――それはもはや、遠い記憶。
――影に蝕まれ、飲まれた時に消え去ったはずのもの。
彼女を現世に喚んだのは、未熟な魔術師だった。
聖杯戦争の意味さえ知らず、戦い方も、マスターとして最低限の知識も持ち合わせていない、ただの少年。
前回のマスターと比べれば、彼はあまりにも脆弱だった。そして、戦いにかける意気込みさえ、間違っていた。
――セイバーは、女の子なんだから。
そう言って、彼女の行動を制する彼に、本気で呆れた。
戦いを止めたいという。誰も死なせず、救いたいという。
そんな願いを真面目に、自分の命さえ省みず口にする少年に、彼女は失望し。
――だが同時に、それを、好ましいと思ってしまった。
「セイ、バー」
少年が喘ぐ。影に蝕まれた視界に映る彼は、随分面変わりしていた。戒めを解いた褐色の左腕は爆発的な魔力を放出し、今や彼を飲み込もうとしている。
「……シ……ロウ……」
今の彼女には意味のない名前。それが口をついて出たのは、何故か。
体を破壊し、心も砕くほどの魔術を行使し、死人同然の顔色で、彼女を見下ろす少年。その振り上げた手には、鈍く輝く短剣がある。
「…………シロ……ウ……」
ライダーによって必殺の宝具、エクスカリバーを封じられた彼女だが、魔力の大部分を失っても未だ、余力があった。サーヴァント相手では心許ないが、もはや壊れかけている未熟な魔術師一人、振り払うには十分すぎるほどに。
だが、彼女は動かなかった。
魔力を充填した短剣がその胸に突き立てられるまで、一切動かなかった。
なぜ?
……分からない。
ただ、彼女は従順に、死の鉄槌を受け入れるしかなかった。そしてその一撃は、弱った彼女の心臓を間違いなく貫き、速やかに破壊した。
「っ……!!!!」
喉にこみ上げる血。滞る脈。視界は真の闇に染められ、何もかもが失われていく。
今世で、二度目の死。絶望に悲鳴を上げる魂を、世界は容赦なくあの悲劇の丘へと引き戻す。
その圧倒的な喪失の中で。
彼女はほんの刹那だけ、消えたはずの記憶を思い出した。
(そう――シロウ、あなたは)
皆を守ると宣言しながらその実、誰をも受け入れる事が出来なかった、未熟で、愚かで、頼りなかったこの少年は。
『やっと。人を愛する事を、知ったのですね』
例え世界を敵に回しても構わず、自分自身を破壊しても構わず、ただ一人……心の底から愛する女の為に、かつての従者をも手にかけられるようになったのだと。
『なら……任せて、いける』
闇が総てを覆い尽くす。意識が消える。最後の夢の中、セイバーは目を閉じた。
影に飲み込まれる事で、絶えずこの身中にまであふれ出していたあの少女の叫びを、彼なら止める事が出来るのだと、そう確信し――そして、衛宮士郎が人の心を得た事を、何よりも喜んで。
「……ありがとう。おまえに、何度も助けられた」
血を吐くようなマスターの労いに微笑み、静かに、自らの死を受け入れたのだった。