ささやかな幸福

 ぱたぱた。ぱたぱた。ぱたぱた。
「…………」
 忙しない足音が、朝から何度も後ろを行き来する。その回数が三十を超えるに及んで、縁側に座って本を読んでいた宗一郎は顔をあげた。
 音のない仕草で視線を巡らせると、さっき歩み去った方向から、空の洗濯かごを抱えたキャスターが戻ってくる。
「キャスター」
「はい、宗一郎様。何かご用ですか?」
 打てば響くとばかりに反応し、笑顔で自分のそばまでやってくる希代の魔女。
 とがった耳、透けるような白い肌にまとった長裾の衣と、見た目は日常からほど遠いというのに、彼女は家事に余念がない。
「忙しいのか」
 朝からずっと動きっぱなしで、少しも休んでいないようだ。そう思いながら問いかけると、彼女は軽く首を傾げる。
「いえ、大方は片づきました。後は門前の落ち葉掃きくらいです」
「そうか」
 言葉少なに頷き、宗一郎はぽんぽん、と自分の隣の床板を叩いた。
「?」
 その仕草の意味が分からなかったのか、キャスターは目を丸くしている。
 ……自分の悪い癖だ。言葉惜しみをしているつもりはないのだが、つい、必要な事まで伝え損ねる。
「――少し休め。働きすぎだ」
 自省して付け足すと、彼女はさらに目を瞠り、
「……は、はいっ! 喜んで、宗一郎様!」
 それからぱぁっと頬を紅潮させ、いそいそと宗一郎の隣に腰を下ろす。嬉しそうに顔を綻ばせる妻を見届け、宗一郎は再び本へ目を戻した。

 宗一郎には、物事を楽しむ気質がなかった。
 暗殺の術のみを鍛え、仮の名前、仮の身分で生き続けてきた半生に娯楽の入る余地などなく、それを惜しみ、悲しむ事さえ知らなかった。
 だが、それも今は昔の事だ。
 暗殺者から鞍替えした葛木宗一郎という教師の役は殊の外、彼の性根に合っていたらしい。
 気がつけば彼を恩師と慕う生徒、明るく笑いかけてくる同僚、血がつながらなくとも兄同然だと言う弟分が出来て――そしてしまいには、成り行きとはいえ妻まで娶る事になってしまった。
「~♪~♪」
 引き留めたにも関わらず、ただ本を読んでいるだけのつまらない男の脇で、何をするでもないキャスターはひどく幸せそうだ。
 正真正銘、一国の姫君たるこの美しい女が、なぜ自分などに構うのか。
 宗一郎にはその理由わけが分からない。分からないが、
(このひとときは、悪くはない)
 漫然とそう思う――機械のごとく正確を良しとする性根の自分が、何となく、そう思うのだ。
「メディア」
「……はい、宗一郎様」
 名を呼べば、彼女はその美貌に溢れんばかりの愛をたたえて答える。それを眩しいと、少し恐れを抱きながら、
「――いつも、ありがとう」
 普段は口にしない礼の言葉を、静かに紡いだ。せめて少しでも、彼女の気持ちに応えられるようにと、精一杯心を込めて。