いっそ全て奪ってしまえたら、楽になれるのに。
ふと眠りを妨げられたのは、夢が不快だったからだ。
「…………」
明かりを落とした教室の中、すっと目を開いた俺はしばらくの間、身じろぎもせずじっと天井を睨みつける。
『ユリウス』
彼女の声が蘇る。同情。憐憫。悲しみ。相手への思いに満ちあふれたその声が震え、瞳から涙がこぼれ落ちた。
『泣いているのか……俺の為に』
それを見た男は、悲しげに、それでいて満足そうに笑った。
無駄な人生だったと。闇の中でもがき苦しむだけの生だったと、ユリウスは述懐した。
それには、少なからず共感を覚える。
俺は奴と違い、自分自身で生き方を選んできた。楽しみや喜びが無かった訳ではない。だがそれ以上に、苦しみのほうが何倍も多かった。
報われる事の少ない生き方は、きっとあの男と似ていただろう。
だが――少しばかりの親近感を持っていたユリウスに、俺は今、嫉妬している。
「……」
身を起こして目をこらすと、教室の片隅で眠るマスターの姿がすぐ見つかる。
俺は静かに立ち上がり、音もなく近づいた。
すぐそばで足をつき、見下ろす。
前回は友人、今回は亡者を打破し、その上自身の正体まで暴かれた。
精神的な負担も相当なはずだが、彼女は折れない。
今日もしばらくは寝付けない様子で何度も寝返りをしていたが、やがて泥のように深い眠りの底へと落ちていった。
「マスター」
念のため、と小さく呼びかけてみたが、少女はびくともしなかった。すー、すーと規則正しい寝息を聞きながら、俺はそっと手を伸ばす。
戦いの中で鍛えられていった無骨な、血にまみれた指。それで触れるには、マスターは平凡に過ぎた――あるいは、清純だった。
故に俺は指を触れさせぬまま、ゆっくり、頬の輪郭をなぞった。あの時涙がこぼれた場所を、宙に浮いた指先で追う。
『俺の為に』
あの涙を見て、ひどく嬉しそうに笑った男。俺はその笑顔に、身を焼き尽くすような嫉妬を覚えてしまった。
(泣くな、マスター)
我ながらよく、あそこで我慢が出来たものだ。
(君を暴いた男の為に、泣くな)
そう怒鳴りつけずに済んだのは、ひとえに強靱な自制心のおかげだ。
俺はあの時、怒っていた。彼女を亡者と呼ぶあの男に。そしてあの男の為に泣く、彼女に。
「……マスター」
身を乗り出した。赤い布にくるまって横たわる少女の両脇に手をつき、覆い被さる。マスターは起きない。
一度寝付けば、彼女は朝まで目を覚まさないからだ。
(もう手遅れだ)
いつの頃からか分からないほど自然に、俺は彼女を最優先事項に据えてしまった。
俺の全ては彼女の為にある。そしてそれ故に、彼女も俺の為にあるべきだと、誰かが嗤いながら囁いてくる。
「……っ」
ドッドッと激しく鼓動する上体を、沈める。
ふれ合うほどに近づけば、マスターからほのかに甘い香りが漂う。
健やかな寝息。緩やかに上下する胸元。艶やかな髪が広がる赤い布の下から覗く白い素足。そして微かに開いた、柔らかそうな唇――
「マス、ター……」
その全てに溺れてしまえたら、どんなにいいか。
からからに乾いた喉から声を絞り出した俺は、無防備に晒された首筋に顔を埋めて、とくとくと脈打つ柔らかな肌に唇を寄せようとする――それでマスターが目を覚まして、己のサーヴァントの所業に悲鳴をあげるだろうと、思いつくまで。
「っ……!!」
脳裏に描いたマスターの姿が、楔になった。
熱くたぎる体の欲するままに少女を蹂躙する、その暴力的で甘美な誘惑を、俺はかろうじて振り払った。それに抗い、後ろ数メートルの距離まで一気に飛び退く。
「っは、は、はぁっ、はぁっ――!」
昂揚する劣情に、脳まで焼かれる。視界が歪み、少女の元へ戻れと命じるように足に力がこもる。
「……せぃっ!!」
ドッ、と重たい手応え、そして激痛。前方へ走り出ようとする足を、俺は干将で突き刺した。物理的に進行を妨げられ、体が足下から崩れ落ちる。
「痛……は……何を、しているんだ、俺は……」
刃を抜けば、太股からとろりと血が溢れ出す。息を荒げてそれを見下ろしながら、俺は俺を侮蔑した。
サーヴァントたる本分を忘れ、まるで一人の人間のようにマスターを思い、挙げ句、自分勝手な欲望で彼女を傷つけようとするなんて、度し難いにも程がある。
自分は幽霊のようなものだ。
この戦いの間だけ現世に顕れる事を許された、ただの始末屋。目前に迫った最終決戦、それが終われば消えてしまうだけの――
(……あぁ。そうか。それは、マスターも同じなのか)
そこでやっと、気がつく。
マスターはかつて生きていた人間の再現データが自我を持った存在であり、地上の肉体はない。聖杯戦争が終われば消えてしまうのは、彼女とて同じ事なのだ。
(だから。彼女が欲しいと)
マスターの未来を思い、一時の陽炎に彼女を奪う権利などないという、頑なな思いこみが壊されて。
同時に、他の男のために涙を流す彼女に、どうしようもなく独りよがりな怒りを覚えて。
(今だけでもいいから、俺だけの物にしてしまいたいと、そう、思ったのか)
つかみ切れていなかった自身の心をようやく把握し、俺は、ハッと失笑した。
あきれたものだ。正義の味方を名乗り、私心を殺し、他者のためだけに生きてきたこの身にまだ、これほど浅ましい欲望が残っていたとは。
(欲しい。抱きたい。何もかも俺のものにしてしまいたい)
(やめろ。抑えろ。俺は、マスターを傷つけたくない)
相反する望みがぶつかり合い、心がきしむ。俺は歯を食いしばり、自分の体を拘束するように腕を回し、暴走する熱を押さえ込む。
だから、気づかなかったんだ。
いつの間にか目を覚ましたマスターが、自分から、俺の元へやってくる、その足音に。
俺を気遣う少女が、自ら罠の口に飛び込んでこようとしているなんて――気づいていたとしても、もう、手遅れだったんだ。