐れるような、怯えたような表情を見せる。子どもらしいわがままなど一つも言わない。何か言いたげにしても、黙り込んでしまう。
(俺は親に向いていないのかもしれない)
そんな事を思う。どう見ても自分とアーシャの相性は悪い。
だが、だからといって放り出すわけにはいかない。相手が大人なら、間抜けと吐き捨てて背を向ければそれでしまいに出来るが、こんな小さな子どもを見捨てられるほど、薄情になれない。
(どうすれば、この苛立ちを無くせる。親らしく振る舞える)
分からない。分からないまま、アーシャの頬についた土をぐい、と払い落して、腰を上げる。
「さっさといくぞ。のろのろしていたら、夜が明ける」
「……うん!」
歩き出す。さっきよりは少し歩調を落とすと、駆け寄ってきた娘は、少し迷った後、そっと彼の指に触れた。
「!」
はっと見下ろすと、アーシャはもじもじしながら、小さな手で指を握ってくる。
(……この方が、いちいち後ろを振り返る必要がいらないな)
そう言い訳して、前へ視線を戻した。途端、
『 』
柔らかな、笑い声のような、そんなものが耳の奥で微かに響いた気がした。
欠けた夢を見る。
それが何なのか、知る由もない。
ただ、間違いなく何かが欠けていると自覚する夢。
(何だ。何が無い。俺の手の中には、何があるべきだ)
とらえどころのない不安と空虚感に、体が砂のように崩れていくのを感じる。
(いやだ。なくしたくない。何もなくしたくない。これ以上何も失いたくない)
叫ぶ。だがその声は喉からほとばしる事はなく――ただ、夢から覚める。
彼は神を信じている。いや、信じざるを得ない、と言った方がいいのか。
信仰は人生の礎で、なくてはならないものだ。祈りは息をするのと同然に等しく、この世に生まれ落ちてから死ぬまであるべきもの。
そうと知っているが、このところの祈りは、神への感謝だけではなく――畏怖と恐怖を伴っていた。
(一心不乱に祈れば、祈りが神に通じれば、死なずに済む。次のユガまで生きながらえる。……そうなった)
この世界は神によって支えられており、神は民の祈りを支えにしている。
両者は同格ではないが、互いに結びついて影響しあっているもの。
故にこそ、民は神に感謝をささげ、神は見返りに豊穣を与えるのではないか。
だが今、恩恵を受けられる期間は短い。
たった十日、ユガは短い期間に目まぐるしく回り、街を襲いに来る悪魔に怯える日はすぐにやってくる。
(昔はもっと長かった気がするが……どうでもいい、今はこうなのだから)
自分たちに出来る事はない。
あの悪魔は人間にはとても敵わないほど強く、凶暴だ。
だから神へ祈る――どうかあの悪魔よりお守りください、次のユガへ私たちを導いてください、と。
……その祈りに疑問を抱いたのは、いつだったのか。
始まりは、突然街を訪れたあの奇妙な旅人たちだ。
アーシャはぼうっとしていて警戒心が薄い子どもだから、カリが今まさに襲い掛かってこようという時に、あの連中にほいほい近づいて行った。
間抜けが、と罵ってアーシャを連れ戻した。通りすがりの連中がどうなろうと知った事ではない。見知らぬ他人の面倒まで見ていられない、それは当然だ。
だが……連中は、死ななかった。激しい激突音が響いてきたのに気になって、そっと通りを窺えば、そこでは人がカリと闘っていた。
(バカな、勝てるわけがない)
隠れて祈ることでしかやり過ごせないというのに、と舌打ちしたのもつかの間。連中は信じがたいほど素早く動き、対峙し、そして襲った。
槍が、剣が、大きな盾が、カリを薙ぎ払う。そしてカリを倒すためにやってきた聖獣さえも殺す。
(何だ、あれは)
それは初めて目にする光景だった。人が、神の獣を殺している。――そんな事が出来るのか。
連中は、人ではありえないような力を持っているようだった。もしかしたら神将のように、尋常ならざる力を得た存在なのか。
それは分からない。知りたくない、どうでもいい。どうせ厄介な事に決まっている、日常を脅かすものにあえて近づきたいとは思えない。
だが、ただ……思う。人にもあの獣が殺せるのだと。
欠けた夢を見る。
今夜のそれは、いつもより鮮明だ。霧の中をうろつき回るような心細さはなく、自分は家の中で腰を下ろしてかまどの火を見ていた。
右手にはアーシャ。自分が作った特にうまくもない飯を、一心不乱に食べている。あまりにも夢中になっているから、頬に汁が飛んでいる事にすら気づかない。
(頬を拭け、間抜け)
そう言って手で触れようとして、
『アーシャ、お顔が汚れているわよ。女の子は、いつも綺麗にしなきゃ』
不意に響いた声が、すべての光景を消し去った。
起き抜けに、服を入れてある行李に飛びついた。
「……おとうさん……? どうしたの?」
寝ぼけたアーシャの声が背に届いたが、構っている暇はない。蓋をあけ、乱雑に詰め込まれた布の塊に手を突っ込んだ。
(俺は何をしてるんだ。ここに何がある?)
自分の行動が理解出来ない。出来ないまま、いくつもいくつも、周囲へまき散らすように服を放り出す。小さな子供の服と大人の服、自分とアーシャだけでは多いのではと思えるほどのそれらを全て取りだして……奥底。
底に、女物の服が一着、くしゃくしゃになって放り込まれていた。
――――!
その一瞬、胸に去来した思いが何なのか分からない。
だが、息がつまるほどの痛みと共に目が熱くなり、視界が歪んだ。零れ落ちる涙をアーシャに見せまいと、その服に顔を埋めて声を抑える。
『 』
また、笑い声が響いたような気がする……女の、柔らかな、優しい声が。
悪魔は、聖獣は、殺せる。
その事に気づいてしまった時から、自分はもう神にとって不要のものになるだろうと想像はついていた。
(アーシャ)
戦闘で負った傷の手当てを受けながら、娘を呼ぶ。
いない。どこかへ行ってしまったのか。あの連中と一緒だろうか。
それならまだ、いい。あの間抜けどもは強いから、子ども一人くらい守れるだろう……自分とは、違って。
(ああ……約束したのにな)
カリも聖獣も、おびただしい数。おまけに神将まで現れて、まさにこの世の終わりといわんばかりだ。
すぐにユガが回るとはいえ、今回はひと際酷い。こんなことなら今まで通り、家に閉じこもって祈っていた方が良かったかもしれない。
(……いや。無理だな)
傷の痛みに呻きながら、笑う。
なぜなら自分は気づいてしまった。全く、欠片も思い出せないというのに、確かに何かを失ってしまったのだと。そしてそれを奪ったのはまぎれもなく――これまで祈りをささげ続けてきた神に他ならないのだと。
(盗まれた事にすら、気づきもしなかったなんてな)
すーっと血の気が引いて、寒気を覚える。こんなに流血したのは初めてだ。死ぬのも初めてだ。
痛み、恐れ、失望、悲しみ。
心中で渦巻く感情を言葉に表すことは出来ず、ただ苦しみと悔い、そして怒りがこみあげてくる。
(ああ、くそっ……こんなことなら、もっと早く、祝ってやればよかった)
お前の誕生の日だろうと言ったら、驚くほど顔を輝かせたアーシャ。ああ、こんな簡単な事で良かったのか、と拍子抜けするほど、娘を喜ばせられた自分をようやく知ったのに。
(アーシャ。……すまん)
小さな、幼い、ぼうっとしていて頼りのない、自分の子。
たった一人の家族を残していく未練に、身が引き裂かれるような思いを味わいながら、彼は微笑んで小さく呟いた。
――ああ、せめて自分の死だけは、奪われずに済む。ざまぁみろだ、間抜けな神め。