やさしくあたためて

 それはある冬の日のこと。
 いつものように夕飯の支度に没頭していたアーチャーはふと時計を見て、眉をあげた。
(もう六時半じゃないか。マスターにしては遅すぎるな)
 彼のマスターたる少女は普段なら学校からまっすぐ家に直行するため、遅くても六時には帰宅して、リビングのソファにくつろいでいるのだ。
(また生徒会の連中に捕まっているのではなかろうな。いや、それなら必ず電話をよこすはずだし)
 以前、生徒会長のレオや副会長の遠坂凛に引き止められて遅くなった時に、友人と遊ぶのは構わないが連絡はきちんとするように、アーチャーは懇々と説教していた。それ以降、用事がある際は必ず電話が鳴ったものだが……まさか気づかなかったかと目の前のカウンターに置いた携帯電話を手に取ってみるが、ディスプレイには何の知らせも出ていなかった。
(……まさか帰り道で何かあったのだろうか)
 にわかに心配になって、アーチャーはキッチンからリビング、廊下のクローゼットへ素早く移動しながら携帯電話をダイアルする。それを耳に当てようとした時、
「……ただいまー」
 廊下の先の扉が開いて、当の本人が姿を現した。
「マスター、遅かったじゃないか。一体どこで何を……何だその恰好は! 通り雨にでもあったのか!?」
 少女の姿を目にした途端、問いかけの声が途中で跳ね上がる。駆け寄ると、髪もコートもびしょ濡れの少女は、頬を真っ赤に染めて、あはは~とのんきに笑った。
「アーチャー外見てないの? 今すっごい雪降ってるんだよー、ちょっと積もり始めてるくらい」
「雪? 天気予報では言ってなかったが……」
 言われて、玄関の脇にある、光取り用の長方形の窓を見やると、暗く沈んだ闇の中にちらほら、白い影が垣間見えた。どれだけ降っているかはわからないが、
「それでは今の時間まで、君は外でずっと遊んでいたというわけか? こんなに体が冷えるまで、私にも連絡をよこさずに?」
 すっと握った手はやはり真っ赤になっていて、氷のように冷たい。切りつけるような鋭さで詰問すると、少女はうう、とうなだれた。
「……ごめんなさい。だってこんなにいっぱい雪降るの珍しいから……つい、凛達とはしゃいじゃって」
「やはり生徒会連中と遊びまわっていたのか……」
 おそらく彼女も率先して楽しんでいたのだろうが、あの面々では、彼女を煽りこそすれ、諌めることなどしないだろう。
 全く何て馬鹿な事を、と苦言が口から出そうになったが、アーチャーはぐっと飲み込んだ。濡れて色まで変わった革靴を脱いだ彼女を風呂場へ連れていき、棚からバスタオルを取り出して、ばさりと頭に投げつける。
「ともかくそれでは風邪をひく。今風呂をわかすから、着替えて髪を拭くんだ。説教はそのあとだ、いいな、マスター?」
「はぁい、わかりました」
 わしゃわしゃと髪を拭く彼女の横で、自動給水のパネルボタンを押すと、浴槽の側面にある吸水口から水があふれ出し、すぐに湯に切り替わって浴室がもうもうたる湯気に包み込まれた。設定した水位になるまでには少し時間がかかる、その間に彼女にスープでも飲ませるかと、脱衣所を出ようとしたアーチャーは、
「ん?」
 不意に後ろからとんっとぶつかってこられて驚いた。何を、と見下ろすと、タオルをかぶった少女がアーチャーの腰にしがみつき、
「やっぱり、アーチャーはあったかくて気持ちいいね。こうしてると、ほっとする」
 こちらを見上げて、にっこり、妙に嬉しそうに笑ってみせた。
「…………」
 自分にしがみつく華奢な少女は、回された手も、背面に張り付く柔らかな体も、何もかもが冷え切っていて、氷柱のようだ。ふう、とため息を漏らしたアーチャーは少女の腕をほどいて向き直り、
「君は私を便利な暖房器具か何かと勘違いしているのかね。……そんな可愛いことをされると、いたずらをしたくなるのだが」
「えっ」
 驚いて目を瞬く少女を自分の両腕で包み込んで、逃げ出す隙も与えずにぎゅっと抱きしめたのだった。