――何故こんなに不安になるのだろう。自分は何があろうと彼女を守るだけだと、心に決めているのに。
記憶を失う事には慣れていた。
延々と続く地獄の中で、懐かしい思い出はそぎ落とされるように消えていき、英霊となった今では、ただ座の中に記録が積み上がっていくばかりだった。
その空っぽな有り様については諦めていたはずだった。正義の味方という概念に成りはてた己が、まともな英霊として存在する事など不可能だ。
だからせめて必要以上に心を移さぬよう、事務的に自分の仕事をこなしていけばいいと考えていた。それなのに――
自身の前を、少女が走る。
小さく、細く頼りない、未熟者のマスター。欠点を上げれば数多く、しかしそれを補ってあまりある、不屈の精神と優しさ。味方どころか敵にさえ向けられるその性質を甘いと断じながら、好ましく、いっそ愛しくさえ思った。そして同時に、彼は恐れも抱いた。
――どうしてこんなに焦りを感じるのか。
以前と同じ茶色の制服に袖を通し、長い髪を揺らして走る華奢な背中を見つめていると――駄目だ、行かないでくれ――どぷん、と体が青い海の中に沈み、少女の姿が不意にかき消えてしまう。ゼロとイチで形作られた重たい水をかき分け、暗くなっていく奥へ奥へと懸命に進み――駄目だ、一人で行くな――「わっ!?」
どさっ、と唐突な衝撃で、視界を覆っていた青が布を取り去ったかのようにぬぐい去られる。見下ろすと自分の腕の中に、少女の小さな体がすっぽり収まっていた。
「ど、どうしたの、アーチャー? 敵でもいたの?」
目を丸くして少女がこちらを見上げる。無意識の内に少女の腕を掴み、両腕を回して抱きしめていた己の行動に自分でぽかんとして、
「……いや、何でもない。気にするな、マスター」
動揺を覆い隠して、彼女を解放する。少女は不思議そうに首を傾げたが、気を取り直して再び走り始めた。その背中を追いながら、アーチャーは我知らず顔をしかめる。
――この焦りはきっと、月の表で感じていたものなのだろう。
彼女と共に駆け抜けた聖杯戦争での記憶は、未だ戻っていない。アルターエゴの一人がそれを持っていると知れた事から、迷宮踏破、BBの打破に記憶データの奪還も目的の一つに加わった。
そしてその標的――パッションリップのシールドも、残り少ない。いずれ最後の戦いは避けられず、そこで勝利した暁には晴れて、彼らは完全な記憶を取り戻す事になるだろう。それは力を失ったマスターとサーヴァントにとって、大きな戦力になるはずで、これから先の戦いには無くてはならないものだ。けれど、心の奥底である思いが、澱のようにわだかまる。
――記憶を取り戻したその時、彼女を失う事になるような気がする。
何の根拠もなく浮かぶ考えが、頭から離れない。
――思い出したい。
心底から思う。彼女と共にあった大切な時間を全て思い出したい。
――思い出したくない。
心底から思う。彼女を失った時の悲嘆は、彼自身を打ち砕くだろうから。
「……っ」
アーチャーは理由の分からない息苦しさを覚え、走りながら声もなく喘いだ。喪失の恐怖は彼の足を捕らえ、体をはい上がり、静かに、確実に、絶望の淵へと沈めようとしていた。