それは聖杯へ至る道。
戦争を勝ち残った者のみが踏み入る事を許された、果てのない広大な海。
光を越えてたどり着いたその場所には、巨大なアーティファクトがあった。
離れていてもはっきりわかるほど、膨大な力、情報が渦巻くそれはまさに、奇跡を叶える願望器だ。
だが、後少しで届くその奇跡の前に、一人。石柱と棺桶だけが存在する、現実離れした静寂の空間に、場違いなほど現実的な姿があった。
白衣に眼鏡の、痩せた男。
これといって特徴のない、研究者のような、一見して冴えない男は、前を真っ直ぐに見つめた。そして、
「――おめでとう。君が聖杯戦争の勝者だ。……と、言いたいところだが。なかなかひどい有様だな、君は」
淡々とした声で指摘する。対して、
「っ……」
ぼろぼろになった制服の上から、切り裂かれた腕を押さえて、少女はその場に在った。
はぁ、はぁ、と荒い息を吐き出す様は、今にも倒れてしまいそうな程弱々しい。
「君の最後の対戦相手は、か弱い少女を手に掛けるような男では無かったと思ったが――その怪我はどうしたのだろう?」
「……あなたは、誰……なぜ、そこに、いるの……」
少女はしかし、質問に質問で返した。
「…………」
眼鏡の男は沈黙し、やがて頭を振った。そんな些末事など、どうでもいいと思ったのか。少女の問いに答える形で、自身について語り始める。
曰く、自分は君と同じ、データから生まれた存在なのだと。
曰く、自分こそがこの聖杯戦争を作り出した存在なのだと。
彼はまだ生きていた頃、数多の戦争を見続け、絶望に打ちひしがれ――同時に、その地獄の中で生きる人々の力強さに、美しさに心打たれた。
テロによって命を落とすまで、そしてムーンセルの中で、生前にも増して多くの争いを見続けてきた彼は、やがて結論づけた。
人間には闘争が必要だ。闘争無くして、進化はあり得ない。
「――さぁ、聖杯に願いたまえ。停滞し、緩やかに死へ向かっていくこの星を救う為に」
トワイスと名乗った男は腕を広げ、勝者を招く。
彼と同じデータから生まれた存在であり、戦いの中で成長してきた彼女なら、きっとわかってくれるはずだと信じて。
だが。
「……わたしはっ……そんな事のために、来たんじゃないっ……」
懸命に痛みをこらえながら、少女はトワイスを睨みつけた。強い意志の閃く瞳は揺るがず、断固として告げる。
「どいて……私は、聖杯に……願いを、叶えてもらうの……!」
「君の思いはわかった。だが、思いだけで願いが叶うものと、本気で信じているのなら、それは愚者の妄言だ」
少女の叫びに、トワイスは淡々と答え、棺桶の山から海の水面へと降りたった。
繊細ささえ感じさせるその痩身から、しかし不意に魔力の渦が立ち上り、
「本当に願いを叶えたいというのなら、この私を越えていくがいい。君と同じ、データから生まれた魔術師を」
瞬間、世界が揺らいだ。
――――っ!!
悲鳴も出ない。空間が震えるほどの衝撃が少女を数メートル後ろへなぎ払う。地面を何度か転がってようやく止まり、
「う……っく」
もうろうとしながら顔を上げた少女は、硬直した。
その瞬間、心を満たしたのは、畏怖。
圧倒的な神気に空気が揺らぎ、息さえ詰まりそうになる。
トワイスのそばに現れたのはおそらくサーヴァントだが、それはあまりにも神々しく、あまりにも圧倒的だった。
敵意、殺意、戦意、そんなものはかけらもない。こちらを見つめる瞳は凪いだ海のように平らか。
目が合えば、心の奥底まで見透かされてしまいそうなほど静かなまなざしは、理解しがたいほどの慈愛に満ちていた。
「さぁ――証明してみせてくれ。君の強さを。進化の証を」
トワイスが緩やかに告げ、サーヴァントがそれに答える。
空をなでるように手が動き、ひたり、と掌がこちらへ向けられた。その前に魔力の渦が寄り集まり、目がくらむほど濃密な固まりとなって揺れ動いた。
(死ぬ)
地面に倒れたまま、少女は凍り付く。
それはあまりにも絶対的な死、避けようの無い死だった。
ここまで戦いをくぐり抜けてきたといっても、彼女自身は戦う術を持っていたわけではない。
彼女の能力はあくまで戦闘補助にとどまる。直接攻撃を行う魔術はいくつか修得しているものの、あの力の前では児戯にも等しかった。
その力の余波だけで、もう立ち上がることも出来ない彼女に、トワイスは最後の言葉をかける。
「君ならあるいは、聖杯に届くだろうと信じていたのだが……残念だ。さらばだ、弱き者よ。君の戦いは、ここで終わる」
(嫌だ。死にたくない)
彼女はここまで、死にたくないと足掻いてきた。
意義を持たぬまま、明確な意志を持つ者達を押しのけて勝ち続けてきた。
勝利の余韻も誉れも無い、ただ凄惨で悲しい戦を、彼女はくぐり抜けてきた。
(なぜ)
瞬きの合間、光が身を焼き尽くす瞬間を予見しながら、彼女は問う。
(なぜ、こんな)
恐れ。違う。恐怖。違う。無念。違う。心身を満たすこの激しい感情は――後悔だ。
(なぜ、こんな終わりを迎えるのか)
問いは、戦の始まりに抱いたそれと、同じ。だが意味合いは全く違う。
(嫌だ。ここで終わるなんて。私は、私は、聖杯に願いを――)
心を焼く悔いに身じろぎし、死から逃れようと足掻く。
周囲全てを覆い尽くす光から逃れようもないと知りながら、それでも手足を蠢かし――眼前に迫ったその光に目を灼かれかけたその時。
影が、光を遮った。銀光が走り、光弾を両断し――ついで、背後で爆発が起きた。
「あっ……!!」
爆風に煽られ、体が浮く。そのまま為すすべもなく吹き飛ばされそうになり、だが、がっしりした腕が彼女を抱き留めた。
「マスター。無事か」
耳になじんだそれは、彼女が最も信頼するサーヴァントの声。落ち着いた、冷静な、何よりも頼りがいのある――今は、恐怖を引き起こす声。
「アーチャーっ……!」
風が収まるのと同時に、少女は怯えてその腕を振り払った。払った拍子に少女の肩に新たな傷が走り、サーヴァントの体には雷光が走る。
「っぐ! ……はっ……あぁ……!」
雷は少女のそばにいればいるほど、激しさを増す。サーヴァントがよろよろと後ずさった時、トワイスが声にわずかな驚きを滲ませて呟く。
「こちらもまた、ずいぶんと様変わりしたものだ。一体君たちに何があったのか、聞かせてもらえないだろうか」
「はっ……貴様の戯言につき合う時間など……私には、ない……」
苦しげに息を弾ませながら、彼は敵に向き直った。
傷つき弱っている体からは、しかし漲る魔力が陽炎のように立ち上り、殺気となって周囲の空気さえ軋ませる。
「マスターは……殺させは、しない……誰にも、誰にもだ……!!」
「アーチャーっ……だ、めっ……!」
呪いにも等しい誓いの言葉。少女は戦慄しながら叫び、手を伸ばした。だがそれはサーヴァントに届く事なく――
そうして、真に最後の戦いは終わった。
結果として、世界を揺るがすほどの激闘の勝者は、堅固な意志を貫き通したサーヴァントだった。
「――なるほど、愚昧もまた真実か。訂正しよう。君のその思いの強さを、私は認める。
……さぁ、聖杯へ手を伸ばすが良い。その願いは、君の命そのものなのだから」
破れたトワイスは、無表情の中に微かな喜びを見せて消え去り、
「命あるものは必ず滅びる。衆生は苦しみの輪廻にいる。嘆き、苦しみ、いずれ人は涅槃へたどり着く事だろう。最後まで戦い続けたその命に、祝福を」
つかの間現界した仏は、やはり平らかに微笑んだまま、去りゆく。
「……はあっ……はあっ……はあっ……」
「は……う、……くっ……」
そうして、また。世界には、マスターとサーヴァントだけが残される。
マスターの少女は、傷ついた体を手で押さえてうずくまっていた。怪我の痛みと、激しい戦闘で魔力が激減したせいで、今にも気を失ってしまいそうだ。
けれど、それも出来ない。今、彼女の前にいるサーヴァントへの恐怖で、意識を手放す事も出来ない。
「マス、ター……」
全身で息をしながら立つサーヴァント。ずっと彼女を守ってきたその姿は――しかし今、様変わりしていた。
全てを見はるかす鷹の目は、狂気に染まって彼女を射竦め。
身を包む赤い外套は黒に染まり、血脈のように赤いひび割れに浸食され。
そしてその外套を食い破るように、体の内側からは数多の刃が突き出していた。
「アー、チャー……どう、して……」
敵を切り刻み、少女を切り刻み、自身さえ傷つける、剣の体。
もう誰のものかもわからない血にまみれ、かつて英雄だった男は、暗く、享楽に笑った。
「どう、して、か。君は、私が、マスターの危機を、黙って見過ごすと、本気で、信じていたのか?」
「だって……令呪が……」
そう囁く少女の左手には、二画を欠いた令呪があった。
サーヴァントへの絶対命令権を発動するその一つは、友人を救う為に使用された。そしてもう一つは――自らのサーヴァントを退ける為に、消費されている。
「そんな、もので……私が、君を、あきらめる、わけ、がっ……!」
一歩近づいた時、まるでむち打つように黒い体に稲光が這う。ばぢっとはじける音と共に、肉の焼ける臭いが鼻をかすめ、少女は悲鳴をあげて頭を抱えた。
「やめて……やめてアーチャー、これ以上は……!」
魂がきしむ耳障りな音が聞こえる。
アーチャーは自身の能力を越えて、強敵を打破した。
しかしその戦いのダメージは少女にも癒しきれず、また令呪により、その体には多大な抑圧がかかっている。
すでに満身創痍となっているのに、アーチャーはマスターに課せられた重いくびきから逃れようとあらがい、
「あ、ぐ……あ、あ、あぁぁぁ、アアアアア!!」
獣じみた絶叫を上げてその身から滝のように血を流した。やめて、と少女は顔を上げて嘆願する。
「お願い、アーチャー、もうやめて……」
もはや無傷の場所などないほど傷つきながら、それでも少しずつ近づいてくるサーヴァント。それを見つめる少女の視界が滲む。涙が溢れ出し、喉から嗚咽が漏れる。
――こんなはずではなかった。自分はこんな結末など望んでいなかった。
ただ死にたくないと願い、誰も傷つかない幸せな未来を夢に描いていた。
それが叶わないということは初めての戦いに勝利した時に、わかってはいた。
誰かと対峙するたびにこの人たちも生きていてほしいと願い、それがむなしくかききえていくのを何度も見て、そのたびに悲しみと絶望に襲われた。
そして第七のサーヴァントと戦う時、彼女のそばに残ったのは、ずっと力になってくれた赤い魔術師だけ。
その強さに、存在に、少女は心から感謝した。彼女が居てくれたからここまで来られたのだと。
だから最後の最後、この戦争が終わって自分が勝利した時、せめて彼女だけは外の世界へ戻して欲しいと、聖杯に願うつもりで――
けれどその願いは、他ならぬ目の前のサーヴァントによって断ち切られた。
「なぜ、凛を……凛を、殺したの、アーチャー」
涙に声を詰まらせながらの問いに、びしり、と足から新たに剣を生やしながら、サーヴァントは答える。
「決まって、いる……私から、君を、取り上げようと、したから、だ」
違う。凛は優しかった。アーチャーの豹変に怯える自分を匿い、守ろうとしてくれた。強大な力を持つサーヴァントに単身挑み、果敢に戦って。
――あいつを、恨んじゃ、駄目よ――
破れて息も絶え絶えになりながら、凛はそれでも笑みを浮かべて、
――やっぱり……アーチャーは……あなたが……止めないと――
最期まで導き手として、助言を残してくれた。
(だから、私が)
熱い。体中が痛みに悲鳴をあげ、心が砕けそうになる。涙に曇った視界に黒い影がかかり、血と肉の焼けるおぞましい臭いで意識が飛びそうになる。
「マス、ター……」
崩れ落ちるように膝をつき、アーチャーは剣の腕をのばして彼女を抱きしめた。
その身を蝕む雷光が、むきだしの刃が、少女を傷つける事も気づかず、ああ、と幸せそうに熱い息を吐き出す。
「やっと……手に入れた……マスター……君は、私の、ものだ」
「アー、チャー……」
次々と溢れてくる涙を拭いもせず、少女は剣の抱擁に身を任せた。
悲しい。苦しい。痛い。
けれど今一番傷ついているのは、きっと彼だ。自分が彼の思いに気づかず、ここまで甘え続けてきてしまった。だからきっとこれは、受けなくてはならない罰なのだ。
罰を受けるのはいい。悪いのは自分なのだから。でも、もう駄目だ。こんな光景を見ていられない。
――だから、私が終わらせないと。
少女は、心の中で決意をして。
黒く染まった外套が、まだかろうじて元の色を残す肩口の辺りに手を回し、きつく握りしめて。
少女はその手に宿る令呪に、最後の祈りを込めた。
「アーチャー……私を、忘れて」
恐ろしいほどの静寂が耳をふさいだ。
焼き付くような痛みが手の甲を覆い、しかし速やかに引いていく。淡い赤光を散らしながら消えていくそれをアーチャーの肩越しに見つめ、少女は最後の涙をこぼした。
同時に、自分を抱きしめるサーヴァントの腕から、力が失せていく。
「ます、たー」
ずるり、と手を滑り落とし、アーチャーは彼女を解放する。そっと離れると、アーチャーは目を瞠り、彼女を見上げていた。呆然としたその表情はやがて、狂騒の色を帯びる。
「いや、だ……嫌だ、待ってくれ、マスター!!」
吐き出される声はまるで、子供の駄々のようだ。もはや立ち上がる力さえない体を引きずり、彼は必死の形相で叫ぶ。
「やめてくれ、俺は忘れたくない、忘れたくないのに!!」
すがるような瞳から涙が溢れ出し、ぼろぼろとこぼれ落ちていく。初めて見る彼の泣き顔は、あまりにも必死で、あまりにも恐ろしかった。
「駄目、忘れて――全部……全部、忘れてっ!」
それを振り払い、少女は駆け出す。
傷つき血を流す体はともすれば足下から崩れ落ちそうになるが、何度も転びそうになりながら、それでも走る。
「マスター、マスタぁ、マスタぁぁぁっぁあああぁぁっァァァぁああぁあ!!」
狂ったように叫ぶアーチャーの呪詛が、萎えそうになる体を突き動かす。
(私は)
水を蹴散らす足が階段に乗る。聖杯へと連なる光の階段を、少女は一気に駆け上がる。
(私の、願いは)
世界中の争いを止める、聖杯を壊す、友人だった少女を生き返らせる、……奇跡の願望器に捧げるべき願いは山のようにあり、けれど今、自分が望むのは、たった一つしかない。
(アーチャーを)
遠ざかりつつ、徐々に弱くなっていく悲鳴を聞きながら、少女は光の束の前へとたどり着いた。
膨大な情報量を誇る聖杯を前にして、躊躇いもなくその中へ飛び込み、全身全霊を込めて叫ぶ。
――アーチャーを、元に戻して!
勝利もなく、誉れもなく、ただひたすら正義を貫き通してきた、不器用で、優しい彼を。
あんな、剣で全身を覆い尽くした、悲しい獣のような姿ではなく。
自分のせいでああなってしまったというのなら、自分と出会う前の彼に。
自分が心から信頼し、命を預けてきた、誇り高いサーヴァントの姿に戻してほしいと。
たった一つの願いを、聖杯に託した。
アーチャーは不意に覚醒した。
「っ……?」
ばちん、とスイッチを入れたように視界がクリアになり、体が動き出す。彼はしなやかな動きで立ち上がり、ぐるりと周囲を見渡した。
「……ここは、どこだ?」
体には、傷一つ無い。魔力の循環にも滞りはない。それに反して、記憶は曖昧だった。
目に入るのはどこまでも続く大海。天を刺すように突き立つ白い石柱と棺桶が連なるそこは、全く見覚えが無かった。
だが、自身の前に鎮座する巨大な構造物を見上げ、アーチャーは目を細める。
「これは……聖杯か。驚いたな、まるで自由に取れといわんばかりだ」
その膨大な力のありようにほとほと感心し、再度辺りを確認してみるが、どうやら彼以外誰もいないらしい。
「さて。これはどうしたものか」
マスターも無しにサーヴァントが現界する事はあり得ない。
自分がここにいるというのなら、近くに主人がいるはずだ。
しかしいくら契約のシークエンスを起動しても、結果は変わらなかった。この広い広い世界の中、生きて存在しているのは彼一人だけのようだ。
「……ふむ。何かの間違い、とは思えないが……まぁいい。この魔力量なら、2日もすればお役ご免だろう。せいぜい、久しぶりの現世を楽しむか」
そう一人ごちて、彼はあっさり聖杯に背を向ける。
彼には自身に叶えるべき願いなどなく、マスターが居ないのであれば、万能の願望機にも用はなかった。
そうして数歩進み出したが、不意に振り返る。
「……?」
背後を見渡し、自分の行動に首を傾げる。
音や気配があった訳でもない、何の理由もない動作。なぜそんな事をしたのか、自分で分からない。
視界に映るのは、光の束を後生大事に抱えた聖杯だけだというのに。
「……やはり、何か情報が欠落しているのかもしれないな……接続が不安定なのか?」
何か頭にもやがかかったような、いまいちすっきりしない気分で、アーチャーは再び歩き出した。今度は立ち止まらず、真っ直ぐ出口へと進み――
そうして、一人の少女とサーヴァントの記憶を飲み込んだ聖杯は、その情報を蓄積し、分析し、演算する。
いずれまた繰り返される日々、数多の結末を描き出す為に。